第3話 名前を失ったまま、歩き出す
日が傾き始めてからも、リリアはしばらくその場に座っていた。
膝を抱え、道の脇の草を見つめる。乾いた土の匂いが、鼻をくすぐった。
何もしない時間は、思ったより長く続いた。
そして、思ったより――苦しくなかった。
(……私は、もう祈らなくていいんだ)
そう考えた瞬間、胸の奥に奇妙な空白が生まれる。
安心でも、恐怖でもない。ただ、ぽっかりと空いた場所。
聖女として生きてきた時間が、丸ごと抜け落ちたような感覚だった。
立ち上がる。
外套についた草を払うと、体が少しだけ軽い。歩くこと自体は、ずっとしてきたはずなのに、今は違う意味を持っていた。
――どこへ行こう。
答えはない。
王都に戻る理由はないし、教会に縋るつもりもない。かといって、行き先を決められるほど、世界を知らない。
それでも足は、自然と街道に沿って動き出した。
人の流れがある方へ。誰かが歩いてきた道へ。
しばらく歩くと、行商人の一団とすれ違った。
荷馬車、布袋、談笑する声。活気がある。
「……あれ?」
一人の商人が、リリアを見て足を止めた。
年配の男で、日に焼けた顔をしている。
「嬢ちゃん、大丈夫か? 道端で座り込んでたみたいだが」
声をかけられ、リリアは一瞬、戸惑った。
これまで、見知らぬ人に心配されることはほとんどなかった。聖女である限り、距離は自然と引かれる。
「……はい。少し、休んでいただけです」
「そうか。ならいい。日が落ちる前に、宿のある村まで行ったほうがいいぞ」
「村……?」
「ああ。この先を半日も行けば、小さな辺境村がある。派手なもんはないが、悪い場所じゃない」
そう言って、男は笑った。
利害も、期待もない、ただの親切な笑顔だった。
「ありがとうございます」
自然に言葉が出たことに、リリア自身が少し驚く。
聖女としての礼ではない。肩書きも関係ない、一対一の感謝。
商人たちは去っていった。
残されたのは、道と、沈みかけた太陽。
(……辺境の村)
知らない場所。
だからこそ、いいのかもしれない。
再び歩き出す。
足の裏に、土の感触がしっかり伝わる。聖堂の石床とは違う、生きた地面。
途中、喉が渇いて川に立ち寄った。
しゃがみ込み、手ですくって水を飲む。冷たくて、少し土の味がした。
――浄化しなくていいのだろうか。
反射的に浮かんだ考えを、振り払う。
今は、ただの水だ。ただの旅人だ。
それでも不思議なことに、川の水は澄んでいた。
光を反射し、小魚の影が見える。
(……気のせい)
何度も、自分に言い聞かせる。
夕暮れが夜に変わるころ、ぽつぽつと灯りが見え始めた。
木造の家屋が集まった、小さな集落。柵も、見張り塔もない。
辺境村だった。
村の入り口で、薪を運ぶ青年と目が合った。
短く刈った髪、簡素な服装。騎士の装備ではないが、腰に剣を下げている。
「……旅の人?」
警戒と好奇心が混じった声。
リリアは、少しだけ迷ってから頷いた。
「はい。今夜、泊まれる場所はありますか」
青年は一瞬、彼女を見た。
値踏みするような視線ではない。ただ、人を見る目だった。
「宿はないけど、村長に話してみる。ついてきて」
「……ありがとうございます」
歩きながら、リリアは気づく。
誰も、彼女を聖女だと見ていない。
当たり前だ。徽章もないし、名乗ってもいない。
それなのに――胸の奥が、少しだけ楽だった。
村の中央にある家で、村長と名乗る男性に事情を説明する。
追放のことは言わなかった。ただ、「行き先がない旅人」だとだけ。
「事情は聞いた。今夜は空き部屋を使いなさい。代金は……無理にとは言わん」
「……ありがとうございます。本当に」
頭を下げると、村長は手を振った。
「困ったときは、助け合いだ。ここはそういう村だよ」
その言葉が、胸に染みた。
案内された部屋は、素朴だった。
木の壁、簡単な寝台、小さな窓。けれど、冷たくない。
外套を脱ぎ、腰を下ろす。
今日一日が、急に重くのしかかってきた。
(……私は、誰なんだろう)
聖女ではない。
けれど、まだ「ただの娘」とも言い切れない。
名前を名乗らなかったことに、今さら気づく。
名乗らなかったのか、名乗れなかったのか。
リリアは、窓から外を見た。
夜空に、星がぽつぽつと浮かんでいる。王都より、ずっと多い。
その光景を見ているうちに、胸の奥で何かが、ゆっくりほどけていった。
――ここでは、祈らなくてもいい。
――役に立たなくてもいい。
その事実が、怖くて、でも確かに、救いだった。
追放された聖女は、その夜、初めて「明日」を考えずに眠った。
名前を失ったまま。
けれど、世界から完全に切り離されたわけではないまま。
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