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アンジェ 三人の生活

 それから二、三日のトゥーマは本当に怪我をした野良猫のようで、常にわたしとジネさんがどこにいるのかを警戒しているみたいだった。いつも不安で怯えていて、外の物音に耳を澄まし、常にびくびくしていた。動くときも足音を忍ばせて、ゆっくりだ。とりあえず、といったように居間のソファにおとなしく座っているけれど、絶えず緊張しているように見えた。


 二階のわたしの隣の部屋をトゥーマの部屋にできるように片付けたし、ひとりになれる場所があった方が安心できるんじゃないかと思って二階に行くことを勧めたら、なぜかますます怯えたようにフルフルと首を振って否定した。二階にお布団を敷いた方がゆっくりできるから、と言っても聞き入れず、寝るときも居間のソファに横になった。


 そして眠っても、怖い夢を見る――トゥーマがうなされるとなぜかわたしは目が覚める。たぶん弱っているトゥーマに引き寄せられているんだと思う。ソファの上で丸まって石みたいにがちがちになって眠っているトゥーマに声をかけてなでてあげるのが毎晩の日課になった。わたしが触るとトゥーマはピクリと体を震わせるけれど、少しずつ体の力を抜いていき、そのうち穏やかになる。わたしは夜中に起こされることもあって、ちょっと寝不足だ。本当はすぐに行ける二階の隣の部屋に移って欲しいけれど、よっぽど行きたくないみたいだ。ほとんど喋らないから理由はわからないけれど、窓が大きくて海が見えるせいかもしれない。カーテンはあるんだけど。でもひどい目に遭って、あんなふうに船に乗せられて、溺れた経験があればしかたないのかも。


 一切外には出たがらず、窓にも近づかない。わたしたちは当面はトゥーマの存在を秘密にしておきたかったし、外に出ないようにした方がいいとは伝えてみたけれど、小さい男のことだから難しいかもしれないと思っていたのでその点ではとても助かった。


 とにかくひどく怯えていて、ここにきて二日目に初めて和友さんが来たときは声を聞いた途端に部屋の隅に張り付いて動かなくなった。ひたすら怯えて警戒しているようすが痛々しくて、そっと近づいて大丈夫だと声をかけ、隣に座ってみたけれど、結局和友さんが帰るまでずっとそのままだった。


 あんまりかわいそうだったから、その日の夕方、ついでに洗ってあげるから一緒にお風呂に入ろうかと誘ったら、真っ赤になってすごい勢いで首を横に振って否定された。……年齢を覚えていないみたいだったから、見た目で小学校低学年だろうし大丈夫かと思ったんだけど、小さくても性別が違えば一緒にお風呂に入ったりしない習慣で育ったみたい。元気は出たみたいだったし、もちろん強制するつもりはないから給湯器のスイッチやシャンプーなど、使い方を一通り説明して後は好きにさせた。


 さらに三、四日もすると顔色もよくなり、ジネさん特製軟膏のおかげで背中の傷も跡を残してふさがった。ご飯もよく食べて、動きも落ちついてきて、だいぶ元気になったのがわかる。


 背中の怪我とは違い、顔の傷はどうやら時間が経過した火傷のようだった。出会ったときは驚いていたし水で濡れていたせいで気づかなかったけれど、よく見れば皮膚は赤黒く固くなっていた。トゥーマは最初、顔の傷を見せるのを嫌がったけれど、手を握って、薬を塗るだけだとゆっくり説明すると、わたしが絶対に譲らないとわかったらしく、諦めてくれた。どの程度回復するかはわからないとジネさんに言われたけれど、それでも毎日朝晩ジネさん特製の軟膏を塗ってマッサージしておいたら、少しずつ硬かったところがやわらかくなって、心なしか色も薄くなってきた。そう言ったらトゥーマは酷く驚いて鏡をのぞき込み、自分の頬に触れながらしばらく観察していた。そんなトゥーマを見てわたしは嬉しくなった。ジネさんの薬は本当によく効く。


 火傷の手当に慣れてくるころには、トゥーマはぽつりぽつりと単語で話すようになった。

トゥーマが来てから、わたしは海に行かなくなった。それまではほぼ毎日行っていたけれど、怯えた様子のトゥーマを残して行くのはかわいそうで、慣れるまではできるだけ家にいることにしたのだ。別にジネさんがトゥーマに冷たいわけではないのだけれど、トゥーマもわたしといるほうが安心するらしく、いろいろ聞きたいこともあるみたいだし、しばらく我慢することにした。それにちょっとお姉ちゃんになったみたいでいい気分だ。


