第2話 採集依頼と碧硝子の月光花
秋の深まりを感じさせる冷ややかな風が、ヴァルボート公爵邸の広大な庭園を吹き抜けていく。
午後一番、公爵邸の応接間に訪れた王立調合院の使者は、重々しい刻印が押された羊皮紙の書状をエルネへ恭しく差し出した。
「――『碧硝子の月光花』、でございますか」
受け取った書状に指先を添え、エルネは思わずその花の名を呟いた。
その瞬間、彼女の瞳の奥で小さな光が揺らめく。
彼女のスキル、あらゆる素材の真価や特性を一瞬で見抜く『超絶鑑定眼』が脳裏にその希少植物の膨大な情報を呼び起こす。
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碧硝子の月光花、霊性極上薬草。
生息地は海の丘、常闇の霊峰頂上付近の懸崖。満月の夜、わずか一時間のみ開花。
ガラスのごとく繊細な碧色の花弁を持ち、強烈な霊素と高度な治癒力を秘める。
抽出難度S、摘出から半刻以内に保存処置を施さなければ、自ら放散して結晶化し灰となる。
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「はい、星紡ぎの萬薬師殿」
使者は切実な面持ちで頭を下げた。
「現在、王都の貴族病院にて『黒死の残り香』と呼ばれる正体不明の難病に侵された幼く重病の方がおいでです。治療薬は未だなく、そちらの調査もいずれお願いしたいのですが……。まずは命を繋ぐ特効薬『天の雫』がないと。精製するには、今夜の満月の刻に開花する『碧硝子の月光花』がどうしても不可欠なのです。……この難度の高い採集と即座の現地保存を完遂できるのは、王国広しといえど、最高峰の称号を持つ、エルネ様しかおられません」
「幼いお子さんが……」
エルネの胸がキュッと締め付けられた。彼女は書状を強く抱きしめ、迷いなく頷いた。
「分かりました。お任せください。今夜の満月、絶対に摘み取って無事にお持ちします!」
「ありがとうございます! では、くれぐれもお気をつけて……」
使者が胸を撫で下ろして去っていくと、応接間の重厚な扉が開き、足音が近づいてきた。
「エルネ、急な依頼のようだが、本当に行くつもりなのか?」
踏み込んできたのは、ヴァルボート公爵家の当主であり、エルネの婚約者であるアルディスだ。あまりの美貌に「氷の彫刻」と称される彼は、心配そうに青色の瞳を曇らせていた。
「はい。『天の雫』は王国管理のポーションですが、在庫はないようです。よほど酷い病なのかもしれません。定期的に素材採取のスケジュールが組まれているはずですが、間に合わないようですね」
「うむ。私も定期採取スケジュールは護衛で参加したことがあるよ。海の丘の霊峰は、高所ゆえに夜になると極寒の魔素が吹き荒れる。凶暴な夜行性の魔物も蠢く危険地帯だ。たとえ特級調合官の要請であっても、君をそんな苛酷な場所へ向かわせたくはないな」
「アルディス様、お気持ちは嬉しいです。でも、今夜を逃したら次の満月まで一ヶ月待たなくちゃいけません。その子には、もう時間が……! だから、私は行きます!」
まっすぐな瞳で答えを見つめ返すエルネ。その凛とした佇まいに、アルディスは深くため息をついた。
「……君ならそう言うと思ったよ。ならば私も同行する。我が氷結魔法があれば、群がり寄る魔物など一掃してみせる」
「お言葉ですが、アルディス様」
エルネの背後から、すっと滑り出すように影が差した。
漆黒の髪に、滑らかなミルクチョコレート色の肌、そして深く艶やかな赤い瞳。
つい先日からエルネの専属執事として配属された青年、ジュリアンだ。
彼は優雅に一礼すると、完璧な所作で銀のトレーから温かな湯気を立てる紅茶をエルネの前に置いた。
「過保護な愛はお嬢様への最大の薬でございますが、公爵様が全力を出せば、その強大な氷結魔素によって繊細な『碧硝子の月光花』の花弁が凍りつき、薬効が半減してしまう恐れがございます。……違いますか?」
「……ぬ」
アルディスが言葉を詰まらせ、苦々しく眉をひそめた。
ジュリアンの指摘は正確だった。
