第1話 特級万能鑑定調合官エルネ
「――よし。『夜切草』の純度、最高……! ここで『マンドラゴラ』の抽出液を二滴……」
湯気と甘やかな香りが立ち込める公爵邸の調合室。
少女は真剣な眼差しでガラスフラスコを覗き込み、手際よく振っていた。
彼女自身の瞳に宿る特殊能力――あらゆる素材の価値や毒性、最適な調合比率を一瞬で見抜く『超絶鑑定眼』の光が明瞭な数値を導き出し浮かび上がる。
「完成……! 王立騎士団からの特注依頼、『高純度・即効性疲労回復ポーション』!」
澄み切った黄金色の液体がフラスコの中で美しく輝いた。
小さな息を吐き出し、胸元に飾られた重厚な勲章に触れる。
彼女の名は、エルネ。
先日、深海のアトランティクス王国における未曾有の危機を救い、陸と海のふたつの世界に和平をもたらした偉業を称えられ、王国最高峰の称号が新設された。
その名も『特級万能鑑定調合官』に就任したばかりの調合士だ。
「さすがはお嬢様。難関と言われる騎士団用のポーションを、下準備からわずか二時間で完成させるとは……実に素晴らしい手際です」
背後から響いたのは、静かに溶けるような、低く甘い声音。
エルネが振り返ると、そこには一目見れば誰もが言葉を失うほど洗練された、絶世の美青年が佇んでいた。
夜の闇をそのまま紡ぎ取ったかのように艶やかな漆黒の髪。
ほんのりと甘い温もりを感じさせる、滑らかなミルクチョコレート色の肌。
そして、完璧に仕立てられた執事服の隙間から覗く――深く澄み渡った妖艶な赤い瞳。
彼は優雅な所作、完璧な角度でお辞儀を捧げた。
「集中した後の疲労したお身体に、お召し上がりください。お嬢様の体調と好みを考慮し、『海塩蜂蜜』と『柑橘草』を独自の黄金比で淹れた特製ハーブティーでございます」
「わぁ……! ありがとう、ジュリアンさん!」
受け取ったカップから漂うのは、上品なフローラルが混ざり合った至高の香り。
ひとくち口に含んだ瞬間、エルネの『超絶鑑定眼』が歓声を上げた。
(すごい……! 抽出温度も完璧だし、隠し味にほんの少しだけ海の塩分が含まれてて、疲れた体にぐんぐん染み渡る……!)
「すごく美味しい……! ジュリアンさん、本当に何でもできちゃうんだね!」
「お気に召していただけて光栄です、私のお嬢様」
ジュリアンは赤い瞳を細め、さらりとした漆黒の髪を揺らして微笑んだ。
「貴女のような可憐で偉大な『特級万能鑑定調合官』様のお世話をさせていただけるなど、私の人生最大の誉れ。朝のお目覚めから調合のお手伝いまで、このジュリアン、全身全霊をもってお嬢様に尽くさせていただきます。……何なりとお命じくださいね?」
顔を近づけ、甘い吐息が触れそうな距離で囁くジュリアンに、エルネは思わず頬をぽっと赤く染めた。
――ジュリアン。
彼がこのヴァルボート公爵家にエルネ専属の執事として着任したのは、今朝のことだ。
アトランティクスでの大事件の後。
エルネの存在と『超絶鑑定眼』の価値は世界中に知れ渡り、危険な野心家や闇の組織から狙われるリスクが跳ね上がった。
それを心から危惧した公爵家によって、エルネの護衛兼専属執事として配属されたのが彼だった。
(それにしても……ジュリアンさん、すごく大人っぽくて甘い雰囲気の人だな……)
感嘆するエルネだった。
(……ふん。素直で可憐な『お嬢様』か)
一方で、ジュリアンの赤い瞳の奥では、静かな計算が走っていた。
彼女の信頼を完全に勝ち取り、この屋敷の中で「自分なしでは立ち行かない」ほどの存在になること。
それが、彼がこの場に立つ上でのひとつの目標であった。
(公爵家の厳重な警戒も、この私の給仕で簡単に揺らぐ。あとはお嬢様の心を私だけに向けさせればいい)
ジュリアンが密かに自負を深めた、まさにその瞬間だった。
「ジュリアン。調合室で私の婚約者に、ずいぶんと不躾な距離で接しているようだな」
ドゴオオン!
