第2話 追放聖女は、何もしない
気づいたとき、空はすでに夕暮れ色だった。
窓の外で、茜色が石畳を染めている。どこかで鐘が鳴り、人々の一日が終わろうとしている音がした。
リリアは、与えられた小部屋の椅子に座ったまま、動けずにいた。
正確には、動こうとしなかった。
部屋は簡素だった。
聖女として使っていた居室とは比べものにならないほど狭く、装飾もない。木の机と椅子、簡易的な寝台。それだけだ。
――追放の準備が整うまで、ここで待つように。
そう言われたのを、ぼんやり覚えている。
誰が言ったのかは思い出せない。顔も、声も、靄がかかったみたいに曖昧だった。
膝の上に置いた手を見つめる。
祈りを捧げ、癒しを与えてきた手。
なのに今は、ただそこにあるだけだ。
(……何を、すればいいんだろう)
考えようとして、その思考が途中で止まる。
何をしてもいいと言われた瞬間、人は何もできなくなるのだと、初めて知った。
聖女は、祈る存在だ。
朝は結界の祈り、昼は癒しと浄化、夜は報告と感謝の祈り。
時間割のように決められた一日を繰り返してきた。
でも今は、そのどれもが必要とされていない。
部屋の扉が、軽く叩かれた。
「……失礼します」
入ってきたのは、見覚えのある年配の修道女だった。
かつて何度も顔を合わせ、挨拶を交わした相手。けれど今日は、距離を測るような表情をしている。
「こちらを……」
彼女は、机の上に小さな袋を置いた。
中身は、最低限の衣服と、少量の金貨。
「追放に際しての……支度です」
言葉を選んでいるのがわかる。
同情してはいけない、という教会の空気も。
「……ありがとうございます」
リリアは、そう答えた。
声は、思ったより普通だった。
修道女は一瞬だけ、何か言いたげに口を開きかけ、結局、何も言わずに頭を下げて出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
袋を開ける。
見慣れた白の法衣は入っていなかった。代わりに、質素な旅装と外套。聖女の証である徽章もない。
(……もう、聖女じゃないんだ)
言葉にすると、胸がひりついた。
それでも涙は出ない。現実感が、まだ追いついていない。
夜になっても、誰も来なかった。
夕食の知らせもない。祈りの時間を告げる鐘も、今日は自分には関係がない。
リリアは寝台に横になり、天井を見つめた。
染みのある木板。数を数えようとして、途中でやめる。
目を閉じても、眠れなかった。
――感謝はしている。だが、それだけだ。
王子の声が、何度も頭の中で再生される。
怒りは湧かなかった。ただ、胸の奥がじわじわと冷えていく。
(私は……何だったんだろう)
問いは、答えを返さない。
翌朝。
扉が開く音で、リリアは目を覚ました。
眠った記憶はほとんどない。それでも、体は起き上がった。
「出立の準備を。王都の外まで、騎士が同行します」
事務的な声。
それだけだった。
外に出ると、空気が違った。
教会の敷地を一歩出ただけなのに、守られていた膜が剥がれたような感覚がある。風が直接、肌に触れる。
馬車は用意されていなかった。
最低限の配慮なのだろう。追放は追放だ。
同行する騎士は、二人。
どちらも無言で、必要以上に目を合わせない。
王都の門をくぐるとき、リリアは振り返らなかった。
振り返れば、何かを期待してしまう気がしたからだ。
門の外は、ひどく広かった。
行き交う商人、旅人、兵士。誰も、彼女を見ない。見ても、ただの旅の娘だ。
(……これでいい)
自分に言い聞かせる。
聖女でなければ、誰にも期待されない。失望されることもない。
歩き続けて、昼を過ぎた頃。
騎士の一人が、立ち止まった。
「ここまでだ」
「……はい」
簡潔な別れだった。
騎士たちはすぐに引き返していく。背中が小さくなり、やがて見えなくなった。
リリアは、一人になった。
道の脇に腰を下ろす。
外套に包まれ、膝を抱える。何をすべきか、やはりわからない。
祈る?
――誰のために?
歩く?
――どこへ?
考えることをやめて、ただ空を見た。
雲が流れている。自由で、何も縛られていない。
そのとき、不思議なことに気づいた。
胸の奥の、常に張り付いていた緊張が、少しだけ薄れている。
祈っていないのに。
役目を果たしていないのに。
風が、やさしい。
足元の草が、静かに揺れている。
――何もしなくても、世界は続いている。
その事実が、少しだけ怖くて、少しだけ救いだった。
リリアは、その場でしばらく動かなかった。
泣きもせず、祈りもせず、未来のことも考えない。
ただ、息をしていた。
それが、追放された聖女の、最初の自由だった。




