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第三章

謝問の険しい剣幕に怯えたのだろう。

朔はどこからそんな力が出たのか、猛然と謝問を突き飛ばした。

そして部屋の隅へと逃げ込み、膝を抱えてガタガタと震え出したのだ。


「わるい人だ! わるい人が、さくを殺しにくるんだぁ……っ!」


謝問は天を仰ぎ、深い溜息を吐いた。


外見の年齢は自分とそう変わらないように見える。

身にまとっているのは上質な絹の衣服に立派な帯。どこからどう見ても良家、あるいは貴族の若坊ちゃんだ。

しかし、その言動はまるで幼子のそれだった。自分の名前以外、何一つまともに認識していない。

生まれつきの知能障害か、あるいは何らかの強い衝撃を受けて、記憶を失い精神が幼児退行してしまったのか。


謝問は内心で苦虫を噛み潰した。

どうやら自分は、とんでもない面倒事に巻き込まれてしまったらしい。

せっかく牢獄から脱出できたと思った矢先に、今度は底なしの泥沼に片足を突っ込んでしまったわけだ。


考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。

謝問はくるりと背を向け、お堂の外へと歩き出した。


(帰ろう。余計な首は突っ込まないに限る。どうせあの阿呆は俺の顔も覚えてないし、親戚でも何でもないんだ。あいつが死のうが生きようが、俺の知ったことか)


しかし。

数歩歩いたところで、謝問の足がピタリと止まった。


本当に、このまま見捨てて行っていいのか?

あの男が息を引き取る直前、血を吐きながら俺に託した、あの必死な眼差しが脳裏をよぎる。

俺は、自分が最も軽蔑する『不義理な恩知らず』に成り下がるつもりか? あの哀れな不細工を見捨てて、自分だけ命惜しさに逃げ出すのか?


「……ちっ」


その時、謝問の五感が微かな異変を察知した。

彼はその場に膝をつき、地面にそっと耳を当てた。


かつて父親である淮南郡王わいなんぐんおうに従い、各地の戦場を転戦していた謝問は、並の偵察兵を遥かに凌駕する鋭敏な聴力を磨き上げていた。

地面を伝う振動だけで、どれほどの距離に、どれだけの軍馬がいるかを正確に聞き分けることができる。


(……まずいな)


地面から伝わる無数の足音。禁軍の第二陣だ。

それも、すでに山麓の村にまで到達している。

この広化寺は見ての通りの廃墟。身を隠せる場所などどこにもない。

おまけに自分は未だに丸腰だ。この状態で禁軍の精鋭に囲まれれば、朔どころか、自分自身も袋のネズミになり、確実に生きては出られない。


「迷ってる暇はねぇ!」


謝問はお堂の扉を激しく蹴破るようにして乱入し、隅で震える朔の腕をガシッと掴んだ。

ようやく落ち着きを取り戻しかけていた朔は、鬼のような形相で戻ってきた謝問を見て、再びパニックに陥った。

腰を抜かしながらも必死に手足をバタつかせ、逃げようともがく。


「こうこうこう! こうこうこうーーっ!」


「お前は朝を告げるニワトリか! この状況で呑気に鳴いてんじゃねぇ!」

謝問の頭の中に疑問符が浮かぶが、この馬鹿と付き合っている時間はない。

四の五の言わずに飛びかかり、朔の片足を強引に掴んで引きずり寄せた。

朔はカエルがひっくり返ったように手足をジタバタさせて床を這い回る。

その滑稽な姿に、謝問は不謹慎にも笑いそうになった。この野良犬、もとい、こいつは前世が亀か何かなのか? なぜこうも地面を這いつくばるのが好きなんだ。


「大人しくしてろ!」


謝問は大きな手を伸ばし、朔の身体にあるいくつかの『経穴ツボ』を瞬時に鋭く突いた。

点穴てんけつの術だ。

朔は全身の力が一瞬で抜け、痺れたように身動きが取れなくなった。


謝問は問答無用で朔を横抱きにすると、お堂を飛び出し、寺の敷地外へと向かって爆走し始めた。


腕の中で身動きの取れない朔は、恐怖に満ちた目で謝問を見上げている。

至近距離で見るその醜悪な顔は、歪んでさらに凄まじいことになっていた。


(頼むからその顔で俺を見るな……夢に出そうだ)


謝問は視線を彼の顔から逸らし、唯一美しいその瞳だけに焦点を合わせると、わざとドスの利いた悪党のような声で脅しをかけた。


「おい、大人しくしてろよ。さもねぇと、この破れ寺に置き去りにして、後から入ってきた悪い奴らに木っ端微塵の肉塊にしてもらうからな」


その言葉に恐怖のどん底に叩き落とされた朔は、麻痺した腕を必死に伸ばし、謝問の首にしがみついた。


「ひゃぅあ! さく、肉塊になりたくないぃぃ!」


(やれやれ、俺は一体何だってこんな子供騙しで怯える阿呆を相手にしてるんだか……)


謝問は心の中で小さく溜息を吐くと、せめてもの気休めに朔の頭をぽんぽんと軽く叩いてやった。

そして、体内の『気』を一気に高めると、追手の迫る山道を、風のように駆け下りていった。


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