第十二章
翌日、天を覆っていた暗雲は嘘のように去り、心地よい青空が広がった。洪水も大半が引き、濁流に閉ざされていた汝州の城門が、ついに十数日ぶりに大きく開け放たれた。
閉じ込められていた旅人たちは一様に安堵の吐息を漏らし、謝問たちもまた、朝霧の立ち込める中、南華山を目指して早朝に旅立った。
しかし、一夜が明けても、朔の心はあの過酷な現実を消化しきれていないようだった。いつもなら能天気にはしゃいでいるはずの少年が、借りてきた猫のように大人しく、道中ずっと一言も口を利こうとしない。
謝問は朔を自分の前に乗せて馬を駆っていたため、その小さな背中から伝わる消沈の気配を、痛いほど察していた。一人で悲しみを抱え込んで塞ぎ込んでしまわぬよう、謝問は絶え間なく声をかけ、他愛のない冗談を言っては、あの手この手で彼を元気づけようと試みていた。
正午近くになり、一行は街道沿いの宿場町に到着し、しばしの休息をとることになった。
昨晩一睡もしていない謝問は、強烈な睡魔に襲われ、荷物を枕にしてほんの数分、うたた寝をしてしまった。
だが、ほんの一瞬、意識を飛ばしただけのはずだった。再び瞼を開けた時、すぐ隣にいるはずの朔の姿が、どこにもなかった。
「朔……っ!?」
謝問は弾かれたように宿屋を飛び出し、周囲を狂ったように捜しまわった。すると少し離れた河原の近くに、見覚えのある細い影を見つけた。
その人影は、長衣の裾を不器用にたくし上げ、今にも勢いよく流れる川の中へ足を踏み入れようとしていた。背格好からして、間違いなく朔だ。
(あのちび、まさか川に身投げでもする気か――!?)
「朔!何をしてる!?」
謝問は飛沫をあげるような速さで突進し、川べりに立つ朔の手首を強引につかんで、力任せに陸へと引きずり上げた。
「わっ……!?」
勢い余って謝問の胸へとぶつかった朔は、何が起きたのか分からないといった無垢な目で彼を見上げた。
「お兄さん、あそこに、おっきなお魚がいるよ?」
「……はぁ?」
謝問は毒気を抜かれたように呆然とした。身投げなどではなく、ただ魚を捕ろうとしていただけだったのだ。
緊張の糸が切れ、謝問は胸を撫で下ろしながら、長いため息を吐き出した。
「魚が食いたいならそう言え、俺が捕ってやる。こんな激流に入ってみろ、一瞬で流されて死ぬぞ」
謝問は朔を安全な川原に立たせると、自ら着物の裾をまくり、靴と足袋を脱ぎ捨てて川の中へと飛び込んだ。かつて軍旅で培った身のこなしは伊達ではない。ものの数分もしないうちに、水飛沫の中から丸々と太った見事な魚を掴み上げた。
朔はその光景を、目を輝かせて見つめていた。
「お兄さん、空を飛べるだけじゃなくて、お魚も捕まえられるんだ……!すごい、大英雄だぁ!」
謝問は思わず吹き出した。
「これしきで大英雄か?あんた、随分と安上がりな奴だな」
そう言いながら、ザザッと小気味よい音を立てて、さらに数匹の魚を次々と岸へと放り投げた。朔は歓声をあげてそれを受け止め、腕の中で活きよく跳ねる魚の感触に、ようやくいつもの無邪気な笑顔を取り戻した。
謝問が全身を水に濡らしたまま、満足げに岸へ上がったその時、背後から冷ややかな声が降ってきた。
「この肌寒い季節に、わざわざ川へ飛び込んで漁か。己が風邪に侵される恐怖を知らぬと見える」
振り返ると、いつの間にか皇甫軻がそこに佇んでいた。氷の美貌に微かな不機嫌さを滲ませ、謝問をじっと睨みつけている。
「ご安心ください、師尊」
謝問は自分の胸をドンと叩いてみせた。
「私の身体は頑健そのものです。極寒の真冬であっても、川で泳ぐことくらい造作もありません」
皇甫軻の切れ長の眼が、さらに冷徹に細められた。
「今や各地で疫病が流行っているのだ。この河水とて、いかに不浄の毒を孕んでいるか分からん。……お前は四年前、自分がなぜ命の危機に瀕したのか、もう忘れたのか?あの苦痛を、再び味わいたいと?」
四年前――謝問は父に従い、西南の最奥の地へ、割拠する反乱勢力の鎮圧のために赴いた。
西南の地は湿度が極めて高く、森には有害な瘴気が立ち込め、毒蟲や猛獣が這い回る生き地獄だった。
謝問はその地で悪質な瘴気に侵され、そのまま病床に伏せる身となったのだ。もし父が南華門へ彼を運ばなければ、今頃はその骨すら残っていなかったろう。
当時の発病の凄まじい苦しみを思い出し、謝問は思わず身震いして、大慌てで首を縦に振った。
「師尊の仰る通りです。以後、決して二の舞は演じません」
皇甫軻は小さくため息をつくと、謝問のすぐ目の前まで歩み寄った。その白檀の香りが、水濡れの寒さを一瞬だけ忘れさせる。
「……上衣を脱げ」
