トゥーマ 新しい暮らし
アンジェはこの家にジネさんと二人で暮らしていて、ありがたいことに訪問する人間はほとんどいなかったし、二人もほとんど外出しない生活をしているらしかった。家に至る道は一本道で、反対側は海へ向かう小道だけ。誰かが来てもすぐに分かる。
自分の見た目が幼いせいもあるのかもしれないけれど、この二人には悪意がない。アンジェには警戒心もまったくない。基本的にいつも穏やかで、こっちのことを心配している。そして、ジネさんのほうはそんなアンジェのことを大切に思うと同時にとても心配している。ここにいれば安全だとは思うけれど、他の人間がけして安心できる存在ではないということは、これまでの経験から骨身に染みている。
気を抜くわけにはいかない。この二人が特別なだけだ。
二人への警戒心が次第に薄れても、けして自分の本当の姿は見せず、そして来客にはどんな姿も絶対に見せず、窓や出入り口には近づかないように気をつけないと。
四、五日もするとこの二人が特別なのは行動や性格だけではないことがわかった。アンジェに癒しの力があるだけではなく、ジネさんのほうにも特別な力があるらしい。音に意味を乗せて意思を伝えることはないけれど、背中と顔に塗られたジネさん特製の薬は信じられないほどよく効いた。四日もすると骨にまで達していたはずの背中の傷がふさがり、痛みが引いた。それはまだいい。顔の火傷痕が薄くなってきたとアンジェが嬉しそうに言ったときは驚いて脱衣所の鏡で確かめた。消えないはずの醜く赤黒い痕が、わずかに薄くなったように見えた。皮膚も柔らかくなっている。
毎日朝晩、アンジェがゆっくり摺り込むように薬を塗ってくれていたから、アンジェ自身の癒しの効果も大きいと思う。それでも、一目で罪がわかるようにと、消えることはおろか薄れることもないはずの烙印として与えられたこの火傷跡に変化があったことが信じられなかった。
いったい何をどうしたら、こんな薬ができるのかわけがわからない。ジネさんが育てている植物に秘密があるのかもしれない。じっくり聞いてみたい。ジネさんもときどきじっとこっちを見ているから、むこうにも聞きたいことがあるのだと思う。でもなんとなく、アンジェの前では聞きにくかった。
アンジェからはたくさんのことを学ぶことができた。物の名前や使い方もだけれど、一番役にたったのは言葉の使い方を教わったことだ。最初はアンジェが話す言葉のうちでも特定の言葉の意味しか分からず、その意味と耳に聞こえた音を照らし合わせていく状態が続いた。会話をしながら頭の中に集めていったけれどなかなか捗らず、アンジェはともかくジネさんとの会話に困った。
そんな時「夏休みの宿題」だという薄い本を開いているアンジェを見てふと思いつき、内容をはっきりと声に出して読んでもらうことにしたのがよかった。見た目年齢を利用して隣に座り、肘や膝が触れた状態で音読してもらえば、口にした音の意味がアンジェの心に反映されて伝わってくる。会話文を読んでもらえば使い方もわかる。読めるものは何でも読んでもらって語彙を増やしていき、それまでうまく伝えられなかった感情の表現もちゃんとした言葉になっていった。
そのうちジネさんが国語辞典と漢字辞典を貸してくれた。最初は細かい文字の違いを見分ける必要がある漢字辞典にてこずったけれど、語彙をぐっと増やすことができたと思う。おかげでジネさんとも話ができるようになった。
どうにか会話が成立するようになったころ、ジネさんは待っていたかのように自己紹介に混ぜてこの島のことを教えてくれた。趣味は植物を育てることで、仕事が薬を作ることと売ること。
この家の建っている島の地形と、そんな立地もあって人づきあいがほとんどないこと。この家にやって来るのは山の上に住んでいる和友さんという信頼できる男性で、今は二、三日おきに様子を見に来る。その人は手紙や荷物を持ってきてくれるし、あまり外に出ないジネさんの代わりに買い物もしてくれる。お弟子さんが二人いるけれど、アンジェが休みの今はここに来ることはない。時たまお客さんが来ることもあるけれど、数は少ないし島に住んでいる人間のことは知っていて顔を見ればわかる。それから、他の土地に住む人とは船でしか行き来がないから安心していい――そう付け加えて、そうでしょう? と尋ねるようにこっちを見た。
ジネさんはぼく――自分のことはそう呼ぶように教えられた――が知りたいことを的確に教えてくれた。言葉も態度も小さい子どもに向けたものではなく、きちんと一人前に扱われている気がした。
ぼくはジネさんを観察した。ジネさんもよくぼくを観察していて、お互い聞きたいことがあるようだったけれど、アンジェの存在がストッパーになっていた。
ジネさんは家ではたいていサンルームと呼ばれている陽の光がよく当たるガラス張りの部屋にいて、植物を観察したり植物に語りかけたりしながら過ごし、いろいろな材料を集めて薬を作る。普通の薬も扱っていて、それをいいことにあれこれ混ぜたりしながら新しい薬効を探したり、さらに効果を強めたりしているそうだ。けれど、それは他の人には秘密だ。でもぼくに対して秘密にするつもりはないらしく、むしろ積極的にやり方を教えてくれる。
