ぼくの正体
考えをまとめたくてしばらく黙った。
確かにぼくは堕天使だ。でもぼくはどうして自分が堕天使になったのかわからない。目の前に座っている女性は、ぼくが堕天使だと知っていて、他の堕天使と違うと言った。ぼくには何が違うのかもわからない。
「ぼくのことを話すので、ぼくのことを教えてください」
ちょっと変な言い方だけど、そう前置きして話し出す。
「ぼくの記憶が正しいなら、名前はトゥマリエル。智天使ケルピムに連なるデュナミス様、その補佐をするウリエル様の下で学んでいたはずで……ぼくたちはあまり年齢を自覚しないからだいたいですが、歳は本当は十七くらいのはずでした。自分の記憶にある最後の姿ではたぶん十二か十三歳くらいのはずで、それは地上に堕とされたときに姿を変えられました。それも罰の一つだと、人が生きていくのが一番難しい年齢だと言われました。でも、ぼくは今それよりももっと小さい。それに、外見も今とは全く違っていて、髪も目もこんな真っ黒じゃなかった。身体だってこんなに小さくなかったんです。でも今のぼくは髪も目も体も……どうしてこうなったのか、わからないし、空にいたころの記憶も、下に来てからの記憶もところどころ曖昧で、何が本当なのかどうかもわからないんです。
何の罪を犯したのかもわかりません。ただ、あの日呼びだされて、突然捕らえられ、重罪を犯したと言われました。一目でわかるように烙印を押され、右の翼をもぎとられ、この烙印は消えない、翼も二度と戻らないと言われました。だからぼくは飛べないんです。ぼくは片翼だし、その片方しかない翼でさえもうずいぶん現れていない。
下に堕とされたあとのことで、最初に覚えているのは、人間に会ったことです。顔も背中も焼けるように痛くて、どこにいるのかもわからなかったときに、人間がぼくを見つけた。何を言っているのか、言葉は一言もわかりませんでした。ただ連れて行かれて、部屋と食事と服を与えられて、怪我の手当てもしてもらった――いい人なのかもしれないと思いました。でも、うまくいかなかった。その人の話す言葉はひとつもわかりませんでした。いつも紙の束を抱えていて、不満や憤りばかりを抱えた人だった。ぼくがいることも不満だった。だからどうして助けてくれたのかわからない。
ぼくはその部屋を出て、人間の中を渡り歩いた。人から人へ――次第によくない方向に進んでいるのがわかったけれど、食べ物と居場所が必要だったし、悪い思考を持っている人間にはできるだけ近づかないようにして、どうにか過ごしてた。……そんな時、一緒にいた人間が喧嘩に巻き込まれて。ぼくは助けたかった。でも、全然かなわなくて、蹴られて、金属の棒で殴られて、気がついたら一人で窓のない部屋にいたんだ。
それから……それからは――」
それから自分に起こったことは、とても口に出せそうになかった。ジネさんの話から考えれば、きっとあの時、人間は片方しかないぼくの翼を見たのだろう。気がついた時には首には鉄の輪がはめられ、壁につながれていた。それからは昼夜なくひたすら苛まれた。ぼくに恐怖を与えることで現れる翼を人は喜んだ。ぼくは殴られ、蹴られ、見世物にされた。
最初の頃はぼくに特別な力があると考えて『お願い』をする人間たちもいた。金持ちになるため、病気を治すため、誰かを蹴落としたり、不幸にするために『お願い』を抱えてやって来る人間たちに、ぼくが叶えてやれることなんて何もない。ぼくは神様じゃない。空にいた時だって、他のみんなよりちょっとだけ頭がよくて、見目がいいだけの存在だった。人間より丈夫な体をしているのは確かだけれど、何の力もない。ぼくが何もできないとがわかると、ぼくを「所有」していた人間は腹を立て、ぼくを罵り、さらに暴力的になった。
なにもできないぼくは、見物していた誰かに売られた。そして同じようなことが起こり、次の人間の手に。また次の人間の手に。どれだけ続いたのかわからない。虐待の毎日。そのうちぼくは新しい人間の手に渡っても、今度こそは、なんていう希望は抱かなくなった。誰も助けてくれる人なんていない。ぼくは全ての感情と感覚を切り捨てた。恐怖や痛みを感じなくなると、翼も現れなくなった。