『碧硝子の月光花』は過剰な魔力や急激な温度変化に極めて弱い。
強力すぎる攻撃魔法は、現地での採集において刃となるのだ。
「ご安心ください。このジュリアン、霊峰の地形、風向、生息する魔物の弱点に至るまで、すぐさま完全に頭へ叩き込んできます。採集の補助、周囲の警戒、そしてお嬢様の体調管理……すべて完璧に遂行してみせましょう」
ジュリアンは胸に手を当て、口元に甘く完璧な笑みを浮かべた。
(……ふん。他愛もない)
ジュリアンの赤い瞳の奥で、静かな計算が走る。
夜の霊峰という閉ざされた環境は、絶好の機会だ。
過酷な状況下でエルネを完璧に守り抜き、彼女の信頼を完全に勝ち取る。
そして自分なしでは立ち行かないと思わせるほどに彼女の心を依存させれば、彼女を手中に収めるという自身の目的は飛躍的に前進するはずであった。
「……いいだろう」
アルディスは苦渋の決断を下すように、低い声で言った。
「私も共に行く。だが、現地での採集作業の直接の護衛は貴様に任せる、ジュリアン。……万が一にもエルネに傷ひとつ負わせてみろ。貴様をその場で永久凍土の底へ叩き落とす」
「お任せください、アルディス様。お嬢様の髪一本、傷つけさせはいたしません」
優雅にお辞儀を飾るジュリアン。その完璧な執事の仮面の下で、冷ややかな野心が静かに蠢いていた。
◇◇◇
夜の帳が落ち、天空に満月が昇る頃。
三人は『海の丘』と呼ばれる沿岸部の霊峰の中腹に立っていた。
定期的に探索班が送られるこの場所は中腹にゲートがあり、王宮から転移で来ることができた。
問題はこの先である。
ザザーッ、ザザーッ。
遙か下方の断崖絶壁に打ちつける波音が、潮風に乗って重低音で響いてくる。
風は凍てつくように冷たく、立ち上る霧は月光を浴びて青白く妖しく光っていた。
「……うう、寒い……っ」
エルネは身を縮こまらせ、吐く息を白く染めた。
厚手のコートを羽織ってはいるものの、霊峰特有の冷気は肌を刺すような痛みを伴っている。
「エルネ、私の側から離れるな」
アルディスがすかさず寄り添い、彼女の肩を抱き寄せるようにして風除けになった。
その体からは、氷結魔法の使い手とは思えないほど温かな体温が伝わってくる。
「アルディス様、ありがとうございます……!」
「礼には及ばない。君を寒がらせるなど、婚約者として不甲斐ないからな」
甘い雰囲気を醸し出す二人を横目に、ジュリアンは一歩後ろで無表情のまま佇んでいた。
(まったく……いちゃついている場合か。この極寒の魔力濃度、そろそろ奴らが動き出す刻限だ)
ジュリアンの研ぎ澄まされた感覚が、周囲の暗闇に潜む悪意を感知していた。
幼少期から執事のプロとして仕込まれた彼の体は、五感の全てが察知に特化している。
一流の執事として護衛技術、戦闘技術も叩き込まれていた。
風のわずかな揺らぎ、草木の擦れる音の異変から、数頭の魔物がこちらを包囲するように接近してきているのを正確に把握していた。
(アルディス様の魔法は、花を傷つけるリスクがあるため使わせるわけにはいかない。……俺の手で、エルネ様に気づかれぬようスマートに処理する)
「お嬢様、頂上へはこちらでございます。足元が滑りやすくなっておりますので、どうぞ私の手をお取りください」
ジュリアンはすっと手袋を嵌めた手を差し出し、滑らかな動作でアルディスとエルネの間に割り込んだ。
「あ、ありがとうございます、ジュリアンさん」
エルネがその手に触れた瞬間、ジュリアンはほんのわずかに眉を寄せた。
(……冷たいな。これほど華奢で、脆弱な手……)
彼の知る人間は、他者を蹴落とし、口でも刃でも傷つけ合い血を流す貴族ばかりだった。
だが、この手の中に収まる小さな温もりは、ただ純粋に誰かの命を救うためだけに薬草を刻み、ポーションを調合してきた手だ。
その歪な対比に、ジュリアンの胸の奥がほんの少しだけざわついた。
「――っ! 来るぞ!」
アルディスが鋭い声を張り上げた。
突如、青白い霧を切り裂いて、数頭の巨大な影が飛び出してきた。
