トゥーマ 新しい居場所
久しぶりにゆっくり眠って、内容は覚えていなかったけれどなんだか幸せな夢まで見て、目を閉じたままいい気持で花の香りを吸い込んで、大きく伸びをしようとしたところで背中の痛みに気づいた。
右の肩甲骨、そこに何をされたのか、いや、そこに何があったのか――永遠に失われたものを思い出しそうになって、慌てて打ち消す。この痛みがあるなら、ここはどこだ? なんでこんなに穏やかに目が覚める? 花の香りなんて、どうして?
「××、××××××? ××××××××?」
聞き覚えのない声に身を固くする。何を言われたのか分からないけれど、怒鳴られたわけではない。
誰だ?
そっと目を開けると、四メートルほど離れた場所に木製のカウンターがあり、その奥に植物に囲まれて見覚えのない女性が立っていた。
赤い髪に碧の目。その瞳に困惑が浮かんでいる。敵意はないように見えた。
今何か言ったのはこの女性だろうか。
そう考えていると足音がして、女性の隣、開けっ放しのドアからひょこっと顔がのぞいた。
「怪我×どう? ×××××××××××××、痛む?」
真っ黒い髪に色の薄い瞳。自分を洗ってくれた少女だと分かった。また心配している。言葉も少しだけれどわかる――そう感じて驚いた。言葉なんてわかるはずがない。会話なんて成立するはずがないのに。
「××××××、覚えてる? ××××アンジェ。××××××××××ごめん。すごくびっくり××、怖かった×」
謝られたこと、自分に対して驚いたこと、恐怖を感じたことが伝わってきた。言葉なんて何一つわからないはずなのに。
その証拠に会話のうちほとんどは意味をなさないただの音になっている。それでも意味がわかる――つまりこの少女は意思を音に乗せることができるのだと気づいた。
驚いていると、少女が笑った。そして何やらどんどん話しかけてきたけれど、今度は残念ながら何か心配しているらしいこと以外一つもわからない。
赤毛の女性が何か言った。どうやらたしなめられたらしく、少女がゆっくりと言い直す。
今度は分かった。
「わたし×アンジェ。あなた×? ××、蹴ってごめん」
名前を教えてくれて、こちらの名前を聞かれたらしい。それから蹴飛ばしたことを謝っているようだ。 目をつぶって記憶を思い返したが、蹴飛ばされた記憶はない……蹴飛ばした記憶はあるけれど。謝られたことに驚いたけれど、とりあえず名前を返しておくことにする。
「トゥーマ」
名前を言ったのだと伝わるように、左手を胸に当てた。
少女――アンジェはにこっと笑って赤毛の女性を見た。彼女の名前は「ジネサン」だと教えてくれる。そしてまた何か意味の分からないことを話してから「おいで」と言った。歩けるか心配しているのもわかったので、立ってみる。ちゃんと力が入って立ち上がることができた。けれどアンジェに呼ばれたからといって本当にそちらに行っていいのかどうかわからない。赤毛の女性「ジネサン」からは敵意こそ感じられないけれど、とても困惑しているように見えるし、勝手な行動をとったとして虐げられては適わない。
人間は理不尽な生き物だし、少なくともこの場では、アンジェよりジネサンの方が年上だ。そして来るようにと言ったのはアンジェの方だ。それとも、この女性はアンジェに従わなかったとして罰するだろうか――。どうするのが正解かと考えていると、ジネサンが口もとをゆるめて頷いた。
それを見てアンジェの方に近づく。ジネさんから咎められることはなく、それでいいらしかった。アンジェに自分に対する害意が全くないのはわかっている。それに少しとはいえ言葉がわかるのもありがたい。
足が痛むのかと聞かれて首を横に振ると、今度はどこかに行くかと聞かれたけれど、どこのことかはわからなかった。アンジェは何の気どりもない様子で家の中を見せて行った。どうやらさっき聞かれたのは排泄の場所のことで、その隣の扉は浴室に通じている着替えをする場所だ。そこに貼られた鏡に映った自分の姿が目に入り、目を疑った。
アンジェの隣にいるのは、十二、三歳くらいの、明るい銀の髪にエメラルドの瞳をした利発そうな少年――自分の記憶にある最後の自分の姿――ではなかった。
七、八歳くらいの、真っ黒い髪の子どもだ。頭の半分は包帯でぐるぐる巻きにされていて、身体はガリガリに痩せている。ものすごく不健康そうで、生気のない陰鬱な暗い瞳がこちらを見ていた。確かに昨日腕を引っぱられたとき身長の差に驚いたような気がするけれど、自分がこんなふうに小さくなっているとは思わなかった。しかも髪の色も目の色も違う。最後に自分の姿を見たのがいつだったかは思い出せないけれど、こんな姿ではなかったことは確かだ。
本当に自分かと信じられない思いで目を細めると、鏡の中の子どもも目を細めた。首にはめられた黒い鉄の輪が痛々しい。つい手を伸ばして、やめた。溶接されたこの輪は、どんなに頑張っても自分の力では取れない。それは散々試してみたのだからわかっている。