「え?脱ぐ?」
謝問は一瞬呆気にとられ、それからわざと大袈裟に、自分の両腕で身体を隠すように一歩下がった。
「師尊、人目のつくこんな場所で、一体いかなるお戯れですか?」
皇甫軻の顔が瞬時に険しくなり、低く、怒りを孕んだ声で叱責した。
「不埒者め!衣を脱いで火にかけ、乾かせと言っているのだ!風邪を引きでもしたら目も当てられんというのに、一体何を不届きな妄想をしている!」
「これは失礼、滅相もございません」
謝問はいたずらが成功した子供のように、ははっと笑って誤魔化した。
「場を和ませようと、ほんの冗談を申し上げたまでです。どうか気を悪くなさらないでください」
「……礼儀知らずが」
皇甫軻は冷たく一瞥をくれると、もはや相手をするのも煩わしいといった様子で白衣の袖をひるがえし、ツカツカと離れた場所へ歩いていって、自ら落ち木の枝を拾い始めた。
皇甫軻が集めてきた薪で手際よく火を起こし、簡易的な即席の衣類掛けを作ると、謝問の濡れた長衣を火の傍らへ掛けて乾かし始めた。
謝問は上半身を裸にし、引き締まった小麦色の逞しい胸を火の光に晒しながら、数本の串に刺した魚をひっくり返して焼き始めた。しばらくすると、香ばしい、極上の香りが辺りに漂い始める。
側で見守っていた朔は、早くも口元から涎を垂らさんばかりの勢いで、焼き上がった一本をひったくるように掴み、思い切りかぶりついた。
「あふっ、あちちちっ!」
当然、焼き立ての熱さに唇を火傷し、朔は目元に涙を浮かべながら、尖らせた口で「ふーふー」と必死に息を吹きかけ続けている。
その滑稽な姿に謝問は大笑いしたが、ふと視線を移すと、少し離れた場所にいた皇甫軻もまた、微かに首を傾げ、それとなく袖で口元を覆いながら、柔らかな笑みを浮かべているのが見えた。
謝問の記憶の中で、皇甫軻という人は決して笑わない人間だった。少なくとも、自分の前でその感情を露わにすることは滅多にない。彼の見せる表情といえば、謝問が知る限り、冷淡な無表情か、あるいは己の無礼に対する怒りの二種類だけだった。
かつて一度だけ、謝問は無邪気にこう尋ねたことがあった。
「師尊、なぜ貴方は一度も笑わないのですか?」
それは四年前、皇甫軻の神技のごとき医術によって奇跡的に一命を取り留め、彼に弟子入りしたばかりの頃のことだ。
幼い頃から父と共に戦場を転々とし、刃の上を歩くような血生臭い日々に慣れきっていた謝問にとって、生死などとうに軽いものだった。
しかし、九死に一生を得て、四季を通じて青々と茂る南華山の麓に隠居し、毎日美しい景色を眺め、鳥のさえずりや蟲の声を聴いて過ごす毎日は、これまでの戦火の記憶を遠い前世の出来事のように錯覚させるほど、穏やかなものだった。
だからこそ、逆に皇甫軻から「お前はなぜ、それほどまでに楽しそうに笑うのだ?」と問われた時、謝問は少しの迷いもなく答えたのだ。
「今のこの暮らしが、たまらなく好きだからです。毎日がのんびりとしていて、本当に快活で、生きていて良かったと思えるのです」
皇甫軻はその言葉に、珍しく興味深そうな眼差しを向けた。
「このようなつつましい暮らしを退屈とも思わず、むしろ快楽と感じるのか?」
当時、謝問の病状を管理し、同時に内功の修行を監督するため、皇甫軻は十日か半月に一度は山を降り、この平穏な草庵に三日から五日ほど滞在していた。
病の治療を除けば、二人が日々行うことといえば、修行の合間に鶏に餌をやり、豆の畑を耕すといった、本当に他愛のない世俗の雑事ばかりだった。だが、謝問にとっては、それこそが何物にも代えがたい至福の時間だったのだ。
「私は生まれてからずっと、親父と生死の境を彷徨ってきました。自分はそういう修羅場の中でしか生きられない、戦うために生まれてきた人間だと思い込んでいたんです。でも、ここへ来て初めて、自分が本当に求めていた生き方が分かりました。
……師尊はどうなのです?貴方には、人生の中で、心から『嬉しい』と思えるような出来事はなかったのですか?」
皇甫軻は、ただ静かに、凪いだ水面のような声で応じた。
「我ら修道の徒が求めるのは、心如止水の境地。物に喜ばず、己に悲しまぬこと。感情の揺らぎは、修行の妨げでしかない」
謝問はつまらなそうに唇を尖らせた。
「そんなの、ちっとも面白くありませんよ。嬉しい時は心の底から大笑いし、悲しい時は声を上げて涙を流す。そういう風に生きてこそ、人生は痛快というものです」
皇甫軻はそれ以上、何も語らなかった。
ただ、その深い双眸の奥には、当時の謝問には決して読み解くことのできない、濃く、決して消えることのない複雑な思緒が、静かに揺らめいていた。




