【第四章】インパールの果てに散った誇り高き工兵 — 健次の軍歴
大正12年(1923年)2月18日、梅太郎の長男として生まれた健次。工業高校を卒業した健次は、製図や機械・金属に関する高い知識と技術を備えた優秀な青年であった。
昭和18年(1943年)7月12日、20歳を迎えた直後に臨時召集を受けた健次が「第十五軍野戦兵器修理班(技術兵)」という工兵部門へ抜擢されたのは、まさにその工業高校で培った専門技術を買われてのことであった。
出征の日、自宅の玄関先には日の丸の小旗を手にした近所の人々が集まっていた。職人として固く口を結んだ父・梅太郎は、万感の思いを込めて長男の肩を強く一度だけ叩いた。母・せきは涙をこらえ、健次の手荷物にそっと手縫いの守り袋を忍ばせた。
まだ幼かった弟の進と博〇は、いつも優しく機械の仕組みを教えてくれた大好きな兄の凛々しい軍服姿を、寂しさと誇らしさが混ざり合った目で見つめていた。健次はふたりの頭を撫で、「お父さん、お母さんを頼んだぞ。博をしっかり守るんだぞ」と進の手を固く握りしめた。幼い弟たちに笑顔を見せ、家族に見送られながら旅立った健次の背中は、技術者としての誇りと家族への深い愛情に満ちあふれていた。
同年11月、大阪港を出発した健次はサイゴンを経て泰緬国境を越え、ビルマの地を踏む。昭和19年春、歴史上最も凄惨を極めたとされる「ウ号作戦(インパール作戦)」が発動。兵器物資収集利用班として極限の前線へ投入された健次は、泥濘と銃撃の中、技術兵として味方の兵器や機械の修復に命を削った。
しかし、補給が完全に途絶えた戦場で猛威を振るったのは病魔であった。作戦撤退後の昭和19年(1944年)9月5日、過酷な転戦によりマラリアと脚気を併発した健次は、ビルマ・ウートウの第120野戦病院(患者養生所)にて、21歳という若さで無念の戦病死を遂げた。家族を思い、技術で国と仲間を支え抜いた青年の足跡は、靖国神社に戦神として祀られY家の誇りとして永久に刻まれている。