外から見られる可能性がある場所にはいたくないからアンジェに二階に移るように言われると困る、と話すと、ひとりで過ごせる場所が欲しいなら地下室があること、そこなら他人の目につかないし、移りたいかと聞かれた。
地下なら他の人間に見つかる可能性は低い。でも、誰か来た時に気づけない可能性もある。もしアンジェやジネさんが誰かを引き入れたら、逃げられないかも――でもこの二人はそんなことをするようには見えない。
ぼくはじっくり考えた。地下まで離れれば、夜中にアンジェを起こさずに済むかもしれない――ぼくが夜中に夢でうなされると、いつもアンジェが起きてくる。そして優しく頭をなでて安心させてくれる。ありがたいけど実に不本意だ。自分より小さい(見た目は違うけど)異性に迷惑をかけているのは恥ずかしいし――そう思って、アンジェが洗濯物を干しているときに地下に連れて行ってもらった。けれど、結局そこを自分の居場所にすることはできなかった。全面が壁の空間に足を踏み入れたとたんに手足が震え、冷汗が噴き出てきてどうしようもなくなった。
情けないと思うけれど、窓のない空間に閉じ込められていた恐怖は簡単には消せないみたいで、もうしばらくはこのままの状態を続けるしかないようだ。
居間に戻ってため息をつくと、ジネさんが「そのうち落ちつくよ」と慰めてくれた。
ぼくたちは少しずつ距離を縮めていった。
ぼくが来てからアンジェが海に行くことはなかった。だから知らなかったけれど、アンジェは海が大好きで、毎日のように泳ぎに行っていたらしい。ぼくのこともたまたま海に行って見つけたとジネさんが教えてくれた。あの時アンジェが来てくれて本当によかったと思う。それに、アンジェがいないと意思の疎通に困る僕のために、海には行かずに一緒にいてくれた。ぼくがこれまで接してきた人間たちとは全然違う。
ジネさんとも問題なく話せるようになったころ、ジネさんはアンジェにまた海にいくように勧めた。ぼくたちはアンジェを送り出し、居間で向き合って座った。
ジネさんはさっそくといった様子で切り出す。なんだか声が若々しくなって、姿勢もよくなったように見えた。さっきまでは五十代くらいに見えたのに、今は三十歳くらいに見える。ぼくは目を瞬かせてジネさんを見つめたけど、ジネさんのほうはまったくおかまいなしだ。
「どの程度気づいているのかわからないけれど、わたしたちが違うってことはわかっているんでしょう? アンジェは特別な子で、だからこそこの島で育てているし、あと数年は人が大勢集まるところには連れて行かないつもりなの。わたしはあの子を守らなければならないし、そのためにここにいる。君が特別なのもわかるけど、どのくらい関わることになるかは今の時点ではわからない。そういうわけだから今のところわたしが一番気をつけなければいけないのは君なんだけど――」
そう言って笑顔をつくったけれど、眼鏡の奥の瞳は真剣だ――細められた目の横にはあるはずの小じわがない。やっぱり、いつもよりずっと若く見える。
「そんなわけで君の目的が知りたいの。とりあえず困っているのは本当ね?」
ジネさんは知的な人だと思う。聞かなくてもぼくが知りたいことを教えてくれたし、全てを詳らかにはしなくても自分たちに秘密があることを隠さず、ぼくにも秘密があることに気づいていると知らせて協力できるかどうかを聞いている。ぼくは自分に害意がないことを示すために頷いた。
「話せないことはあるけど、アンジェに危害を加えないと約束したら、このままここにいさせてくれますか?」
アンジェにはすでにここにいていいと言われたけれど、もう一度聞いた。秘密自体を知ろうとするのではなく、協力できるかを知ろうとしているところに好感が持てたし、ぼくがここに来た日はずいぶん困ったような顔をしていたから、あの時はアンジェの手前頷いただけかもしれない。ちゃんと聞いておきたかった。
「ここにいるのは構わないし、その秘密とやらもわたしには隠す必要はないんじゃないの? アンジェには、黙っててもらえると助かるけど。少なくとも、もうしばらくは」
そう言ってほっとしたように笑った。やっぱり見間違いじゃない。ずっと若く見えるし、今まで気がつかなかったけれど、すごくきれいな人だ。
「君は見た目ほど小さくはないようだとは思っていたけど、どうやら大人でもないのね。誰かに送り込まれたわけでもないようだし、人から隠れようとしてるのは本当みたいだし。とりあえず、さっきも言ったようにわたしが知りたいのは君がここに来た目的なんだけど、教えてもらうわけにはいかないかな? 場合によっては協力できると思うの。ねえ、逃げ場所はひとつもなかったの? 飛んで逃げられたでしょう? 君は地下室に入ることさえできなかったんだし、よっぽどひどい目に遭ったんだもの、どうしてそれだけのことをされる前に飛んで逃げなかったの?」
ぼくはぎょっと目を向いて、目の前に座っている赤毛の女性をじっと見た。
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