第十三章
「――おい。耳まで凍りついたのか?」
清冽な声音に弾かれ、謝問ははっと我に返った。
いつの間にか、皇甫軻がすぐ目の前に立ち、怪訝そうにこちらを覗き込んでいる。どうやら、過去の記憶に囚われたまま、かなり長いこと呆けていたらしい。
「いえ……少し、昔のことを思い出していました」
「昔のこと?」
「ええ。あの頃、南華山の麓で暮らしていた頃のことです。毎日は質素でしたが、まさに『琴簫和鳴(※固い絆で結ばれた仲)』の日々だったな、と」
すると、隣で焼き魚を頬張っていた朔が、口をもごもごさせながら割って入ってきた。
「きんしょーわめーって、なーに?」
「……妙なことを吹き込むな」
皇甫軻は謝問を冷ややかに一瞥した。白皙の頬が、焚き火の爆ぜる灯りのせいか、ほんのり朱に染まっている。
「その言葉は、そういう意味で使うものではない」
「どこが妙なんですか」
謝問はにやりと笑い、隣の朔の肩へ馴れ馴れしく腕を回した。
「当時、私が奏でていたのは琵琶で、師尊が吹いていたのは笛。まさに『高山流水、知音に逢う』そのものです。古の伯牙と子期の絆であっても、私と師尊には敵わないでしょう?」
言い終えるより早く、皇甫軻は手元にあった焼き魚を一本掴み、そのまま謝問の開いた口へ容赦なく突っ込んだ。
「むぐっ!?」
熱々の魚で口を塞がれ、謝問は顔を真っ赤にしながら、ふがふがともがく。
皇甫軻はふんと鼻を鳴らし、何事もなかったかのように視線を逸らした。しかし、その耳朶だけは隠しきれずに赤く染まっていた。
「ねえ、はくがとしきって誰なの?」
朔はなおも無邪気に問いかける。
謝問は口の中の魚を旨そうに噛みしめながら、揺れる焚き火の傍らで、少年へ古の美しい友情譚を語って聞かせ始めた。
朔はすっかり心を奪われた様子で、謝問の袖をぐいぐい引っ張る。
「さくも、お兄さんの琵琶が聴きたい!」
謝問は一瞬きょとんとした後、可笑しそうに少年の鼻先を軽く小突いた。
「お前みたいなちびすけに聴かせても、それこそ『牛に琴』だな」
「さくは牛じゃないもん!さくは、さくだよ!」
少年の弾けるような笑い声が、初冬の冷えた夜空へ溶けていく。
それを見つめる皇甫軻の瞳には、ほんの僅かな――しかし確かに存在する寂寥と、独占欲にも似た仄暗い情炎が、静かに燻っていた。
――◇◇◇――
それから一行は、昼は馬を駆り、夜は宿を取る強行軍を続けた。
汴州を経て、荒れ狂う黄河を北へ渡り、翌日の夕暮れ時、ついに南華山の麓に位置する「濮陽」の地へと辿り着く。
すでに日は落ち、辺りは濃密な夜の帳に包まれていた。
一行は山麓にぽつりと建つ一軒の料亭へ宿を取ることにした。明朝には、いよいよ南華山へ登ることになる。
中へ入ると、広い店内には客の姿が一人もなく、静まり返っていた。何度か声をかけると、奥から給仕が慌てた様子で駆け出てきて、一行を席へ案内する。
初冬の木枯らしの中を一日中走り続けた五人は、人馬ともに疲れ切っていた。温かな飯と料理が運ばれてくるや否や、皆、貪るように箸を動かし始める。
静かな店内には、炭火の爆ぜるぱちぱちという音だけが響いていた。
その時だった。
不意に表の扉が開き、一人の男が音もなく滑り込んできた。
男の腰には一振りの長剣。身に纏うのは、墨を流したような意匠の白衣。さらに目深に被った大きな笠帽子が、その容貌を完全に覆い隠している。
男は店の隅の席へ静かに腰を下ろすと、燗酒を一壺と小皿の肴だけを頼み、独り手酌で飲み始めた。
最初、謝問もただの旅の剣客だろうと気に留めていなかった。
だが食事の最中、ふと皇甫軻の手が止まるのを見た。
師の視線が、警戒を孕みながら、時折その隅席へ向けられている。
不審に思った謝問が、それとなく皇甫軻の視線を追うと、笠帽子の男は俯いたまま、鋭い眼光だけをこちらの卓へ執拗に注いでいた。
(……朝廷の刺客か?)