音がしそうなほどの冷気が、調合室のドアを押し開けて雪崩れ込んできた。
そこに立っていたのは、あまりの美しさに「氷の彫刻」とまで称されるアルディス・ヴァルボート公爵であった。
王国最強の氷結魔法の使い手であり、世間からは『絶対零度の氷結公爵』と恐れられている男だ。
しかし今、彼が撒き散らしているのは敵に対する殺気ではなく、猛烈な嫉妬心だった。
「あ、アルディス様! 調合、ちょうど終わったところです!」
「お疲れ様、エルネ」
エルネに向ける眼差しは一瞬でとろけるような温もりを帯びるが、隣に立つジュリアンへ視線を移した途端、その温度は絶対零度へと垂直落下する。
「……専属執事として雇いはしたが、エルネにそこまで顔を近づける許可など出していないぞ。離れろ」
「これはこれは、アルディス様」
ジュリアンは一切の動揺も見せず、優雅にお辞儀をしてみせた。
「お言葉ですが、専属執事としてお嬢様の作業後の疲労を癒やすのは当然の責務。お嬢様の可憐な笑顔を引き出すことも大切な役割でございます。……それとも公爵様は、おのれの包容力に自信がおありでないと?」
「な……ッ!?」
アルディスの額に、ピキリと青筋が浮かぶ。
「貴様……! 執事の身でありながら私に煽りを入れるとはいい度胸だ」
「滅相もございません。ただ、お嬢様を想う情熱において、公爵様に遅れをとるつもりはない、という表明に過ぎません」
ジュリアンは涼しい顔でかわすと、エルネに向かって手際よく手拭いを差し出す。
「お嬢様、お顔に少し薬草の粉がついております。お拭きいたしますね」
「待ちなさいジュリアン!! エルネの顔を拭くのは私の役目だ!」
「公爵様、そこまでおやりになっては執事の存在意義が失われます」
「私の婚約者の世話を煩わしいと思ったことなど一度もない!!」
バチバチバチ!
目に見える火花と氷結晶が二人の間で散り散りになる。
(……え、ええぇ……!? なんだか朝から、すごい空間になっちゃってる……!?)
エルネは二人の激しい視線(と冷気)に挟まれ、ハーブティーのカップを握りしめたまま、震えていた。
◇◇◇
昼食のテーブルでも二人の過保護なバトルは続いていた。
「お嬢様、スープをどうぞ。お熱いのでふーふーいたしますね」
「待てジュリアン! なぜ貴様が給仕以上のことをしようとする! エルネにあーんをするのは私だ!」
「あ、あの! お二人とも! 私、自分で食べられますからーっ!」
両側から迫るイケメンふたりのプレッシャーに耐えかね、エルネは慌てて自分でスープを口に運んだ。
「……あ、美味しい……! お野菜の甘みがすごく出てて、胃に優しく染み渡る……」
「お気に召して幸いです、お嬢様」
ジュリアンは満足そうに微笑み、アルディスへ勝ち誇ったような視線を投げかける。
「ふん……ジュリアン、午後からの素材採集に貴様を同行させるわけにはいかない。野外は危険だ」
「ご安心ください、公爵様」
ジュリアンはポケットから小さなメモを取り出し、すらすらと読み上げた。
「お嬢様が本日採集予定の『霧雫草』に関する性質、周辺の生態系、および危険魔物32種の対策は、昨夜のうちにすべて頭に叩き込んでございます。完璧にエスコートしてみせましょう」
「な……ッ、一夜でそれほどの知識を……!?」
アルディスが絶句する。
それもそのはず、ジュリアンにとって知識の丸暗記など、造作もないことだった。
「私は王室からもお墨付きをいただいているエキスパートでございます」
(ふ……甘いな、氷結公爵様。あなたが手出しできない領域で、お嬢様の『唯一無二の理解者』として立ち位置を固める。過保護な嫉妬すら、執事の完璧さを際立たせる引き立て役に過ぎん)
ジュリアンは心の中でフッと不敵な笑みを浮かべていた。
このまま甘い言葉と完璧なサポートで彼女の信頼を一身に集めれば、自分の目的は容易に果たせるはずだ。
「……ジュリアンさん」
不意に、名前を呼ばれた。
「はい、お嬢様。何か不手際でも?」
ジュリアンは一瞬で「完璧で優しい執事」の笑顔を作り直し、身を乗り出した。