自分が何を見ているのかに気づいたのだろう、アンジェが取れないのかと聞いてきた。首を振って否定すると、眉を寄せて、見せてくれるかと聞かれた。もう一度否定する。
アンジェはそれ以上追求しようとはしなかった。唇を引き結んで何か考えている。自分のために何かできないかと考えてくれているのがわかった。自分のことを心配ばかりしているアンジェに対して、なんだか申し訳ないような気持ちになった。迷惑をかけているのはこっちなのに。
そんな顔をしなくてもいいんだ、と伝えたかったけれど、言葉がわからなかったからただ首を振るしかできなかった。
こっちを見たアンジェが何か言った。声が明るくなったから話題を変えたのかもしれない。何か聞かれたような気もしたけれどよくわからずに困っていると、アンジェが自分の着ている服を示し、服の話をされているのだとわかる。するとすぐに困ったような顔になって首を傾げた。呟いた声が「下着は」と聞こえた。
自分の下着の心配をさせたのだとわかり、どっと汗が出た。いくら今の自分が小さくても、異性に下着の心配はされたくない。このままでいい、と気持ちを込めて上着をめくって見せると、ありがたいことに通じたらしく、アンジェはほっとした顔をして何やら言うと出て行った。ほっと息を吐いて、自分の服――昔よく身に着けていた見慣れた服を信じられない気持ちで見つめる。
いつ、どうやってこの服を身に着けたのか記憶になかった。見覚えのない自分の姿といい服といい、わからないことばかりだ。アンジェは柔らかい生地の服を持って戻ってきた。背中の傷を気遣ってくれたのだろう。前で止めるタイプの服だった。
アンジェが外に出て、ありがたく着替えてみたら、裾が膝まできた。ただでさえ体がガリガリなせいでだいぶ大きい。このままでいいのか、それとも元の服でいたほうがいいのかわからず、とりあえずそのまま外に出てみるとアンジェの顔が明るくなった。気に入ったらしいとわかってほっとしているといきなり抱き上げられてくるりと回された。触れたところから「かわいい」という気持ちが流れ込んできた。
かわいい、って思われたのがわかったとたんに一気に顔が熱くなった。勘弁してほしい。かわいいなんて思われて嬉しい歳じゃない――いや、見た目年齢ならかわいいって思われていいのか?
さいわいアンジェはすぐにおろしてくれて、それから食事になった。メニューは「ソウメン」で、野菜や卵が使われていて彩りは豊かだったけれど、「ハシ」が使いにくくてかなり食べにくかった。アンジェが「フォーク」を出してきてくれたので巻き付けて食べてみたらなんとかなったけれど、そもそも食事をすること自体になれていないのだからしかたがない。
食事の間は会話するジネサンとアンジェを見ていた。二人の会話はほとんどわからなかった。ジネサンと話すときのアンジェが音に意思を乗せないからだ。ジネサンの方はそもそも音に意思を乗せる話し方はできないのか、意味のわからない音が聞こえていくだけで、会話の語尾が上がることで何かを尋ねたのが感じられても、その質問内容の方はさっぱりだ。
食事の後は、さっきまでとは違って真剣な顔で会話が始まり、アンジェの口調がゆっくりになり、いくつか意思の乗った音が出てきたことで、自分のことについての話し合いなのだとわかった。
わからない言葉が多かったけれど、聞き覚えのある言葉もあった。これまでに自分を所有していると言った人間が話していた言葉だ。「ケイサツ」「ツウホウ」「ヒミツ」「ビョウイン」「ホゴ」これらの音はすべて危険を意味している。耳に入ってきた音を追い出したくて首を振った。
彼らにとっても危険だけれど、自分にとっても危険な言葉だった。自分は「トクベツ」で「チンピン」で「カイフクリョク」があり「タカネ」がつく。見た目が損なわれていることは「ザンネン」だが、うまくやれば――。
頭の中で嫌な音が回りだして何も聞こえない。鼓動が早くなって、苦しい。ここは違う、ここは違う、安全なんだ。自分にそう言聞かせながら固く拳を握った。息がつまる。暗闇に飲み込まれそうだ。
「だいじょうぶだよ」
優しい声がして現実に引き戻された。
温かくなった右手に目をやると、アンジェが手を握ってくれていた。
「ここにたらいい」
そう言って笑いかける。その心に偽りはなかった。
信じがたい思いでアンジェを見る。それからジネサンを見た。厄介者の自分をここに置くことにためらいがないのか?
「……ここにいて、いい?」
思わずつぶやくと、ジネサンが驚いた顔をしてからゆっくりと頷いて、同じ気持ちでいることを伝えてくれた。
ここにいていい――。
不思議な感覚に驚きを覚えたまま、ゆっくり頷いた。
今日もありがとうございます(*^^*)がんばります。




