トゥーマ
男の子はそう言って左手で自分の胸に触れた。どうやらそれが名前らしい。髪も目も黒いけど、発音からすると日本人じゃないのかも。ちょっとわたしたちみたい。
「トゥーマ。よろしくね。ええっと、こっちはわたしのおばあちゃん、『ジネさん』だよ。あと、テレビはないけど、こっちの椅子の方が座り心地がいいからおいで」
手招きをすると、そっとあたりを見回してから、ゆっくり立ち上がった。わたしの顔からジネさんの顔に目を移す。トゥーマは歩きだそうとはしなかった。
ジネさんが少しだけ微笑んでから、頷いた。
それを見たトゥーマは野良ネコみたいに警戒した様子でわたしの方に歩いてくる。さっき名前を聞いたから、話せないわけじゃないのはわかっているけれど、ものすごく口数が少ない。新しい場所で不安なのか。動くのもゆっくり……もしかしたら昨日引きずったせいでまだ脚が痛いのかも。
「脚、痛む?」
小さく横に首を振ったので、大丈夫らしい。
「トイレ、行く?」
首を傾げたので、とりあえず連れて行くことにする。ついでに家の中を軽く説明する。もしかしたら、しばらくここにいることになるかもしれないんだし。ついでだ。
「こっちがトイレで、こっちがお風呂」そう言いながら脱衣所の戸を開けると、トゥーマは鏡に映った自分を見てぎくりと動きを止めた。顔半分が包帯でぐるぐる巻きだから傷は見えないはずだけど、やっぱり嫌だよね、きっと。
そう思っていると、トゥーマの鏡に映った右目が少しだけ細められた。首にはまった黒い金属に手を伸ばしたけれど、その手は触れる直前で止まった。
「それ、取れないの?」
できればおもちゃみたいに外してみせて欲しかったけど、トゥーマは下を向いて小さく首を振った。外せないなんて、ひどい。けっこうしっかりした金属に見える。うちにあるペンチじゃきっと無理だ。
「見せてくれる?」
金具か特別なつなぎ目があるのかもしれないと思ってそう聞くと、トゥーマはわたしから一歩離れてまた首を振った。
それにしても金属の輪なんて、今はまだ余裕があるみたいだけれど、もしこのまま成長したら、いずれきつくなる。外れなくなった指輪は消防署とかで切ってもらうことができるって聞いたことがあるけど、こんなに太くても切れるのだろうか。いや、こんなものをつけた子ども見たら警察に通報されるんじゃないだろうか。それ以前にこの子が動物として密輸されていたのなら、消防署に連れて行くわけにはいかないのかも……鏡に映った黒い金属を見ながら、むむむ、と悩んでいると、鏡の中のトゥーマがもう一度首を振った。
ちょっと困ったような顔をしている。
わたしはあわてて明るい声を出した。
「よし、その輪っかのことはあきらめて、ロックなアクセサリーだと思おう。あとさ、その変わった服も着替えない? ちょっと大きいけどわたしのTシャツでよかったら持ってくるよ。女の子っぽくないやつもあるし」
そう言って自分の着ているTシャツと短パンを指で示す。そこではた、と気が付いた。
「けど、下着はわたしのじゃダメだよね……」
どうしたものか、と首を傾げると、トゥーマが顔を赤らめて首を振り、自分のシーツみたいな布を持ち上げてみせた。
……布と同じ色だったから気づかなかったけど、中に短パン的なものをはいている。ごめん。小さくたってさすがに女の子の下着を着るのは嫌だよね。とりあえずよかった。
「じゃあとりあえず、下はそのままで。Tシャツだと着替える時に肩が痛いかもしれないから、前開きのシャツにしよっか。ちょっと待ってて、持ってくる。トイレ行きたかったら隣のドアだよ」
わたしはトゥーマをその場に残して二階に服を取りに行く。なんだか弟ができたみたいで嬉しくなってきた。タンスからガーゼ生地の水色のシャツを選んで戻ると、トゥーマはちょうどトイレから出てきたところだった。自分で着替えられるかと聞いてシャツを差し出せば、こくりと頷いた。廊下で待っていると、着替えて出てくる。
わたしのシャツが膝丈になっていて、すごくかわいい。思わず抱っこしてくるりんと回すと真っ赤になった。ますますかわいい。すごく困った顔をされたのでしかたなくおろしてあげたけど、小さいってそれだけでかわいいのにトゥーマはすごくハンサムだからかわいさも倍増だ。
にこにこしながら居間に戻ったわたしは、なんだか複雑な顔をしているトゥーマをソファに座らせて、今度こそ素麺を茹でて夕飯にすることにした。祖母が薄焼き卵を焼いてくれたから豪華だ。庭で取れたミニトマトとキュウリも持ってきて、素麺というより冷やし中華みたいになった。
トゥーマはやっぱり日本人じゃなかったみたいで、夕飯に出した素麺を箸でつかむことができず、フォークを渡してみたらわりと上手に巻き付けて食べていた。夕食の間は何も喋らなくて、何か言われても首を傾げるか、首を振るだけだった。日本人じゃないみたいだし、わかる言葉とわからない言葉があるのかもしれない。
それでも食後、わたしたちはトゥーマの体調を見ながら少しだけ話し合うことにした。
話し合いにはたいして時間がかからなかった。トゥーマがこの海に流れ着いた手掛かりになりそうなことをほとんど覚えていなかったからだ。
覚えている名前や地名、家族についての記憶もないようで、「お父さん」「お母さん」「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」「弟」「妹」「ペット」「年齢」どれについて訊いても首を傾げるばかりだ。
ただし、あの転覆した船に乗っていたのかと聞くと顔色が変わり、「警察」に連絡し、「病院」で見てもらって「保護」してもらうことに関しては激しく首を振ったことから、やはりあの転覆した船に「密輸品」として積まれていた可能性が高い。
今までのことを聞くと、固く拳を握って俯いてしまった。
見かねたジネさんがしばらくここにいたいかと聞いたけれど、反応がない。小さく震えているようすがひどく辛そうで、思わず手をとった。
「だいじょうぶだよ」
そう声をかけるとはっとした顔でわたしを見た。
「あのね、行きたいところが決まるまで、ここにいたらいいんじゃない? 怪我が治って元気になったら、いろいろ思い出すかもしれないし。 まだ夏休みが二十日もあるから、一緒にのんびりするのもいいよね? その後のことは、また考えよう」
そう言ってみるとトゥーマは不思議そうにわたしの顔を見て、それからジネさんを見て、呟いた。
「……ここにいて、いい?」
許可を求めているというよりは言われたことがわからなくて、確認しているように見えた。
ジネさんがちょっと驚いたような顔をして、それから大丈夫だというように頷いた。
それを見てトゥーマもゆっくりと頷いた。
次はトゥーマ視点になります。
そのうちジネさん視点とか、学校が始まったら友だち視点も書いてみたいです。