謝問は皇甫軻と一瞬だけ視線を交わす。
互いの瞳に、張り詰めた緊張が走った。
もともと謝問は、守りに徹するより、自ら踏み込むことを好む男だ。相手が刺客であれ何であれ、このまま探りも入れずに眠れる性分ではない。
謝問は音を立てて立ち上がると、自分の酒壺を手に、その男の卓へ歩み寄った。
「そこのあんた。そんな片隅で一人飲む酒は、さぞ苦かろう」
断りもなく男の向かいへ腰を下ろし、豪快に笑ってみせる。
「嫌でなければ、この俺が付き合おう」
男はゆっくりと顔を上げた。
笠帽子の影から現れたのは、驚くほど端麗で、どこか浮世離れした気品を纏う若者の顔だった。
「……風流なお方だ。有縁の者と酌み交わす酒なら、断る理由はありませんな」
男は微かに笑みを浮かべ、洗練された所作で拱手の礼を取る。
「初めまして。お名前を伺っても?」
「俺は謝問。隠すような名でもない」
相手が刺客なら、とっくにこちらの素性は割れているはず。謝問はあえて堂々と本名を名乗った。
男はその潔さを気に入ったのか、満足げに頷き、自らの名を明かした。
「これは失礼しました。私は長風。――昆吾派・紫霄門下の筆頭弟子です」
長風と名乗った男は、そのまま視線を謝問の背後――皇甫軻へ向けた。
「あちらにおわす気高き白衣の道長。もし見誤っていなければ、南華門の掌門、『司衡真人』ではありませんか?」
遠くからその声を聞いた皇甫軻は、静かに頷いた。
「いかにも」
昆吾派――。
その名を耳にした瞬間、謝問の脳裏に閃光が走る。
南華門と昆吾派は、元を辿れば同じ祖を持つ同宗の門派だ。だが後世、理念の違いによって袂を分かった。
一方は江湖の争いへ積極的に関わり、悪を挫き弱きを救う「気宗第一」の南華門。
もう一方は俗世との関わりを断ち、ただ己の剣のみを極める「剣宗第一」の昆吾派。
「なるほど、昆吾派の筆頭弟子殿でしたか。これは失礼を」
互いの素性が明らかになると、謝問の胸中にあった疑念は大半が霧散した。
彼は長風の杯へ酒を注ぎながら、声を潜めて苦笑する。
「実は俺たち、汝州から命を狙われながら逃げてきた身でしてね。あんたがあまりに怪しげにこっちを窺っているものだから、てっきり敵の刺客かと勘違いしてしまった。不躾を働いたこと、どうか許してほしい」
「ははは、謝問殿。お気になさらず。不躾というなら、怪しまれるような真似をした私の方に非があります」
長風もまた杯を掲げ、温まった酒を一息に喉へ流し込んだ。
美酒というものは、初対面の男同士の距離を一瞬で縮めてしまう。
二人は他愛もない世間話に花を咲かせた。だが長風が「この先、洞庭湖にいる『嫁』へ会いに行く」と口にした時、謝問は思わず目を丸くした。
「……修道の身でありながら、妻を娶るのか?」
長風は悪戯っぽく笑う。
「南華門と違い、我が昆吾派は『剣』を修めるのみ。道教の戒律には縛られません。妻を娶り、子を成すなど、ごく自然な営みですよ」
「なるほど。羨ましいほど自由だな……」
そう言いながら、謝問は無意識に遠くの皇甫軻を盗み見た。
もし、自分たちの門派もそれほど寛容であったなら――。
あの人へ抱くこの想いは、ここまで自分を苦しめなかったのだろうか。
届かぬ背中を見つめる謝問の瞳に、一瞬だけ切ない陰が落ちる。
長風はその視線の意味を察したのか、意味深に片目を細めた。
「身の回りには、ままならぬことばかりですな。……ところで謝問殿、あなた方が店へ入ってきた時から、私がずっと奇妙に思っていたことがあるのですが」
謝問は意識を引き戻し、眉を上げた。
「奇妙、とは?」
長風は手招きし、謝問の耳元へ顔を寄せる。
その声色は、一瞬で密偵のものへ変わっていた。
「――あの店主と給仕の顔、どうも見覚えがある」
その一言に、謝問の背筋が凍りついた。
彼はさりげなく首を巡らせ、忙しなく立ち働く給仕を凝視する。
よく見れば、愛想よく客をもてなすその顔立ちは妙に整っており、市井の埃に塗れた給仕にしては上品すぎた。
さらに帳場の奥へ座る店主は、太い眉と鋭い眼光を持ち、謝問たちが入店してから一言も発さぬまま、黙々と算盤を弾き続けている。
その指捌きは、商人というより熟達した武芸者のものだった。
「……思い出しました」
長風は、謝問にしか聞こえないほど小さな声で囁いた。
「少し前、私は淮南の城で奴らと擦れ違っている。あの算盤を弾いている男の正体は、『梵炎教』玄武堂の堂主・祁未。そして、愛想を振りまいている給仕は、青龍堂の堂主・李延昭です」
謝問の身体が完全に硬直する。
梵炎教。
それは中原武林から邪道と忌み嫌われる、悪名高き暗黒教派。
そして何より――彼らが最も得意とする秘術こそ、死者を操る『蠱毒』であった。
「おかしいとは思いませんか?」
長風の冷えた囁きが、謝問の鼓膜を打つ。
「梵炎教の一堂を率いる大幹部が、なぜ南華山の麓などという辺境で、身分を隠して客引きなどしているのか……」




