第3話 物置を研究室に
俺は家督に興味がない。領主の仕事はルイに任せて、できれば魔術の研究に専念したい。もちろん、食事から着替えまで世話になっている身だ。この家に恩を返す気はあるが、帳簿を眺めるより、魔道具の一つでも作る方が俺には向いている。
今朝は早くに起きて、屋敷裏の森で魔力の調整をしていた。昨日の火球を思い出し、今日は水滴を浮かべる程度にとどめている。おかげで加減はつかめてきたものの、実験のたびにしゃがんで地面へ記録を残すのは、どうにも具合が悪かった。
小枝で書いた術式の上を、蟻が歩いていく。追い払って続きを書こうとしたら、今度は風で枯れ葉が飛んできた。
「……外で研究するのは捗らないな」
せめて机と椅子が欲しい。道具を広げたままにできれば、なおいい。自室でも構わないが、絨毯に薬液でもこぼしたら、掃除をする人に申し訳ない。
使っていない部屋を借りられないだろうか。そう思いつき、俺は小枝を置いて屋敷へ戻った。
ところが、ギースがどこにいるのか分からない。廊下を進み、開いている扉から中をのぞいてみたが、客間らしき部屋ばかりだった。似たような扉が多すぎる。研究室なら匂いで分かるのだが、領主の仕事部屋は何を目印に探せばいいのだろう。
「あら、ルミナ。どうしたの? そんなに急いで」
振り返ると、着替えと布を抱えたアイリスがいた。俺の膝元へ目を落としたかと思うと、少し眉を寄せる。
「裾に葉っぱがついてるわよ。外にいたの?」
「少しだけ。それより、父さんの部屋を探していて……」
「父さんなら出かけてるわ。お昼までには戻ると思うけど」
それでは仕方がない。待っている間に、必要な道具でも書き出しておこう。礼を言って自室へ向かおうとしたところで、アイリスに手を取られた。
「ちょうどよかった。一緒にお風呂に入りましょう」
「……今から?」
「朝の稽古で汗をかいたの。ルミナも、そんな手じゃ本を汚しちゃうわよ」
見れば、爪の間に土が入っていた。手だけ洗えば十分では、と言いかけたのだが、アイリスはもう浴室へ歩き始めている。どうもこの家では、俺の足で歩くより、誰かに連れていかれる時間の方が長い。
※ ※ ※
浴室は石造りで、浴槽も足を伸ばせるほど広かった。ただ、湯は半分ほどしか張られていない。アイリスによると、沸かすにも運ぶにも手間がかかるので、家族で続けて使うのだそうだ。
なるほど、それなら一緒に入ろうと誘われるわけだ。事情は分かったが、こちらには長年、一人で入浴してきた習慣がある。着替えまで手伝われそうになり、それだけは自分でやると押し切った。
湯に入ってしまえば、温かさに肩の力も抜けた。もっとも、以前のつもりで足を伸ばしても、浴槽の縁にはまるで届かない。腰を落ち着ける場所を探していると、アイリスが俺の背中を支えてくれた。
「ほら、こっち。深いところへ行かないの」
「分かっています」
八十二歳まで生きた男が、風呂で心配されている。ありがたいのだが、何とも落ち着かなかった。
「最近、魔術の勉強はどう?」
「それなりに。試したいことが多くて」
「そう。よかった。鑑定の後、本を読むのも嫌になっちゃうかと思ってた」
アイリスは安心したように笑った。昨日、菓子を分けてくれたのも、やはり気遣ってのことだったらしい。大丈夫だと答えると、今度は俺の髪についた小さな葉を見つけて、呆れたように取り除いてくれた。
せっかくだ。魔術を学んでいる姉なら、聞きたいことがある。
「アイリスは、無詠唱で魔術を使えるのですか?」
「まさか。そんなことができたら、今頃、王都からお迎えが来てるわよ」
冗談めかした返事に、俺は顔を上げた。無詠唱など、熟練の魔術師なら使えて当然だった。もちろん習得には練習が必要だが、わざわざ王都へ招くほどのことでもない。
「無詠唱は伝説の魔術師が使うものよ。私なんて、詠唱しても失敗することがあるのに」
「では、水属性以外には何を?」
「水だけよ。ルイは火でしょう? 一つ使えれば十分なの。三属性も扱えたら、名前が国中に知れ渡るわ」
俺は返事を忘れた。昨日の鑑定器も妙な作りだったが、魔術の教え方まで変わっているらしい。前世では、適性の高い属性から覚え、慣れたら別の属性へ進むのが普通だったはずだ。
昨夜、自室にあった本の年表と今年の暦を照らし合わせた。自分が死んだ年から、およそ千年が過ぎていると分かったときには、さすがに驚いたものだ。しかし、長い年月が経ったなら、魔術も相応に進歩していると思っていた。
「……千年で何があった?」
「え?」
「いえ、何でもありません」
湯から出した指に、小さな水滴がついている。いつもの癖で浮かべかけて、やめた。まずは本を読もう。俺の知っている常識を持ち出す前に、この時代の事情を確かめたい。
※ ※ ※
風呂を出た後、髪を乾かしてもらっている間にギースが戻ってきた。廊下で姿を見つけた俺は、今度こそ逃すまいと駆け寄った。
「父さん。使っていない物置を貸してください」
「物置? 何に使うんだ」
「魔術の研究です。机を置いて、本や道具を広げられる場所が欲しいんです」
ギースは少し黙った。昨日の鑑定結果が頭をよぎったのかもしれない。しかし、俺が返事を待っていると、手にしていた書類を召使いへ預けた。
「見るだけ見てみるか。裏に、今は使っていない倉庫がある」
案内されたのは、屋敷の裏手に建つ小さな倉庫だった。扉を開けると埃っぽい空気が流れ出し、壁際には古い棚や木箱が並んでいた。窓もあるし、床もしっかりしている。隅に置かれた机は片脚が短いようだが、それくらいなら直せる。
「ここでいいのか?」
「ここがいいです」
即答すると、ギースは倉庫の中をもう一度見回した。俺には十分立派な研究室に見えるのだが、父親としては、娘に与える部屋が物置では気になるらしい。
「掃除は手伝わせよう。棚の上には登るな。それと、火を使うときは必ず大人を呼ぶこと。約束できるな?」
「はい」
昨夜の火球を思い出し、そこは素直にうなずいた。ギースは鍵を俺の手に載せると、昼食には遅れないよう言い残して戻っていった。
俺はさっそく窓を開けた。机の埃を拭き、短い脚の下に薄い板を挟む。持ち込んだ魔術書を並べてみると、それだけで随分と部屋らしくなった。
椅子によじ登り、アイリスから借りた入門書を開く。まず無詠唱について調べ、次に属性の説明を読んだ。その後は別の本も開いて、同じ項目を比べていった。
「……本当に、こう教えているのか」
どの本も、一人が扱える属性は原則一つとしている。無詠唱は伝説上の技術。空間収納に至っては、古い物語に登場する架空の魔術だと書かれていた。
前世では、研究材料を持ち歩くのに毎日使っていたものだ。書き間違いであってほしかったが、別の著者も同じことを書いている。
俺は開いた本の横へ紙を置き、気になった箇所を写し始めた。失われた技術が一つや二つなら分かる。だが、これは多すぎる。しかも、魔術の基礎に当たる部分まで抜け落ちていた。
新しい術式を試すつもりで借りた研究室に、思いがけない課題が持ち込まれてしまった。
「俺が死んだ後、何があったんだ?」
答えてくれる者はいない。俺は本をもう一冊引き寄せ、最初のページを開いた。
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