トゥーマ 葛藤
毎日は信じられないほど穏やかだ。
あの日僕が大きくなるのを目の当たりにし、僕が、ジネさんが、そして自分が人間じゃないということを告げられたアンジェは、その時だけは目を白黒させていたけれど、僕の歳を聞いて自分と大差ないことを確認すると疑問がそれですべて片付いたかのようにあっさりと、弟には見えないから兄にするかと聞いてきた。
黙っていた上に驚かせた罪悪感もあり、何を聞かれるか、何を説明したらいいのかと洗面所から心の中でドキドキしていたのに拍子抜けだった。
おもわず「他に聞くことがあるんじゃないか」と、言いそうになったけれど、聞かれてもどう答えていいかわからないことを思い出してとどまった。
アンジェの存在は、時に波立つ僕の心をいつも落ちつかせてくれる。
ジネさんは、このままここである程度まで成長するのを待って、家を出て仕事をして、可能なら家族を得て死ぬまで過ごす。そういう人間の生き方ができる。と、番人の仕事として説明してくれた。
中にはそういった穏やかな生き方をせずに、自分の特性を生かして科学や芸術の分野で人間の生活に精一杯貢献し、早死にする選択をする者もいるそうだ。堕天使にとって、基本的に人間の生は罪を贖うことだからだ。自分たちとは違う種の中で、人間に尽くしたり貢献したり、人間の感情に揉まれ痛みを感じながら一生を過ごすことが贖罪だ。一生では足りず、二度、三度と繰り返す者もいれば、なぜか地上の暮らしが気に入ってずっと留まることにする変わり者も少数ながらいるという。
自分の犯した罪の分だけの贖罪を終えると、堕天使は次の生を選べるようになる。天に昇るか、人として生まれ直すか。他の生き物を選ぶこともできる。人として死を迎えるまでの一生をかけて、僕たちは決断する。
僕はその話を聞いてから考えている。これから何十年、もしかしたら何百年かもしれないけれど、僕が人間として生きて行かなくてはいけないことが変えられない事実で、人間に貢献して生きることができないなら、僕にはどんな生き方ができるだろう。
そもそも人間と付き合いたくないのだから、細々とひっそりと暮らした方がいいのかもしれない。次の生を選べるようになるまでどのくらいかかるだろう。
贖罪が必要だと言うなら、僕の犯した罪とは何で、どれだけの償いが必要なのだろう。どんなに考えても答えは浮かばない。
僕にできるのは自分の罪の内容も知らず、ただ償うことだけらしい。
理不尽、だと思う。
自分が経験した恐ろしい時間。痛み、苦痛、憎しみ、恐怖。それを与えた人間たちにこちらは貢献するような何かを与えなければならないなんて。近づくのも嫌なのに、どうして僕があんなに醜悪な生き物のために生きなければならないのか。
僕が今人間の世界に出て行ったら、きっと僕はこの不快な感情に潰されてしまうと思う。首の枷は取れたけれど、背中の傷は癒えたけれど、与えられた痛みと記憶は消えたわけじゃない。僕は人間を恨んでいる。もちろん全ての人間を恨んでいるわけじゃない。ジネさんやアンジェを助けている人間がいるのはわかっているし、人間同士助け合ったり慈しみあったりして生きている人だっている。――僕を酷い目に遭わせた人たちだって、中には自分のためじゃなくて、自分の家族を病や苦しみから救って欲しいって、そういう思いで近づいた人はいた。たとえ言葉として理解できなくても、お金や地位をお求めるだけの訴えとは違うってことくらいは感じていた。でもどんなに訴えても、僕には何もできないし、だからって痛めつける理由にはならないと思うけれど。
僕が人間のために何かする、そんなことができるようになるのだろうか。
それだけじゃない。今の僕は人間だけじゃなくて自分の仲間だった者たちも恨んでいる。突然、原因も分からないまま翼を毟り取られ烙印を押されたあの時の痛み、通常なら与えられるはずの知識もないままに地上に堕とされたこと。――人間たちを恨む原因を作ったのは同種の仲間たちだと言えた。たとえ贖罪が終わっても、きっと僕が空に帰りたいと思うことはない。そんな気がする。
