二話二節『二日酔い酔いよよいのよい』
結局、アリアはそのままティアの実家で寝落ちすることになった。
今はテーブルに突っ伏し、空き瓶に頬を押しつけて、幸せそうにヨダレを垂らしている。
時折、ぐがーという、顔に似合わな過ぎるいびきも聞こえる。
「ショールじゃ寒いかな」
アリアが身に着けているのは、ポンチョと、ティアが先程かけたショールだけだ。夜が更けるにつれ、石造りの店内には山の冷気が入り込む。
ティアは二階から毛布を持ってくると、アリアの肩にそっと掛けた。その際、ふとアリアの右手に目がいった。
「指サック……?」
アームカバーの袖口に隠れて、これまで気づかなかった。改めてアリアの手を見ると、右手にだけ、指先を覆う分厚い革の指サックをはめている。指サックは黒く焦げてひび割れ、その隙間から覗く手の皮もボロボロだった。何度も火傷を繰り返しては治り、また焼けた――そんな痕が重なっている。
そこだけを見ると、とても女性の手には見えない。
ティアは何気なく、テーブルに投げ出されたアリアの左手に目を移す。
そちらは白く、指先まで綺麗なままだった。まるで別人の手のように。
ティアはアリアの右手へ、そっと指を伸ばしかける。だが、触れる直前で、スッと引っ込めた。
(踏み込めない)
まだ出会って半日の自分が、触れていいものではない気がした。
ティアはガス灯の火を小さく絞ると、心の中で、静かにアリアにおやすみなさいと告げた。
*
翌日――事件は起きた。突然に。
「うぅっ!」
小鳥のさえずりがかすかに聞こえる早朝。
むくりと目を覚ましたのは、アリアだ。
ただし、その目覚めは鳥たちの調べのように爽やかではない。顔面は真っ青、頬は何かを堪えるように膨れ、右手は口元に当てられている。額には脂汗がびっしりと浮かんでいた。
「ううぅっ!!」
一応付け加えると、産気づいている訳ではない。念の為。
「ヴォエェェェ!」
口から(自主規制)が漏れた。とても描写はできない。想像はご自由に。ただし、責任は持てない。
「ヴォェェェェェッ!!」
「ぎゃー! アリアさーん!?」
異様な臭いと叫びで、ティアが飛び起きる。アリアが心配で、結局カウンターに突っ伏してうたた寝していたのだ。寝ぼけ眼を擦って振り向けば、辺りは一面……の海だ。
ティアの拳が、ぎゅっと握られる。こめかみに、ぴくりと青筋が浮いた。
「ヴォエェェェアッ!!」
この後、アリアはティアに滅茶苦茶怒られた。
「……わたくしは命の恩人ですよ……」
「今はお店の破壊者ですね」
ティアは、モップの先を床にドンと突き立て、仁王立ちをする。その様はまるで、酔っ払いを取り締まる憲兵だ。
アリアは床に正座させられたまま、顔面蒼白でキョロキョロと周囲を見渡す。
「ティア」
「なんですか?」
「お薬はないですか……あ、エリクシールでいいです。コップ一杯ください」
「それもお酒ですね」
「コップ一杯、ストレートでいいですから」
「あげません!」
ダメだコイツ。と、ティアは思った。
「もう知りません。おばあちゃんの様子を見てきます」
ティアは踵を返すと、ダメ人間を放っておいて、カウンターの奥から二階へ上がっていく。
その足取りは軽い。ギシ、ギシと鳴る階段を上るにつれ、ほんのりと古い木の香りが漂ってくる。ティアは、この『祖母の匂い』が昔から好きだった。
家計の負担を減らすため、自身は街に働きに出ても、それは変わらなかった。
「おばあちゃん、おは――」
いつものように、階段を上りきる前に声をかける。
だが、今日はいつもとは違った。
「おばあちゃん!?」
階段を上りきり、祖母の部屋を見た瞬間、ティアの顔から血の気が引いた。
祖母がいつもの揺り椅子から落ち、床にうつ伏せで横たわっている。揺り椅子が、微かに揺れている。
「おばあちゃん!!」
ティアは慌てて駆け寄ると、祖母を仰向けに抱き起こし、祈る思いでその手を握る。
「……大丈夫。温かい。けど……」
祖母の顔には、見たことのない異変が現れていた。
目の下は隈よりも黒く、墨を刷いたように落ち窪んでいる。かと思えば、唇はまるで吸血鬼が血を吸った直後かのように赤い。
呼吸は浅くて荒い。かろうじて息をしている、といった状態だ。
「どうしよう……どうしよう」
初めて目にする症状に、ティアはただただ頭を振り乱す。薄赤色のハーフアップの髪が、荒波のように激しく揺れる。目には、もう涙が溜まってきた。
その時。
「……瘴気病ですね」
いつの間に上がってきたのか。軋むはずの階段の音は、一つもしなかった。
振り向くと、アリアがすぐ後ろに、神妙な面持ちで立っていた。山で見たあの目で。
「アリアさん!」
「エリクシールを」
アリアは素早く祖母の傍らに跪くと、ティアに促すように、綺麗な左手を差し出す。
「早く」
「は、はい!」
ハッとしたティアが、揺り椅子の横のサイドテーブルからエリクシールを掴み、そのままアリアに渡す。
アリアはポンチョのポケットの布袋から角砂糖を取り出し、口でコルク栓を抜くと、床に零れ落ちるほどたっぷりと染み込ませる。そして、それを押し込むように祖母の口へ入れた。
「ちょ、ちょっと!」
「黙っていなさい!」