身の丈二メートルを超える、漆黒の毛並みを持った霊峰の捕食者『氷爪狼』の群れだ。
鋭い氷の牙を剥き出しにし、真っ赤な目を爛々と輝かせながら、狙いを澄ましてエルネへと跳びかかってくる。
「くっ、私の背後に――!」
アルディスが剣に手をかけ、魔法を詠唱しようとした瞬間、ジュリアンが制した。
「アルディス様は周囲の結界を! お嬢様は私がお守りします!」
「ジュリアンさん!?」
エルネが驚愕の声をあげる。
ジュリアンは仕込みナイフすら抜かなかった。
執事服の裾を美しく翻すと、常人には不可視の速度で地を蹴った。
(――甘い。踏み込み、間合い、殺気の垂れ流し……すべてにおいて素人以下だ)
戦闘の技術でさえ極めたジュリアンの体術が、暗闇の中で静かに炸裂する。
跳びかかってきた一頭目の顎下へ、掌打を正確に叩き込む。衝撃波が脳を揺らし、狼は声をあげる暇もなく卒倒した。
間髪入れず、二頭目の爪攻撃をミリ単位の切り返しで回避。その勢いのまま相手の関節を折り、裏拳で頸椎を砕く。
その一連の動きは、まるで洗練された宮廷ダンスを踊っているかのように美しく、滑らかだった。
血の一滴すら自らの服に飛ばさず、魔法の波動すら立てない。ただ純粋な効率的殺傷技術の極致。
「ハッ……!」
最後の三頭目がエルネの頭上から襲いかからんとした瞬間、ジュリアンはエルネの腰を抱き寄せ、クルリと旋回しながら彼女を完全に自らの胸の中に庇い込んだ。
ドサッ。
背後で狼が崩れ落ちる。
ジュリアンがすれ違いざまに最小限の力で急所を蹴り抜いたのだ。
「きゃっ……!?」
視界が旋回し、気がつくとエルネはジュリアンのしなやかな胸の中にすっぽりと収まっていた。
ほのかに漂う、上品なハーブとシトラスの香り。
そして、彼の服の奥から伝わってくる、驚くほど静かで力強い鼓動。
ジュリアンは伏し目がちに赤い瞳を滑らせ、腕の中のエルネを見つめた。
「……お怪我はございませんか、お嬢様」
耳元で囁かれる、低く甘い声。
「あ……は、はい! 大丈夫です……! すごい……ジュリアンさん、魔法を使わずにあんな大きな魔物を……!?」
エルネは目を丸くして感嘆の声を漏らした。
「私は身体強化に特化しておりますゆえ。執事たるもの、お嬢様に迫る不快な羽虫を払うことなど嗜みの一つに過ぎません」
ジュリアンは不敵で完璧な笑みを浮かべた。
(これでいい。完璧な頼もしさと、優雅さを見せつけた。お嬢様の心に、俺という存在が深く刻み込まれたはずだ)
「……ぐっ」
背後で、アルディスが心底苦々しそうに唇を噛んだ。
「素手での戦闘術……見事と言わざるを得ないな、ジュリアン。だが、いつまでエルネの腰に手を回しているつもりだ? 即座に離れろ」
「これは失礼いたしました、アルディス様。あまりにもお嬢様が可憐で、つい守る手が力んでしまいまして」
涼しい顔でエルネから離れるジュリアン。
だが、彼の指先には、今しがた抱きしめたエルネの体温が、残像のように熱く残っていた。
魔物の襲来を退け、三人はついに霊峰の頂上へと到達した。
そこは、夜空に浮かぶ満月の光が一直線に降り注ぐ、神秘的な空間だった。
崖の最果て、青白い月光が集中する岩の隙間に、奇跡の花が咲いていた。
「……綺麗……」
エルネは息を呑んだ。
それはまるで、極上の碧いガラスを丁寧に削り出して作られたかのような美しい花だった。
透き通る花弁が満月の光を吸収し、まるで自ら発光しているかのように淡いエメラルドグリーンの光を撒き散らしている。
これこそが、万病に苦しむ人々の気力を補う秘薬となる『碧硝子の月光花』であった。
「エルネ、時間が少ない。満月が雲に隠れれば、この花は散ってしまう」
アルディスが周囲を警戒しながら促す。
「はい!」
エルネは急いで膝をつき、調合ポーチから銀製の専用ハサミと、特殊な保存液を満たしたガラス瓶を取り出した。
彼女の瞳が輝く。
視界に映る月光花の表面に、細かな光の粒子が浮かび上がった。
茎の根元から三ミリ上。斜め四十五度の角度で切断。切断後、十秒以内に保存液へ浸浸させる。
(よし……一発勝負……!)
