第九章
「お兄さん!大丈夫!?怪我はない!?」
朔が猛然と飛び込んできて、大粒の涙を流しながら謝問の身体を抱きしめた。
「ああ、大丈夫だ……」
謝問は長く重い息を吐き出し、細い朔の身体を抱きしめ返した。
「助かった、朔。お前が俺の命を救ってくれたんだ。ありがとうな」
ふと視線を落とすと、朔の剥き出しになった首筋に、血にまみれた禍々しい歯形が残っているのが見えた。
謝問は朔の目元の涙をそっと拭い、深い懸念を込めて問いかける。
「朔、首は痛むか?何か……身体におかしな感覚はないか?」
朔は小さく首を横に振った。その顔色に異常は見られない。ただ、先ほどの死闘の凄まじさに、まだ少し怯えているだけのようだった。
足元では、先ほどまで暴れ狂っていた怪物が、今度こそ完全に物言わぬ骸骨となって横たわっていた。
謝問は立ち上がり、男の遺体の傍らにしゃがみ込んで入念な検分を始めた。すると間もなく、男の首筋のあたりに、不自然な黒ずみがあるのを発見した。よく見ると、そこには無数の小さな穴が、集まって穿たれている。
(待て……洛陽の郊外でこいつを葬った時は、こんな妙な痕跡は絶対になかったはずだ)
そこへ、白子曦が負傷した李初照を肩で支えながら、足を引きずって近づいてきた。
「謝問殿、やはりこの者は……あなたの御友人だったのですか?」
謝問は重く頷いた。
「俺の命の恩人だ。三日前、この手で確かに土に埋めた。……だが、どうしても腑に落ちん。道長方、これを見てくれ。この傷跡は何だと思う?」
李初照が覗き込み、見当もつかないといった様子で首を傾げた。「師兄、何か分かりますか?」
白子曦は鋭い目を凝らし、沈吟する。
「何かの蟲に喰い荒らされた痕跡のようですが……これほどいびつな毒気は見たことがない。私の浅学では、これ以上の判別は……」
四人が中庭で立ち往生していた、その時。
彼らの頭上から、万年雪の如く清冷で、地を這うように寒峻な声が響き渡った。
「――それは『傀儡蟲』だ」
謝問はハッと息を呑み、声のした方角を仰ぎ見た。
水のように澄んだ月華を背に負い、崔家の高い白壁の上に、一人の男が端然と佇んでいた。
息を呑むほどに美しい容貌。夜風に誘われ、雪のように白い長髪と白衣の裾が、幽玄にひるがえっている。
「――掌門!?」
白子曦と李初照の顔に歓喜が走り、即座に深く頭を下げて拱手の礼をとった。
白衣の男は、重力を感じさせない身のこなしで静かに壁から舞い降り、謝問の真ん前にピタリと着地した。寒星の如き輝きを放つ鳳眼が、真っ直ぐに謝問を射抜く。
「謝家の若君よ、健やかであったか」
謝問は深く息を吸い込んだ。その星眸に、瞬時にして鮮烈な光が灯る。
「……師尊。お久しぶりでございます」
二人のやり取りを目の当たりにした李初照と白子曦は、呆然と目を丸くした。
「えっ?掌門、謝問殿……お二人はお知り合いなのですか?」
「知り合いどころか」
謝問は眉をキリリと上げ、かつての快活さを取り戻したように爽やかに笑った。
「門派の序列で言えば、お前たちは俺を『師兄』と呼ばねばならんのだぞ」
白衣の男の名は皇甫軻。南華門の現掌門にして、天下にその名を轟かせる『司衡真人』その人であった。
四年前、謝問が父に従って戦場を駆け巡っていた頃、原因不明の重病に侵された。謝問の父である淮南王・謝雲は、司衡真人の医術が神域に達していると聞き及び、瀕死の謝問を連れて南華山へ駆け込んだのだ。
皇甫軻は淮南王の高潔な人徳をかねてより重んじていたため、その願いを快諾。彼の入念な治療により、命の灯火が消えかけていた謝問は、奇跡的に平癒を果たした。
その後、謝問は皇甫軻の門下に降り、一年間、南華門の優れた内功を伝授されながら身体を養った。
謝問にとって皇甫軻は、命の恩人であり、絶対的な師であった。
「なるほど、そういうことでしたか!」
事情を聴いた李初照がポンと手を打った。
「私たちが南華门に入ったのは謝問殿が下山された後でしたから、今の今まで気づきませんでした。これは大変な非礼を……!」
若者たちが言葉を交わす間にも、皇甫軻は静かに身を屈めていた。骨節の浮き出た美しい修長な指先が、死者の首筋にある無数の小穴を、優しく撫でる。
白子曦が畏る畏る尋ねた。
「掌門、その『傀儡蟲』とは、一体いかなる怪異なのでしょうか」
皇甫軻は応えず、袖口から数本の細い銀針を取り出すと、男の身体の主要な経穴へと流れるような動作で刺し込んでいった。
「傀儡蟲とは、遥か南方の苗疆に伝わる蠱術の一種。この蟲を植え付けられた死者は、魂を奪われた『動く屍』と化し、操者の意のままに動く。……一見するとただの屍に戻ったように見えるが、体内の蟲を完全に駆除せねば、十二の刻(※二十四時間)の後、この者は再び蘇り、生者を襲うだろう」




