第4話 何もしていないのに、朝は来る
朝は、思いがけなく静かに訪れた。
鳥の声で目を覚ます、という経験は初めてだった。
教会では、必ず鐘が鳴る。時間を告げ、祈りを命じる音。けれどここでは、誰も彼女に何も求めない。
リリアはしばらく、天井を見つめたまま動かなかった。
木目の浮いた板。わずかな隙間。そこから差し込む、柔らかな光。
(……朝、だ)
それだけの事実を確認するのに、少し時間がかかった。
起き上がる。
身体は重いはずなのに、不思議と痛みはない。昨夜は深く眠った記憶がないのに、頭は冴えていた。
部屋を出ると、廊下の先から薪のはぜる音が聞こえた。
家の奥で、誰かが朝食の支度をしているらしい。
「……おはようございます」
声をかけると、年配の女性が振り返った。
昨日、村長の家で彼女を迎えてくれた人だ。
「ああ、起きたかい。よく眠れた?」
それは、あまりにも自然な問いだった。
聖女として過ごしてきた時間の中で、「眠れたか」と聞かれたことはほとんどない。体調管理は祈りと報告事項であって、感情の話ではなかった。
「……はい。ありがとうございました」
曖昧な返事になってしまったが、女性は気にしない様子で頷いた。
「ならよかった。顔色も悪くないね。朝粥ができてるよ」
促されるまま、簡素な食卓につく。
木の器に盛られた粥は、湯気を立てていた。穀物の匂いが、鼻をくすぐる。
一口、口に運ぶ。
薄味だったが、温かい。
(……おいしい)
そう感じた瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
聖堂で出される食事は、栄養と形式を重視したものだった。味を意識したことは、ほとんどない。
食べ終えると、女性は言った。
「今日はどうするんだい? ここに滞在するなら、村長と話しておいたほうがいい」
「……滞在、ですか」
「行き先が決まってないんだろう?」
リリアは、少し考えてから頷いた。
「……はい」
「なら、無理に急ぐことはない。ここは辺境でね、働き手はいくらでも欲しいんだ」
その言葉に、心がざわつく。
働く。役割を持つ。期待される。
でも、それは――聖女としてではない。
「できることは……多くありません」
「誰だって最初はそうさ」
女性は、あっさり言った。
重みも、失望もない。事実をそのまま受け取る声だった。
食後、外に出る。
村の朝は、静かだが忙しい。畑に向かう人、家畜の世話をする人、井戸で水を汲む人。
誰も彼女を見て、特別な反応をしない。
視線が合えば軽く会釈する。それだけだ。
村の中央で、昨日の青年――薪を運んでいた剣を持つ男がいた。
リリアに気づき、足を止める。
「……泊まれたみたいだな」
「はい。お世話になりました」
「俺はレオン。この村の警備みたいなことをしてる」
そう名乗ると、彼は少し照れたように視線を逸らした。
騎士というほど堅くなく、村人というほど無防備でもない。中間の立ち位置。
「名前は?」
その一言に、胸が一瞬だけ詰まる。
名前はある。
でも、それを口にしていいのか、わからなかった。
「……リリア、です」
少し遅れて、答えた。
「そうか。リリア」
レオンは、その名前をそのまま受け取った。
聖女でも、肩書きでもない、ただの名前として。
「村長は、しばらくいていいって言ってた。何かあったら言ってくれ」
「ありがとうございます」
そのやり取りの間、胸の奥に不思議な静けさがあった。
評価されない。測られない。役に立つかどうかを、今すぐ決められない。
それなのに、拒まれていない。
午前中は、何もせずに過ごした。
手伝いを申し出る勇気もなく、かといって部屋に籠もる気にもなれず、村の端をゆっくり歩いただけだ。
畑の土は黒く、柔らかい。
踏みしめるたび、足裏に確かな感触がある。
昼頃、村の子どもが転んで膝を擦りむいた。
血がにじみ、泣き声が上がる。
リリアは、反射的に駆け寄りそうになり、立ち止まった。
(……いいの?)
癒していいのか。
もう、聖女ではないのに。
迷っているうちに、母親が子どもを抱き上げ、布で傷を押さえた。
「大丈夫、大丈夫。あとで薬塗ろうね」
それで済んでしまう。
世界は、彼女が手を出さなくても回っている。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
必要とされない痛み。でも同時に、責任から解放される安堵。
夕方、村の外れに出た。
風が吹き、草が揺れる。遠くの森がざわめく。
リリアは、何気なく目を閉じた。
祈るつもりはなかった。ただ、息を整えただけだ。
その瞬間、空気が、すっと落ち着く。
風がやみ、草の揺れが揃う。
――あれ?
目を開ける。
特別なことは何も起きていない。ただ、夕暮れが穏やかにそこにあるだけだ。
(……気のせい)
何度目かわからない言葉で、自分を納得させる。
夜、寝台に横になる。
今日一日を思い返しても、何かを成した記憶はない。
祈っていない。
癒していない。
世界を守ってもいない。
それでも、朝は来て、夜は訪れた。
リリアは、ゆっくりと目を閉じた。
――何もしなくても、生きていていい。
その考えが、まだ怖くて、でも少しだけ、温かかった。




