一話四節『ズッコケ一人組聖女さん』
「…………綺麗」
ティアは、木の陰から半身だけ覗かせたまま、宙を舞う薄緑色の粒子に目を奪われていた。
粒子は木漏れ日を乱反射し、緑や金色に煌めきながら、雪のようにゆっくりと降りては、地面に吸い込まれていく。抉れた大地にも、灰になった落ち葉の上にも、等しく。町娘に過ぎないティアには、それが神の祝福のように映った。
「貴女。そこの貴女」
ティアは答えない。と言うより、見蕩れていた。
アリアに、ではない。目の前で起きた奇跡に、だ。
「薄赤髪」
「は、はいっ!」
ティアはようやくハッとし、薄赤色のハーフアップを振り乱すと、霊酒の入った紙袋を抱えながらアリアの元へ小走りで駆け寄った。擦りむいた膝がずきりと痛んだが、今はそれどころではない。
「あ、あの……」
「ん!」
「え、ええと……」
「ん!!」
返答に困るティアに、アリアは子供のように掌を上に向けて手を差し出し、強請る。
その表情はみるみるむすっとして、頬が膨らんでいく。先程まで異形を圧殺していた人物とは、とても思えない。
「んん!」
「は、はいっ! お礼の品です」
数秒遅れて、ティアの頭脳が情報を処理し、アリアに霊酒・エリクシールを紙袋ごと渡す。
アリアは袋から瓶を取り出すと、泥だらけの紙袋をぽいと放り捨て、瓶を陽に透かして眺める。ガラス越しに、緑色の液体がとろりと揺れた。
「……一応、本物みたいですね」
本物と聞いて、ティアはほっと胸を撫で下ろす。これでもし偽物だったら、怒り狂ったアリアが何をしたか――など、恐ろしくて想像もしたくなかった。なにせ、あの百目が手も足も出なかった相手だ。
味方のうちは鬼に金棒――いや、勇者に聖剣だが、敵に回すと魔王に軍勢だ。
ただ、ティアには一つ引っ掛かっていることがあった。
「あの……アリアさ――」「返しませんよ」
「違いますよ!」
言葉を被せて即答するアリアに、ティアは思わず声に力が入る。
アリアは、数秒押し黙った後、エリクシールに目を落としたまま促した。
「なんですか?」
「先程、アリアさんはそれをインチキ万病薬だと言っていましたが」
ティアが何を言いたいのか理解したアリアは、ああと喉を鳴らすと、エリクシールの瓶を指で叩く。コン、と鈍い音が鳴り、中の緑色の液体が静かに波打つ。
「エリクシールは教会で作られるリキュールの一種です。薬草をいくつも漬け込んだ薬酒なので、霊酒と呼ばれています」
「はい」
「ですが……」
そこまで言うと、アリアは瓶をクルクルと回し、コルク栓を抜く。
キュポン、と小気味よい音。瞬間、何種類ものハーブの匂いが立ち込め、風に乗って広がった。青々とした草の匂いの奥に、薄荷のような清涼感と、蜂蜜のような甘い香りが混じっている。
「現代医学では、リキュールである。という以外の効能はありません」
「現代医学……?」
ティアが首を傾げると、アリアは『こちらの話です』と、ひらひら手を振って内容をぼかした。
「……さすがにこれをラッパ飲みは出来ませんね」
栓を抜いておいて、アリアは飲むのを躊躇う。立ち昇る香りだけで、度数の強さがわかるのだろう。その整った顔の眉間には、何本ものシワが寄っている。
「あ……」
何かを思い出したのか、アリアは瓶を持ったまま、ポンチョのポケットをごそごそと探り、小さな布袋を取り出した。
「それは……?」
袋を覗き込むティアの問いには答えず、アリアは代わりに、中から角砂糖をひとつ摘まんで見せた。
「口寂しい時に舐める用です。こうします」
アリアは、エリクシールの瓶を優しく傾けると、一滴、霊酒を角砂糖に垂らす。
白い角砂糖に緑色の霊酒がじわりと染み広がり、アリアの指の熱と霊酒の水分で、角がほろりと崩れ始めた。