あの日も人間は、ぼくを売ることにした、と言った。部屋の隅には鉄の檻が置かれていた。たとえ見た目が損なわれていようとも、もとはいい素材だし、そういった趣味の人には高く売れる、と言って人間は笑った。傷物が好きなら傷がいくつ増えてもかまうまい、どうせなら骨がどうなっているか見せてもらう――そう言ってまた笑うと、刃物を持って近づいてきた。逃げられないのはわかっていた。首にはめられた輪は鎖で檻につながれていて、どんなに力をこめても外れない――どうせこめる力もない。抵抗できないぼくの背中を刃物が深く抉った。痛みは感じなかった。それでも、金属の刃が骨に達してぶつかった感覚があった。――。
口にできない。言葉を発したら吐きそうだ。
ぼくの次の記憶はあの船の中だ。アンジェの手をつかんだあの時まで、ぼくは感覚を失っていた。
言葉を失ったままのぼくに、ジネさんが穏やかな声で言った。
「話さなくていいよ」
大きく息を吐いてからジネさんが続ける。
「君の姿かたちが記憶と違うのは、地上に堕とされた時のように何らかの力が加えられたのかもしれないし、地上にいる間に周りに合わせて勝手に変わったのかもしれないから何とも言えない。人間と同じような姿かたちをしていたほうが暮らしやすいのは確かだし、十二、三歳よりも七、八歳くらいのほうが保護欲を掻き立てるだろうし……確証はないけれど。
アンジェだってそうよ。ここに来た時の姿と、他の人間たちの中に混じってで暮らすようになってからは少しずつ変わってる。小学校に入る前のあの子ときたら、人間がみたらその場で誘拐しそうなほどかわいらしかった。でも、あの子は少しずつ変わっていった。ここは小さな島だし、触れ合う人間は少ないけれど、自分に向けられる視線や言葉をちゃんと感じ取って、自分を埋没させる選択をしたのね。それは生きるための選択よ。
堕天使たちは人間と同じように歳をとって死ぬ者もいるけれど、ずっと長い間姿を変えながら生きていく者もいる。でも、そっか、本当は十七か。でも堕とされた時の姿はアンジェと同じくらいなのね――十二、三の姿で一度死んで、今の姿で二度目の人間生活を送ることになったっていう可能性もあるわね。どう思う?」
「死にそうな目に遭ったのは確かですが、死んだのかどうかはわかりません。でも右肩の傷はあの船に乗せられる前につけられたものでした。それがそのまま残っていたということは死ななかったんじゃないかと思います。複数回人生を送る人たちは年齢を選べるんですか?」
自分でで選べるとしたら、こんな非力な状態で生まれ直したいとは思わないけど。
「赤ん坊として生まれる人もいるよ。全てを人間にゆだねて生きるんだ。どんな人間のもとに生まれるかもわからないけれど、それを受け入れて生きることは大きな贖罪になる。環境や親によっては命を失う可能性もあるからね――」
ジネさんが立ち上がって外を見る。
「お茶にしようか。アンジェが帰ってくる」
ぼくも外を見た。緑の植物の向こうに見える青い空の奥で、白い鳥が輪をかいているのが小さく見えた。
アンジェは本当にじきに海から戻ったけれど、その表情は硬かった。
ぼくの隣に寄り添うように座ってから、誰かがぼくを探している可能性があると言う。あやしい船を見たと言って海の方を見た。
背中がぞくりとした。
人間はあきらめていなかった。
ぼくを手に入れたからってどうなるわけでもないのに。彼らが抱えた困難も、痛みも、病も、自分自身の努力なしにはけして改善しない。それでも人間はぼくを捕らえ、鎖に繋ごうとする。縋りつき、要求ばかり突き付けて、そのどれもが叶えられないと気づくと手のひらを返して泣きわめき、暴力をふるう。醜く、おぞましい生き物だ。