エルネの手から一瞬で迷いが消える。
彼女の指先は精密かつ素早く動き、銀ハサミが美しい音を立てて茎を切り取った。
間髪入れず、光を失いかけた花弁をすくい上げ、ガラス瓶の保存液へと静かに沈める。
しゅわぁぁぁ……。
小さな気泡が立ち上り、碧色の花は瓶の中で変わらぬ輝きを保ったまま、完璧に保存された。
「……できた! 採集成功です!」
エルネは花が咲くような笑顔を弾けさせた。
その瞬間、雲が月を覆った。
先ほどまで咲いていた茎の残骸は一瞬で灰となって風に散っていった。まさに間一髪、神業のような手際だった。
「素晴らしい手際だ、エルネ。君の技術にはいつも驚かされる」
アルディスが心からの賛辞を贈り、彼女の頭を優しく撫でた。
「ふふ、ありがとうございます!」
エルネは誇らしげに胸を張り、瓶を大切に抱きしめた。
その光景を少し離れた場所から見ていたジュリアンは、胸の奥に不快な歪みを感じていた。
(……何だ、この感覚は)
公爵に頭を撫でられ、嬉しそうに微笑むエルネ。
完璧な執事として彼女の信頼を得るつもりだった。計算通りに事は進んでいるはずだ。
それなのに、なぜ彼女がアルディスに向けたその無邪気な笑顔を見るだけで、苛立ちとも焦燥ともつかない重苦しい塊が胃の奥に落ちてくるのか。
(俺の仕事は、彼女に信頼され、確固たる立場になることだ。……公爵に対して抱くこの感情は、単なる作戦の邪魔者に対する嫌悪に過ぎない。そうだ、それ以外にあるはずがない)
ジュリアンは己の胸に湧き上がった未知の揺らぎを、冷徹な理屈で強引に押し殺した。
◇◇◇
採集を終えた三人は、無事に霊峰から王宮は戻った。公爵邸に帰るために、待機させていた馬車へと戻る途中にいた。
緊張が解けたせいか、行きの刻よりもいっそう冷たく感じられた。
ふと、エルネは隣を歩くジュリアンに視線をやった。
ジュリアンは相変わらず完璧な姿勢で歩いていたが、その美しいミルクチョコレート色の肌は心なしか白っぽく見え、薄い唇が微かに震えているのに気づいた。
(あ……ジュリアンさん、寒いのを我慢してる……?)
ジュリアンはエルネを守るため、コートも羽織らずに薄手の執事服一着で激しい戦闘を行い、極寒の風に晒され続けていたのだ。
一流の訓練を受けた彼の体は寒さに耐えうる頑丈さを持っているが、肉体の生理現象としての冷えまでは完全には消せない。
「ジュリアンさん、ちょっと立ち止まってもらえますか?」
「はい……? どうかされましたか、お嬢様」
ジュリアンが足を止め、エルネに近寄る。
エルネは調合ポーチをガサゴソと探ると、小さな小瓶を取り出した。中には、ほんのりと赤く温かな光を放つ液体が入っている。
「これ、飲んでください!」
「これは……?」
「私が作った高保温ポーションです! 飲むと体がぽかぽかして、冷えが吹き飛ぶんですよ。ジュリアンさん、私を守るためにずっと寒い中で頑張ってくれたでしょう? 顔色、すごく悪いです」
エルネは小瓶をジュリアンの手に無理やり握らせた。
小瓶から伝わる温もりが、ジュリアンの凍えた指先にじんと染み渡る。
「……お嬢様。私は執事です。主人のために身を粉にするのは当然の義務。このような貴重なポーションを、私ごときに消費されるのは――」
「ごとき、なんて言わないでください!」
エルネが唇をきつく結び、ジュリアンの言葉を遮った。
彼女はジュリアンの前に立ち、その深い赤い瞳をまっすぐに見つめ返した。
「執事さんだからとか、立場なんて関係ありません。今夜、ジュリアンさんがいてくれなかったら、私は魔物に襲われていたかもしれないし、こんなに綺麗に月光花を採集することもできませんでした。……全部、ジュリアンさんのおかげです」
エルネの表情が、ふわっと柔らかく解けた。
満月の残光を浴びながら、彼女は心の底からの感謝と、どこまでも清らかな愛おしさを込めて、ジュリアンへ笑顔を向けた。
「本当に、ありがとうございます。ジュリアンさん」
「――――」
ドクン。
ジュリアンの世界から、すべての音が消え去った。
波の音も、木々を揺らす風の音も、背後でアルディスが静かに警戒する気配すらも。
