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第八章

怪物は朔をじっと見据えると、関節を奇怪な音で鳴らしながら、一歩、また一歩と迫ってきた。


「チッ、正気を失いやがったか!」


謝問は一瞬で剣をぶち抜き、朔を背後に押し込んだ。

そのまま、じりじりと中庭の方向へと後退を始める。


その先には、南華門の二人――白子曦と李初照が、すでに悪鬼調伏の陣(※結界)を展開して待ち構えている。

この怪物を結界の罠にさえ誘い込めば、勝機はある。


だが、遠くから聞こえる笛の音が、突如として禍々しい変調を見せた。


――急転。


変調と同時に、怪物が爆発的な速度で地を蹴った。

まるで目に見えない糸で操られる凶悪な人形だ。凄まじい跳躍力で、謝問の喉元へと爪を突き立ててくる。


「おおぉらぁッ!」


謝問は玄鉄剣を振るい、その猛攻を骨身で受け止めた。

鋭利な刃が怪物の肉を切り裂くが、傷口から吹き出すのは、どす黒く凝固した死血のみ。

怪物は痛覚という概念そのものを失ったかのように、攻勢を全く緩めない。常軌を逸した膂力ちからだった。


「こうこうこう! どうしちゃったの!? さくだよ、わからないのぉ!?」


謝問の背中から顔を出した朔が、狂わんばかりに泣き叫ぶ。

謝問は彼をかばいながら、激しい火花を散らしてついに中庭へと逃げ込んだ。


怪物の足が、地面に描かれた陣の境界線を踏み越えた、その瞬間。


「天律厳明、悪鬼調伏――急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう!!」


ドォォォン!!


轟音と共にまばゆい金光が弾け飛び、暗夜を白昼堂々と照らし出した。

四方に貼り付けられた呪符が、激しく共鳴して狂乱の如く震える。


「今だ! 師兄!」

守勢に回っていた李初照と白子曦が左右から飛び出し、凄まじい速度で印を結ぶ。


結界の直撃を受けた怪物は、その場に激しく膝を突き、耳を突き刺すような絶叫を上げた。

「サク……ッ! サクゥゥゥ!!」


その凄惨な光景を間近で見た朔は、顔面を蒼白に染め、謝問の腕をちぎれんばかりに掴んだ。

「お兄さん、何するの!? 『こうこうこう』を殺しちゃうのぉ!?」


「目を覚ませ、朔!」

謝問は悲痛な声をあげた。

「あいつは……あいつはもう、とっくに死んでるんだよ!」


「嘘だッ!」朔の目から大粒の涙が溢れ出す。「生きてる! 動いてるもん!」


かける言葉がなかった。

自分自身、この手で埋葬した事実がなければ、目の前で叫んでいる怪物を死人だとは到底信じられなかっただろう。


その時、夜空を揺るがす笛の音が、三度みたび、激しく変調した。


今度は、鼓膜を突き破らんばかりに高音で、刺すような凄惨な旋律。

それを聴いた瞬間、結界の中の怪物の肉体が、まるで倍以上の質量を得たかのように膨れ上がった。

暴圧的な力が法陣を内側からきしませる。


「くっ……師兄、ダメです! 呪力が……この怪物、陣を破ろうとしています!」

功力の浅い李初照の口元から血が伝う。


白子曦が鋭く目を光らせた。「背後に『操者』がいる……! 術を増幅させているんだ!」


言葉が終わるより早く、法陣の中心から爆発的な『濁気(※邪悪なエネルギー)』が四方へと炸裂した。


ドカァァァン!!


「うわぁっ!?」


凄まじい衝撃波が巻き起こり、李初照、白子曦、そして朔の前に立ちはだかっていた謝問の身体が、一瞬にして数丈先へと吹き飛ばされた。


「がはっ……!」

謝問は地面を激しく転がり、内臓を揺さぶられながらも、なんとか這い上がろうとした。


その視界の先で、引き裂くような朔の悲鳴が響く。


「嫌ぁぁぁぁっ!!」


結界を完全に破壊した怪物が、凄まじい速度で朔にのしかかり、その細い首筋へと容赦なく鋭い牙を突き立てていた。


「てめぇぇええっ!! よくもッ!!」


謝問の脳内で、何かが完全にブチ切れた。

全身の血が逆流するほどの怒りに突き動かされ、怪物の巨体に弾丸のごとく体当たりを喰らわせる。

そのまま怪物の馬乗りになると、狂ったように拳を振り下ろした。


ドカッ! バキッ! ズガァァン!!


一撃、二撃、肉が潰れ、骨が砕ける音が夜の庭園に虚しく響く。謝問の拳は、怪物の顔面が原形を留めなくなるまで容赦なく叩き込まれた。


しかし――あの忌々しい笛の音は、まだ止まない。


四度目の変調。

キィィィィンという鋭い音が謝問の鼓膜を襲った瞬間、彼の脳髄に激しい目眩が走った。

ほんの一瞬、わずかに生じた隙。


怪物は顔面をボロ雑巾のように破壊されながらも、全く怯むことなく、謝問の胸元を力任せに掴み返した。

圧倒的な怪力で立場を逆転させ、今度は謝問を地面に組み敷く。

肉の焼けるような臭いを放つ割れた顎が、謝問の喉元へと迫る――。


(しまっ――)


絶体絶命。

謝問が死を覚悟した、その刹那だった。


ピキィィン、と怪物の動きが不自然に凍りついた。

まるで糸の切れた木人形のように、すべての力が抜け、どさりと謝問の身体の上に倒れ込んできた。


「……え?」


謝問が呆然としながら、怪物の背後を見つめる。


そこには、涙と泥で顔をぐちゃぐちゃに濡らし、全身を激しく震わせながら跪く朔の姿があった。

その小さな両手は、小刻みに震えている。


怪物の後頭部には――謝問が昼間買い与えた、あの『七星の短剣』が、根元まで深く突き刺さっていた。

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