アリアの行動が乱暴に見えたのか、ティアが止めようとする。だが、アリアは声を張り上げてそれを制した。
そして、左手の指先で、そっと祖母の唇を撫でる。
するとどうだろう。祖母の唇が一瞬、薄緑色に淡く輝き、あの異様な赤みが、潮が引くように消えていく。墨を刷いたような目元も、みるみる元の色を取り戻していった。呼吸の音が、穏やかな寝息に変わる。
「これって……!」
口を手で覆いながら驚くティアに、アリアは静かに説明する。
「エリクシールの薬用成分を、魔力でブーストしただけです。早い話が、飲めるバリアです」
「おばあちゃんは良くなるんですか?」
「これは応急処置ですよ。諸悪の根源を断たねば、解決にはなりません」
アリアはおもむろに立ち上がると、片肘を抱え、顎に指を当てて考え込む。
窓から差す朝の光がその横顔を照らし、ベージュの三つ編みを神々しく見せる。それはもう、昨夜の飲んだくれとは似ても似つかない、まさに聖女然としたものだった。
……口元に残る、微かな酒臭さを除けば。
「何か心当たりはありませんか? 最近、瘴気に触れたハズです」
「私が持ち込んだとか……?」
「貴女はなんともないでしょう? 汚染された人間ならばともかく、アレに短時間接した程度で、ここまでの瘴気は持ち運べません」
「けど、他には……」
ティアは額に指を当て、必死に記憶を辿る。しかし、何も出てこない。
浮かんでくるのは、自分が何かしてしまったのではないか、そういう思考ばかりである。
「彼女はいつも誰かと会ったり、出かけたりしないのですか?」
「あ……」
アリアのその言葉で、ようやくティアの中で何かが繋がった。
「心当たりがあるんですね?」
「鉱山……」
「鉱山?」
「おばあちゃんは、いつもお父さんにお弁当を届けていたんです!」
「……そこが汚染源ですね」
アリアの言葉に、ティアの顔が再び青ざめる。
「お父さんも、鉱山に……!」
アリアは汚染源を特定するなり、ポンチョを翻し、足早に階段を下りようとする。
その背中を見て、ティアの胸に、ほんの少しだけ温かいものが灯った。
(この人は、口は悪いけど、本当は)
だが同時に、ティアはふと思い出した。
アリアは山で、『お酒にならないことは、一切、いたしませーん』と、ハッキリそう言った。しかも、前払いだとも言った。だが、ティアはまだ酒を渡してはいない。
「アリアさん」
「なんですか?」
「なんで協力してくれるんです? お酒はもうないですよ?」
「決まってます。ふんだくるためですよ。美味しいお酒が鉱山で待ってます!」
ティアは、少し感心したことを、すこ――かなり後悔した。
*
ティアの案内のもと、二人は鉱山を目指す。事件が起きていると思われる鉱山とは裏腹に、町の朝は至って平穏である。
家々の石屋根には小鳥が跳ね、パン屋の煙突からは香ばしい煙が上がり、昨夜の酔っ払いがガス灯に寄りかかるようにして寝ている。
鉱山は、町の北側を五分程歩いたところにある。石畳が途切れ、砂利道に変わった頃、二人は鉱山へ通じる北門に差し掛かった。
鉄の格子が嵌まった門の前には、黒い制服を着た警官が一人、銃剣を立てて欠伸を噛み殺している。
アリアは、ニコリと外面の笑顔を貼りつけて近寄ると、警官に優しく語りかけた。
それはもう、透き通る様な、美しい声で。
後ろ手を組んで、ウィンクまでして。
「ご機嫌よう、お勤めお疲れ様です」
いきなり聖女のような美貌のシスターに声をかけられたからか、警官の顔が一気に赤くなり、目が見開かれる。欠伸は、どこかへ吹き飛んだ。
アリアは静かに目を細める。だが、その口角がコンマ二秒ほど吊り上がったのを、ティアは見逃さなかった。
(楽しんでる……)
きっと今、アリアの魅惑のヒップには、悪魔の尻尾が生えている。
「わたくしは遠方のシスターです。この辺りで何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと……? ああ」
「何か?」
「そういえば、さっき鉱山で爆発音みたいのがしたなあ……」
爆発音と聞いて、アリアの目付きが一瞬だけ鋭くなる。しかし、アリアはすぐに調子を戻した。
綺麗な左手を口元へ持っていき、驚いたように見せる。
腕を上げた拍子に、ポンチョの隙間から、白く雪のようなアリアの素肌がちらりと覗く。
警官の視線は、そこへ釘付けだ。
「まあ、それはいつもありますの?」
「いいえ。こんな朝早いのは。だから珍しいなと」
「ありがとうございます」
アリアはぺこりとお辞儀をすると、そのまま何食わぬ顔で、警官の横をスルーして門を抜けていった。警官は、ぽかんと口を開けたまま、その背中――いや、ポンチョのスリットから覗く黒いタイツを見送っている。
ティアは小走りで追いつくと、そっと耳打ちした。
「よかったんです?」
アリアは振り向かずに応じる。
「何がです」
「警官さん、何も言ってないうちに勝手に通って」
「通してくれたではないですか」
「見惚れてただけじゃ」
「同じですよ」
お酒が絡むとこうも変わるのかと、ティアはアリアの逞しさに、呆れ半分で感心した。
─────────
続く……