ただ目の前で、自分に向かって世界で一番美しい笑顔を浮かべせる少女の姿だけが、彼の視界を支配していた。
(胸の奥が、熱い。熱くて、甘くて、どうしようもないほど痛い)
幼い頃から、他人に向けられる言葉はすべて「利用」か「命令」だった。
誰かが自分のために心を痛め、無償の感謝と労りを向けてくれたことなど、ただの一度だって無かった。
彼は、エルネの言葉を「自分を油断させるための計算」だと捉えようとした。
だが、目の前の少女の瞳には、一切の裏も、不純物も、計算すら存在しない。
ただ純粋に、一人の人間として、ジュリアンの無事を喜び、感謝しているのだ。
(何なんだ……これは……。俺は地位と名誉のために……利用するために……この女に近づいたはずだ……)
ジュリアンは息を詰まらせ、小瓶を握りしめる手にぎゅっと力を込めた。
ミルクチョコレート色の肌の下で、鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
自分の冷酷で完璧なはずだった世界が、たったひとつの少女の笑顔によって、音を立てて崩れ去っていくような恐怖と官能的なまでの歓喜。
「……ジュリアンさん? どうかしましたか?」
不思議そうに首をかしげるエルネ。
「……いえ」
ジュリアンは胸に手を当て、深く、深く頭を下げた。
漆黒の髪が前垂れになり、彼の真っ赤に染まった耳と、酷く狼狽した表情を隠す。
「……お嬢様のお心遣い、痛憤の極みにございます。このジュリアン……生涯をかけて、お応えいたしましょう」
声が、わずかに震えていた。
ポーションの蓋を開け、一気に飲み干す。
身体の芯から温かな熱が広がっていくが、それ以上に、彼の胸の中に灯った未知の炎は、二度と消えることがないほど激しく燃え上がっていた。
◇◇◇
翌朝。
王立調合院へ無事に『碧硝子の月光花』が届けられ、難病に苦しんでいた幼い患者は無事に一命を取り留めたという知らせが公爵邸へ届いた。
「よかったぁ……! 本当によかった……!」
陽光が差し込む明るい調合室で、エルネは朗報が書かれた手紙を胸に抱き、安堵の笑みを浮かべていた。
「君の努力が実を結んだな、エルネ。誇るといい」
ソファーに腰掛けたアルディスが、優しく目を細めて紅茶を口にする。
「はい! でも、やっぱりアルディス様とジュリアンさんがいてくれたおかげです!」
エルネが振り返ると、そこにはいつものように洗練された立ち姿で佇むジュリアンがいた。
「お褒めの言葉、光栄にございます、お嬢様」
ジュリアンは完璧な角度でお辞儀を捧げた。
その表情は、いつもの完璧な執事そのものだ。
しかし彼の赤い瞳の奥に宿る熱は、昨日までとは決定的に異なっていた。
あの温かなポーションの味と、自分に向けられた「ありがとう」という言葉が、胸の中で甘い毒のように彼を苛み続けているのだ。
(お嬢様……貴女は俺に『自分を大切にしろ』と言いましたね)
ジュリアンは密かに、エルネの背中を愛おしそうに見つめた。
(ええ、大切にしましょう。俺の命も、俺の存在も……すべて、貴女の笑顔を守るための『道具』として)
彼は悟ってしまった。
自分は彼女の信頼を得ようとして、逆に逃げ出すことの奪えない、美しく温かな罠へと自ら堕ちてしまったのだということを。
今の彼を動かす唯一の原動力はあの可憐な『特級万能鑑定調合官』への、狂おしいほどの執着と忠誠心のみ。
「ジュリアン、何をニヤニヤしている。不愉快だ、エルネから離れろ」
アルディスが不機嫌そうに冷気を漂わせる。
「これは失礼いたしました、アルディス様。お嬢様の無邪気な愛らしさに、つい見とれてしまいまして」
ジュリアンは涼しい顔でかわすと、エルネに向かって甘く囁いた。
「さあお嬢様、本日のお仕事の前に、特製の焼き菓子とハーブティーをご用意いたしました。このジュリアンが、今日も一日、全身全霊でお仕えいたしますね?」
「わぁ! ありがとう、ジュリアンさん!」
バチバチと視線を交わすアルディスとジュリアン。
その過保護なバトルの中心で、エルネは今日も嬉しそうにハーブティーを一口含んだ。
新しい絆と、密やかな愛執が交錯する公爵邸の朝は、今日も賑やかに過ぎていくのだった。