ぼくは人がうらやむような容姿と知性を授かった。神に愛されたと言われ、それがぼくの罪だと言われた。ぼくは堕とされた。烙印を押され、もう飛べない。そして人の手に落ちた。ぼくは汚され、傷をつけられた。
これが贖罪なら、いつそれほどに重い罪を犯したのか。
逃げられないのか。
歯を食いしばった。人の手が追ってくる。どこまでも追ってくる。
現実に打ちのめされているぼくの肩にジネさんが優しく触れた。お茶のカップを渡してくれる。
「さて、トゥーマ。アンジェの弟としてここで暮らすつもりはあるかい?」
さっきまでとは違う少しかすれた声。アンジェの祖母としておかしくないように偽っているのだと気づく。目を向ければ、背も少し前かがみになって年齢を感じさせる。
軽い口調で突然言われたので、言われた内容がすぐにはわからなかった。
「もうちょっと様子を見てから話そうと思ってたんだけれど、このままだとふたりとも落ちつかないだろうから――」そう前置きしてジネさんが続けた。
「トゥーマは当面の行先がないようだから、このままうちにいてもらう。アンジェは小学校に通っているからあと十日くらいで二学期が始まるし、当然トゥーマのことも通わせてやりたいけど、今は目立ちたくないからすぐには学校に通わず、このまま家にいて様子を見たほうがいいと思うよ。
特に、顔の火傷の後は目立つし目印にもなるから、誰かに見つかると別人だとごまかせない。二学期の間は外に出ないようにして、わたしの手伝いをしながらここで過ごして、問題がなさそうなら、アンジェの弟として三学期から学校に行くといいんじゃないかい。アンジェの両親には伝えておくし、きっと反対はされないよ」
そう言ってぼくに片目をつぶってみせた。
「そのころには顔の火傷の痕もずいぶん薄くなっているはずだけど、学校に行きたくならなかったらここにいる時間を延長してもいい。
幸いうちの住人はみんなちょっと変わっていると思われているから、アンジェの両親が海外から弟を送り込んだって言えばそういうもんだって思ってくれるし――ただし見た目がちっちゃくても学力が高いから、勉強ではちょっと手を抜くことは必要だし、いろんな人に会うことになるから学校に行くことにメリットがあるかどうかはわからないよ――だけど、学校に行っていない子どもが家にいるってのは誰かに知られたときに外聞が悪いし、言い訳が必要な事態はできるだけ避けたいからね」
そう言った後で、ジネさんはまじめな顔をした。
「これは、大事なことだよ。外に出るならいろいろ変えなくちゃならないこともあるし、教えておかなくちゃいけないこともある。だけど、ふたりともちゃんと覚えられるだろう?」
ぼくはジネさんをじっと見つめて、ちら、とアンジェを見た。ぼくが家族としてここで暮らせば、二人の生活を変えることになる。ぼくを探している人間もいる。二人がここで人目を避けてひっそりと暮らしてきたことはわかっている。その暮らしに変化が生じることに不安はないのだろうか。自分の家族として迎え入れる、と言われているのに。
アンジェは――むしろ嬉しそうに見えた。
「だいじょうぶ。手伝うよ」
そう言って笑った。本当にわかっているのかこっちが不安になる。素性も知れず、海には追手らしき船も来たというのに。
「なにその顔。だいじょうぶ、わたしがいるんだから心配ないって。それに、学校に行くなら小さいうちの方がいいんだよ? 間違えても笑って許してもらえるし、仲のいい友達もできるし、勉強……は、トゥーマには必要ないかもしれないけどさ」
見当違いのことを心配している。
「とにかく、よく考えてごらん」
ジネさんが少しあきれたような顔で笑いながらぼくに言った。
さっきまであんなにも怖かったのに、どこまでも呑気なアンジェの力説になんだか気が抜けた。
「二人がそれで構わないなら――だけど、」
ぼくはそう言って胸もとに手をあげた。ジャラと、鎖が音をたてる。
「これ、外すことはできますか?」
ありがとうございます。続きがんばります。