アリアはそれを口に放り込むと、舌の上でそっと転がして溶かし、幾つものハーブがブレンドされた霊酒の香りを味わった。目を閉じ、ほう、と小さく息をつく。
そして――
「貴女もどうぞ。一滴なら、お酒ではなく薬です」
アリアは、ティアにも同じものを振舞った。
ティアは戸惑ったが、アリアが手を引っ込めないので、肩にかけたショールで泥だらけの手を拭うと、エリクシールの角砂糖を受け取る。
「溶けますよ」
アリアがそう言うので、ティアはぺこりとお辞儀をしてそれを頬張る。
瞬間、角砂糖の素朴な甘さと、形容しがたい複雑な、しかし鮮烈で芳醇な香りが、口の中いっぱいに広がった。喉を通り過ぎた後には、胸の奥がぽうっと温かくなる。
「う……」
死の恐怖から解放された安堵からか、あるいは霊酒の効果か、ティアは思わず涙ぐみ、指で目尻をそっと拭う。
「……美味しい」
――おばあちゃんにも、食べさせてあげたかったな。
ティアはそう考えてしまったが、命が助かっただけでも大きい。お酒はまた、どこかで買えばいい。再度お礼を言って帰ろうとした、その時だ。
ポン、とコルク栓を戻す音がして、ティアが振り向くと、アリアがエリクシールの瓶を差し出していた。
「え……?」
意味が理解できず、ティアが立ち尽くしていると、アリアは聖母のような微笑みで、そっと語りかける。
「このお酒は度が強すぎてラッパ飲み出来ないので、貴女に返します。万病は治りませんが、薬草酒ですから、胃を整えたり身体を温めたりくらいはしますよ」
受け取りなさい、とでも言うように、アリアは瓶をもう一度差し出す。微笑みは崩れていない。優しいままだ。
「……」
ティアはその場でポロポロと涙を零し、返されたエリクシールを、そっと、大切に抱きしめた。ガラスの冷たさの向こうに、ほんのりとアリアの手の温もりが残っていた。
「角砂糖に染み込ませるのが普通ですが、普段の水に一滴垂らすだけでも、それが霊水になりますよ」
ティアは何も言わない。いや――言えない。涙で目の前がかすみ、鼻をすする音ばかりがズルズルと鳴る。
アリアは、くるりと踵を返すと、ティアが走ってきたのとは逆の方向――街の方へと歩き出した。
「はぁ……山道でただ酒だと思ったのに、タダ働きか……」
アリアは酷くしょんぼりとして、ガックリと肩を落とす。三つ編みまで、心なしか萎れて見える。
その背中を、ティアが呼び止めた。
「アリアさん、あの……お酒がお望みなら」
アリアの足が、ピクリと止まる。
「祖母のお店が居酒屋なので、ご馳走できますが……」
アリアがコンマ一秒で振り返る。そのまま風のように詰め寄ると、餌を目の前にした子犬のような表情で、前かがみになり、上目遣いでティアを見つめた。
「目玉は! 目玉は何ですか!?」
「ええと……地ビール?」
「地ビールキターーーー!!」
アリアはひゃっほうと小躍りすると、ティアの両手を掴み、ブンブンと上下に振り回す。
「行きましょう、今すぐ行きましょう。酒は急げ、時は酒なり。わたくしは命の恩人、さーレッツゴー!」
アリアは早口でまくし立てると、ティアの手を引いて、ズイズイと歩き出す。
「あの……」
「ああ、おつまみもあるならなおいいですね。ラーメンまでは期待しませんが、枝豆があれば御の字です」
「そっち、逆方向です」
アリアはズッコケた。それはもう盛大に、落ち葉の山へ頭から。
「……早く言いなさい」
髪にも服にも枝と木の葉を絡ませ、ムスッと頬を膨らませるアリアを見て、ティアはいつまでも笑っていた。
涙の跡が残る頬で、今日初めての、心からの笑顔だった。
これが、後に世に名を轟かせる二人の出会いである。
しかし、それはまだ先の話――
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第一話・完




