第六話
しかし、のちに判明することだが――この時の謝問の目論見は、あまりにも甘すぎた。
――◇◇◇――
二人が汝州の地に足を踏み入れたその時、運悪く、この数十年で最悪と言われる大豪雨に見舞われた。
降り続く凄まじい雨によって南方の河川がことごとく決壊。陸路は完全に遮断され、周囲百里は一夜にして底なしの泥海へと姿を変えた。
足止めを食らった謝問と朔は、ひとまず城内の宿に身を寄せ、水が引くのを待つしかなかった。
だが、災難はそれだけで終わらない。
水害に続くようにして、最悪の『疫病』が牙を剥いたのだ。
感染の拡大を恐れた汝州の県令(※知事)は、冷酷にも即座に城門を完全封鎖。溢れかえる難民たちを容赦なく城外へと締め出した。
壁の向こうは、死臭の漂う生き地獄。
しかし、一枚の壁に隔てられた城内もまた、決して安全とは言えなかった。住人たちはいつ水が押し寄せるか、いつ疫病が忍び込んでくるかと怯え、人々の心は疑心暗鬼に染まりきっていた。
そんな中、二人が滞在する宿の一階の茶館(※喫茶スペース)だけは、行き場を失った旅人たちで連日、異様な熱気に包まれていた。
ある朝、謝問と朔が片隅で朝食をとっていると、背後の席から不穏な噂話が聞こえてきた。身なりのくたびれた行商人たちが、声を潜めて話し合っている。
「もう十日も閉じ込められてる。この雨、呪われてるんじゃないか?」
「ああ。それだけじゃない、城外は行き場のない死体で溢れかえってるそうだ。……このままじゃ、本物の『瘧鬼(※疫病をもたらす悪鬼)』を呼び寄せちまうぞ」
「おい、縁起でもないことを言うな!」
「いや、冗談じゃねぇよ。お前ら、城西の崔家で起きた怪異を知らねぇのか?」
泥交じりの面湯(※麺スープ)をすすっていた謝問の手が、ピタリと止まる。
「崔家の長工(※雇われ人)が、封鎖直前に城外から戻った夜に突然病死したんだ。だが、まともな埋葬もされずに溝に捨てられたその死体がな……夜中に『蘇った』んだよ。そして、崔家の一家十人を残らず噛み殺した」
「おいおい、作り話が過ぎるぞ」
「本当さ!翌朝、駆けつけた役人が見た遺体はな、どれも手足が炭のように黒く変色し、煙のような妖気を放っていたそうだ。あれは間違いなく、悪鬼に魂を吸い尽くされた跡だってよ……」
男たちがさらに声を潜めようとした、その瞬間。
茶館の反対側から、鋭い悲鳴が響き渡った。
「うわあぁっ!?お、お爺さんが倒れたぞ!」
見れば、隣のテーブルの老人が突如口から鮮血を吐き、床へと崩れ落ちていた。
張り詰めていた客たちの恐怖が、一気に爆発する。
「疫病だ!」「うつるぞ、逃げろ!」と、茶館内は一瞬にしてハチの巣をつついたような大パニックに陥った。
周囲の人間が我先にと逃げ惑う中、凄まじい衝撃が朔のテーブルを襲う。
危うく熱湯ごともみくちゃにされそうになった朔だったが、謝問が電光石火の速さでその細い腰を引き寄せ、自身の懐へと抱え込んだ。
「うわっ……お兄さん、あのお爺さん、床で寝ちゃったよ?」
朔は怯える風でもなく、純粋な好奇心で倒れた老人を指差す。謝問はその手を強く引き戻した。「近づくな。ろくなもんじゃない」
「皆様、どうか落ち着いてください。慌てる必要はありません」
騒然とする堂内に、凛とした清涼な声が響いた。
人混みを割って現れたのは、汚れなき白衣をまとった二人の端正な青年だった。一人は背が高く、もう一人はやや小柄だ。
小柄な青年が素早く老人の傍らに駆け寄り、脈を測る。
「大丈夫です。疫病ではありません。ひどい悪寒による急激な発熱です」
背の高い青年が頷き、店員を呼んだ。「店主、大至急、桂枝、芍薬、生姜、大棗を用意し、煎じて薬湯を作ってくれ」
指示を出すと同時に、小柄な青年が懐から一本の銀針を取り出し、老人の脳天のツボへと躊躇なく刺し込んだ。
「お兄さん見て!お爺さんの頭に釘が刺さった!」
朔が目を丸くして謝問の袖を引っ張る。謝問は苦笑しながらその不細工な顔を軽く小突いた。「バカ、釘じゃない。あれは針灸だ。あの二人、医術の心得があるらしい。良い子は黙って見てろ」
それから一刻ほどの入念な施術の後、老人は大きく息を吐き出し、奇跡的に意識を取り戻した。店小二が運んできた薬湯を飲むと、土気色だった顔にみるみる血色が戻っていく。
周囲で見守っていた客たちから、一斉に感嘆の拍手が沸き起こった。
救われた老人は涙を流して感謝し、命の恩人の名を発した。
小柄な青年は謙虚に一礼する。
「私は李初照。こちらは師兄の白子曦。我らは『南華門』の司衡真人門下の弟子にございます。困った時はお互い様、どうかお気になさらず」
――南華門。司衡真人。
その名が発せられた瞬間、謝問の呼吸が完全に止まった。
指先が微かに震え、持っていた茶杯が床に落ちてガシャンと虚しい音を立てた。
記憶の濁流が、一瞬にして謝問の意識を初秋の南華山へと引き戻す。
あの日、揺れる芦葦の奥から聞こえていた清冷な笛の音。水霧の向こうに佇んでいた、あの雪のように白い、忘れもしない銀髪の影――。
「……お兄さん?」
手元に伝わる温もり。朔が心配そうに、その黒い瞳で謝問の顔を覗き込んでいた。謝問はハッと我に返り、冷や汗を拭った。
その時、客席から一人の若い書生(※学生)が白衣の二人組に近づき、深く頭を下げた。
「道長(※お上人)様、南華門の御方とあらば、どうか我が家の怪異をお救いください。……実は、先ほど皆さんが話していた城西の『崔家の一家心中』の件です」
白子曦が眉をひそめる。「あの悪鬼の噂ですか?あれはただの民間の流言では?」
「小生もそう思いたかったのです!」書生は恐怖に体を震わせた。
「実は小生の父が役人でして、三日前にその崔家の現場検証に赴いたのです。……しかし、父が戻って以来、我が家の庭に『化け物』が出るようになりました。毎夜、子の刻(※深夜零時)になると、血まみれの男の幽霊が庭を彷徨い、一晩中、呪文のような言葉をブツブツと呟きながら泣くのです」
李初照が尋ねる。「……呪文、ですか?」
「はい。その男は、狂ったように何度も同じ言葉を繰り返すのです。
――『サクを守れ、洛陽へは戻るな』、と……」s