どこまでも続く空に翼を広げて飛ぶ、あの感覚をどんなに懐かしいと思っていても。
それに僕は片翼だ。たとえ再び飛びたいと思うことがあったとしても、僕はもう飛べない。
更に加えて、翼を出現させることは、地上では禁忌だ。
ジネさんにも言われたし、覚えてもいたけれど、地上に堕ちた天使たちは、狩りの対象だ。人間としての生を生きる堕天使たちには翼を出すことは許されない。命の危険など、避けられない状態で翼が出現することがあるし、強い意志を持って無理やり具現化させる者も中にはいる。けれど、翼を具現化したその途端、その理由が何であれ堕天使は狩りの対象になるのだ。
堕天使たちが持つ黒い翼からは、白い翼を持つ者が容易く感知する波動が出ている。特に堕とされたばかりで贖罪が足りていない者たちの翼は強い波動を出すし、色も黒く、同種であっても仲間ではないことが一目瞭然だ。加えて、僕たちには烙印がある。捕まえて調べれば、体のどこかに罪を犯した者の印があることはすぐに分かる。翼は贖罪を重ねるうちに、だんだんと色が薄くなり、天に帰るころにはほとんど真っ白になるらしいけれど、地上で出現させるとその具現時間に比例して再び黒く染まっていく。烙印が消せるのは、熾天使セラフィムの炎だけだ。堕天使が天に戻ったとき、最後の贖罪としてセラフィムの炎に焼かれると、新しく生まれ変わると聞いている。つまり許されて天使として生まれ変わるときの選択だ――ジネさんの薬で薄くなっているのがなぜなのかまったくわからない。
もしかして押しては見たものの、後悔したとか? そんなはずないか。ばかばかしい。
烙印を押されて空を追われた堕天使たちは天の御使いとしての活動はできない。だから本来の天使と同じとはみなされないし、その存在は人間たちに大っぴらに表していいものではなく、汚点として抹殺の対象になる。堕天使を狩るのはカマエルの下にいる能天使たちの仕事だ。パワーズと呼ばれる彼らはけして穏やかとは言えない天使たちの中でもとりわけ強く攻撃的な存在だ。
僕が狩られなかったのはおそらく翼が出現していた時間が短時間だったことや、地下に連れ込まれて波動が弱まっていたせいで、居場所が特定できなかったからだと思う。それをよかったと思うわけではないけれど。
ぼくがぐるぐるぐるぐる堂々巡りの思考に陥ったり、辛い記憶に潰されそうになると、いつもアンジェが嗅ぎつける。そして隣に座ったり、散歩に誘ったりする。
いつも笑顔で。
アンジェは不思議だ。
三歳くらいでここに来たというアンジェには罪を犯した記憶もないし、なにより罪を犯す機会があったようにも思えない。実は三歳じゃなくて三十歳だったりしないのか、何度目かの人生じゃないのかとジネさんに確認したけれど、間違いなく実年齢で堕とされたそうだ。
だとしたら、それはある意味僕よりも理不尽な扱いだと思う。
だけどアンジェは自分が天使の仲間かもしれないと聞いても僕が堕天使だと知っても、たいして取り乱しもしない。地上に堕とされたことに対して僕みたいな疑問を抱くこともなく、「わたし、ここが好きだから」そう言って全て受け入れて、受け止めて、他者を癒しながら生きている。
生きることを贖罪だとも思わず、見返りも求めず、笑顔で。
僕みたいな得体のしれない存在も、最初から受け入れて、一緒にいてくれた。
僕の恐怖や混乱、人間に対する憎しみの気持ちを非難することもなく、寄り添って癒してくれる。
これからの見通しは少しも立たない――なにしろ人間で言えばまだギリギリ子どもの年齢で、僕はこれから成長しなければ誰の役にも立てないんだから。だけど、アンジェがいると、僕はなんとなく大丈夫だっていう気持ちになる。
秋が終わるころには、僕はアンジェと学校に行ってみようかと考えるようになっていた。
トゥーマの内面はいろいろ大変です。学校生活が始まります(*^^*)