しかし、エルネが見せていたのは、先ほどまでの困惑した表情ではない。どこまでもまっすぐで、清らかな真摯さを宿した瞳だった。
「昨夜、私のためにそんなにたくさん勉強してくださったんですね……。私のために、自分の時間を削ってまで……」
「あ……いや、それは執事としての当然の役割で――」
「ありがとうございます、ジュリアンさん。でも、無理はしないでくださいね?」
エルネは胸の前で小さな手をギュッと握り締め、心の底からの感謝と気遣いを込めて、ジュリアンを見つめた。
「私のお世話のせいでジュリアンさんが倒れちゃったら、私、すごく悲しいです。ジュリアンさんの淹れてくれたお茶も、今日のスープも、すごく優しくて温かい味がしました。だから……私に仕えるためだけじゃなくて、ジュリアンさん自身も大切にしてくださいね?」
「――――」
ジュリアンの思考が、一瞬完全に停止した。
計算や利害関係、あるいは自分の完璧な立ち回りを評価されることには慣れていたジュリアン。
誰かに甘い言葉をかけるのも、相手の心を動かすための計算された手段でしかなかった。
この少女は、完璧な手腕を褒めたのではない。
「自分のために努力してくれたこと」に感謝し、あろうことか、執事の体を本気で気遣っているのだ。
ミルクチョコレート色の肌の下で、ドクンと激しく心臓が跳ね上がった。
ジュリアンの胸の奥が、焼け付くように熱い。
甘くて、切なくて、痛いような未知の感情が全身を駆け巡る。
(……バカな。俺はただ、自分のペースに巻き込むつもりだったはず……! なのに……なぜこの少女の言葉ひとつで、胸がこんなにざわついている……!?)
「ジュリアンさん……? どうかしましたか? 顔色が……」
エルネが心配そうに身を乗り出し、小さな手をジュリアンの手の上に重ねようとする。
「――っ! い、いえ……!」
ジュリアンは思わず、弾かれたように半歩後ずさった。
触れられたら、自分の嘘のすべてが暴かれてしまいそうな恐怖と、愛おしさに襲われたからだ。
「……失礼いたしました、お嬢様。あまりにも温かいお言葉を賜り、感極まってしまったようです」
胸に手を当て、何とか取り繕うように深く頭を下げるジュリアン。
だが、その漆黒の髪の隙間から覗く耳たぶが、ほんのりと赤く染まっているのを、アルディスの鋭い眼差しは見逃さなかった。
(……ほう?)
アルディスは瞳を細め、冷ややかでしかしどこか見抜いたような笑みを浮かべた。
「どうやら、我が家の新執事は完璧な仕事ぶりの割に打たれ弱いと見える。エルネの優しさは、並の男には毒にも薬にもなるからな」
「……公爵様のお気遣い、感謝申し上げます。ですが、ご心配には及びません」
ジュリアンはゆっくりと顔を上げた。
その赤い瞳には、先ほどまでの冷徹な計算とは違う、どこか混濁した熱が宿っていた。
「私は……このエルネお嬢様『だけ』に忠誠を捧げる者。お嬢様の御身と笑顔を守るためならば、どんな毒であれ甘んじて受け入れましょう」
「ふん……口だけは達者だな」
アルディスは腕を組み、冷気を纏いながらジュリアンを睨みつける。
「いいだろう。エルネの専属執事としての手腕、しかと見せてもらおうか。ただし……一歩でも一線を越えてエルネを傷つけるような真似をしてみろ。その瞬間に、貴様を永久凍土の底へ沈めてやる」
「承知いたしました。アルディス様」
静かに、しかし激しく火花を散らす二人の男。
その間に挟まれたエルネは、ため息をつきつつも、どこか嬉しそうに微笑んだ。
(アルディス様は相変わらず過保護だけど……ジュリアンさんという素敵な執事さんが来てくれて、なんだかこれから、もっと賑やかで楽しい毎日になりそうだな)
『特級万能鑑定調合官』としての新たな一歩を踏み出したエルネ。
彼女を溺愛し守ろうとする過保護な氷結公爵。
そして、甘い罠を仕掛けるはずが、自らその温かな罠へと囚われつつある漆黒の執事。
三人の少し歪でどこか愛おしい「新しい日常」が、いま静かに幕を開けたのだった。




