第5話 天を覆う魔導陣
父さんの抱えていた問題が片づいてから、数週間が過ぎた。
鉱山の収入は順調に増えているらしく、頼んでいた本と薬品が、ようやく屋敷へ届いた。箱を開けるときには父さんも立ち会っていたが、俺が礼を言うより先に、昼食は抜くなと念を押された。すでに何度か呼びに来てもらっているので、そこは返す言葉もない。
今日は新しい術式を試すつもりだった。両腕に本を抱え、倉庫へ向かう足も自然と速くなる。ところが、廊下の角を曲がったところで、玄関から駆け込んできた召使いとぶつかりそうになった。
「ギース様! 北方の監視塔から急報です!」
声に振り向いた父さんへ、召使いが書状を差し出す。封を切った父さんの顔から、たちまち表情が消えた。
「魔獣大移動だと……?」
「最初の報告では三百ほどでしたが、後続が確認されています。今は数千に上ると!」
父さんは書状を握ったまま、窓の外へ目を向けた。俺もつられて見る。いつもと変わらない庭の向こうで、鐘が鳴り始めた。昼を知らせるものとは違う、短く切迫した音だった。
「住民を避難させろ。北門の守備隊へ伝令を。騎士団長と各隊長を呼べ、すぐに軍議を開く」
返事をした召使いが走り去ると、父さんは俺の前に膝をついた。本の山が傾いていたのを直し、それから俺の肩へ手を置く。
「ルミナ。今日は母さんと一緒にいなさい。倉庫へは行くな」
理由を尋ねる前に、父さんは立ち上がった。廊下の奥から、すでに別の兵士が駆けてくる。俺はひとまず本を近くの棚へ置き、呼びに来たアイリスの手を取った。
※ ※ ※
屋敷の広間には、城門近くから避難してきた住民が集まっていた。ここで人数を確認し、必要なら南へ逃がすのだという。椅子は老人や子供に譲られ、壁際には毛布や水の入った桶が並べられていく。
支度を終えた父さんが姿を見せたのは、その最中だった。鎧の留め具を確かめる横には、剣を帯びたルイもいる。いつもなら俺に何か言ってくる兄が、今日は黙って手袋を締めていた。
「城壁の内側で、伝令と後送を手伝わせる。勝手に前へ出るなと言い聞かせてある」
父さんの説明に、母さんはうなずいた。ルイの襟を直し、二人を送り出す。アイリスは扉が閉まってからも、その方を見つめていた。組んだ両手の指先が、白くなっている。
「母さん。魔獣大移動というのは、よく起こるのですか?」
「数十年に一度、と言われているわ。でも、前の大移動からは十年も経っていないの。こんなに早く、また起こるなんて……」
母さんは途中で口を閉じ、俺の髪を撫でた。隣では赤ん坊が泣き出し、その母親が何度も背中をさすっている。広間の誰もが、廊下から足音が聞こえるたびに顔を上げた。
「倉庫へ戻れるのは、いつ頃でしょうか」
「今は分からないわ。城壁で追い返せても、森に魔獣が残るでしょう。前のときは、外で安心して仕事ができるまで、何か月もかかったそうよ」
何か月。それは困る。やっと道具がそろったところなのだ。だが、目の前の母親は、研究どころか家へ帰ることさえできないでいる。俺が口を開きかけたとき、母さんは水を求める老人に呼ばれて立ち上がった。
この人数を抱えている場所で、戦いに行くと説明しても、止められるだけだろう。父さんにも倉庫へ行くなと言われたばかりだ。
「母さん、少しお手洗いへ行ってきます」
「一人で大丈夫?」
「はい。場所は覚えました」
※ ※ ※
廊下から人影がなくなるのを待ち、裏口へ回った。倉庫は朝のままだ。机の上に広げていた術式図を確かめ、必要な魔力の配分を頭の中で組み直す。
この数週間、小さな術式を繰り返し動かして、身体の癖はつかんでいる。山を吹き飛ばしかけたときのような失敗は、もうしない。
目を閉じ、北へ意識を伸ばす。家族と通った城門を目印に探れば、その上に大勢の人間の魔力が集まっていた。外側には、数えるのも面倒なほどの反応がある。兵士のいない足場を探し、空間をつないだ。
「転移」
足の裏から倉庫の床の感触が消え、次の瞬間、冷たい石に変わった。怒号と弦の鳴る音が、一度に耳へ飛び込んでくる。
城壁の上では、兵士たちが矢を射続けていた。矢筒を抱えた男が走り、別の兵士が負傷者を階段へ運ぶ。誰も俺を見ている余裕はない。
「後ろにもいるぞ! 森の奥だ!」
叫び声の先を見て、ようやく規模が分かった。平原を埋めた魔獣の向こうで、木々が揺れ続けている。数千どころではない。後続まで含めれば、一万を超えるだろう。
先頭の甲殻獣が、矢を弾きながら迫っていた。上空には翼を広げた魔獣もいる。このままでは、地上を食い止めても城壁を越えられる。
「……ちょうど、試したかったところだ」
俺は身体を浮かせた。兵士の一人がこちらを見上げ、目を見開く。その口から声が出る前に、城壁より高く上がった。
まず壁際へ障壁を張り、味方の位置を確かめる。それから右手を上げた。前世で何度も手直しした術式だ。組み上げる順番は、指が覚えていた。
「《天星魔導陣》」
頭上に一つ、巨大な魔法陣が開く。その周囲に次々と陣が連なり、北の空を埋めていった。地上の怒号が途切れる。俺は各陣へ魔力を送りながら、迫る魔獣を種類ごとに捉えた。
硬い殻には雷。空を飛ぶものには風。密集した群れには、逃げ道を塞いでから炎を落とす。全部を同じ魔術で焼くより、その方が早い。
腕を振り下ろすと、空から幾筋もの雷が走った。
甲殻獣が脚を突っ張ったまま倒れ、後続がその身体につまずく。城壁へ回り込もうとした飛行魔獣は、風刃に翼を裂かれて落下した。大きな岩の身体を持つものは足場を崩し、転倒したところへ氷槍を撃ち込む。
炎を吸い込んだ魔狼には、土から引き抜いた岩を叩きつけた。魔力を喰えても、頭上に落ちてくる重さまでは消せないらしい。
砲撃を重ねるたび、地上の反応が減っていく。城壁へ近づいた群れから順に片づけ、森を抜けた後続へ照準を移した。やがて、あれほど押し寄せていた魔獣の足が止まった。
土煙の下には倒れた巨体が重なり、平原のあちこちで炎がくすぶっている。城壁は無事だ。俺は息を吐き、残った反応を探した。
「これで、ひとまず――」
一か所だけ、おかしな場所があった。
焼けた大地の真ん中を、四つ足の獣が歩いている。黒い皮膚に傷はなく、こちらを見上げた口が、不釣り合いなほど大きく開いた。
試しに火球を落とす。獣は避けなかった。火球は口元で細く引き伸ばされ、そのまま喉の奥へ消えていった。直後、そいつの魔力が膨れ上がる。
先ほどの魔狼とは違う。吸収する速さも、取り込める量も、桁が違った。喉から腹へ走る脈動を見て、古い記憶がよみがえる。
「喰魔獣グラトニー……」
前世の魔獣図鑑に載っていた名前が、口をついた。黒い獣は一歩踏み出し、まだ空に残る魔法陣へ、飢えたように口を開いた。
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