「アンジェ、これ、何?」

「アンジェ、どこ、行く?」

「アンジェ、これ、どう使う?」


 まるで小学校に入ったときのわたしが拓海につきまとっていろいろ教えてもらったように、トゥーマは何でも聞いてくる。よくわからない質問もあったけれど、わかる範囲でできるだけ答えた。二階に行きたがらないので、わたしが部屋から夏休みの宿題を持ってきて居間でやっていると、声に出して読んで欲しいと言われた。


 どうやら聞いて理解できる単語があっても、文章は難しく、書いてある日本語は読めないらしい。文字を指さしながら、教科書や本、わたしが読める雑誌を音読してあげるのが日課になった。


 トゥーマの吸収力はすごかった。わたしが読む音を繰り返して発音し、発音した文字と単語の意味を確認し、読んだ文のどこで単語や文節がわかれるのかなどをつぎつぎ覚えていった。言葉がわからないだけで、もともとの知識はあったらしく、そのうち算数の宿題などを横からのぞいて、わたしが間違えていると「アンジェ、これ、違う」などと言ってチェックしてくれるようになり、わからないと説明してくれるまでになった。


 わたしのお姉ちゃん気分はあっという間に終了だ。ちっちゃいのにトゥーマの方がずっと出来がいい。教えてもらえるのはありがたいけれどちょっと複雑な心境だ。


 わたしがつかえながら習っていない漢字が使われている雑誌を読んでいることに気づいたジネさんが国語辞典と漢字辞典を貸してくれると、トゥーマの言葉はぐっと増えた。発音やイントネーションがおかしいことがあるし、やや丁寧過ぎてぎこちないこともあるものの、単語ではなく文で話すようになり、それにつれてトゥーマとジネさんとの会話も増えた。ジネさんが育てている植物や薬の作り方や料理のしかたなどについて質問し、調合の手伝いもし始めた。国語辞典はトゥーマのお気に入りになって、ときどき漢字辞典も使う。当然だけどわたしへの質問よりもジネさんへの質問の方が高度だ。


 小学校低学年にしか見えないのに、本当にすごい吸収力だ。まさに天才。ジネさんと薬の話をしているときなんて、わたしにはちっともわからないことがあるから、ずいぶん難しい内容みたい。

それがあの船に乗せられていた理由の一つかもしれない。


 あいかわらず外には出ないし和友さんにも姿を見せないけれど、ジネさんと話をしている和友さんやたまにやってくるお客さんを気づかれないようにそっと覗いたりすることもある。


 このぶんなら昼間はまた海に行ってもいいかもしれない。そう思っていると、ジネさんに、トゥーマもだいぶ慣れてきたみたいだから、来客が少ない朝のうちなら海に行っても大丈夫じゃないかと言われた。

トゥーマも頷いてくれたので、お言葉に甘えることにする。


 朝ごはんの後、いつものように洗濯物を干してから走って行く。今日も波は静かだ。きらきら光る水面はいつものようにきれいだけれど、この前の惹きつけられるような月夜とは違って、よくわからないけれど何かが違うような気がした。波打ち際に近づくにつれて、足を緩める。


 朝とはいえ、波が届かない場所の石は夏の光に照らされて熱くなっているので、時折波をかぶる位置まで行って、そこに転がっていた大きな石の上に腰を下ろす。足を水につけているだけで、すっと心が軽くなるような気がする。本当に、海はわたしにとってなによりの薬になる。


 そのまま泳ぐでもなく水面を見ていると、どこからともなくギイちゃんが飛んできて空で三度輪をかいたかとおもうとそのまま飛び去った。


 いつもならわたしのところに飛んでくるのに、もしかしてこのところ泳ぎに来なかったから拗ねてしまったのだろうか――そんなことを考えながらまた海に視線を戻すと、船のエンジン音が聞こえてきた。漁船は朝が早いからこんな時間にうろうろするのはダイビングの船だけれど、それなら本土側の方が安全だ。何だろうと思いながらぼんやりと見ていたら、白い船はやや沖合の、この間竜巻で転覆した船がいたあたりでスピードを落とした。遠かったのではっきりとは見えなかったけれど、ダイバーを降ろしたようだ。それなのにまたスピードを上げ、みるみるうちに去って行く。


 ダイビングなら、お客さんの近くに停泊しているはずなのに、まるでそこにいることを知られたくないみたいに去って行った船に、嫌な予感しかしない。


 降りずに飛び去ったギイちゃんに心の中で感謝して、わたしはそのまま家に帰った。


しっかり人間不信のトゥーマ君です。いやされて生きて欲しいです(*^^*) 自分も、癒やしが欲しい(^-^;)

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