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第十一章

薄暗い回廊には、冬の気配を孕んだ冷えた空気が満ちていた。


謝問が背後の扉を静かに閉めると、朝靄の中に佇んでいた皇甫軻が、ゆるやかに振り返る。


氷を彫り上げたように端整なその横顔には、いかなる感情の揺らぎも浮かんでいない。だが、切れ長の双眸が謝問を捉えた瞬間、張り詰めた沈黙の中に、言い知れぬ圧迫感が静かに満ちていった。


「……随分と大層な御身分だな。堂々たる淮南王の若君ともあろう者が、いつから他人の護衛などに成り下がった?」


抑揚のない、あまりにも淡々とした声音。


それがかえって、謝問の胸を鋭く刺した。


驚いている風でもない。皮肉と呼ぶには、どこか冷えすぎている。


ただ、その瞳の奥には、ごく僅かに――自分以外の誰かへ向けられた、複雑な“苛立ち”にも似た感情が揺らめいていた。


謝問は胸中の動揺を押し隠し、静かに息を吐く。


「……それには、少々込み入った事情がございまして」


「ふうん」


皇甫軻は小さく鼻を鳴らし、白衣の袖の中で腕を組むと、壁へ背を預けた。余裕を滲ませた姿勢のまま、じっと謝問を見据える。


「込み入った事情、か。私にすら話せぬことなのか?」


その視線に射抜かれ、謝問は喉の渇きを覚えた。


四年前――この人に命を救われ、南華山で過ごした一年。


あの頃、謝問の胸に芽生えたのは、師弟の情を越えた、決して許されぬ執着だった。


想いを打ち明けたあの日、皇甫軻から返ってきたのは、「師徒の礼を失するな」という、氷のように冷たい拒絶。


だからこそ今の謝問は、この人の前では一挙手一投足にまで細心の注意を払わねばならなかった。胸の奥で燃え盛る情欲を、完璧に押し殺したまま。


謝問は視線をわずかに伏せ、獄中からの脱出劇、そして息絶えた男から朔を託された経緯を、一つ残らず語り始めた。


やがて懐から、男の遺体より回収した令牌を取り出し、両手で皇甫軻へ差し出す。


「これが、あの男の持っていたものです」


皇甫軻は細く白い指先でそれを受け取り、一瞥した。


その瞬間、細長い双眼がわずかに細められる。


「これは……」


その表情に走ったかすかな変化を、謝問は見逃さなかった。


「師尊、この令牌に見覚えが?」


「……間違いない。私の記憶が正しければ、これは皇太子の御使いに与えられるものだ」


皇甫軻は令牌を握り締め、声音をさらに低く落とした。


「謝問、お前はまた、とんでもない厄介事に首を突っ込んだな」


「皇太子……?ということは、まさか」


「皇太子と第二皇子による、血で血を洗う世継ぎ争いだ。民の間でもあれほど噂になっているというのに、何も知らなかったのか?」


皇甫軻は小さくため息をつき、謝問の顔を覗き込むように一歩近づいた。その瞳には呆れと共に、隠しきれない庇護欲が滲んでいる。


「無理もないか。お前は幼い頃から父に従い、戦場を転々としていた。宮中の陰謀劇どころか、市井の噂話に耳を傾ける暇すらなかったのだろう。その根の深さを理解していない」


「では、あの『こうこうこう』は皇太子派の人間だった……。だとすれば、彼が命懸けで守ろうとした朔の正体は――」


「そこまでだ」


皇甫軻は人差し指を謝問の唇の手前へとかざし、それ以上の言葉を制した。


触れそうなほど近い指先から、清冽な白檀の香りがふわりと漂い、鼻腔をくすぐる。


「すべては私の推測に過ぎん。宮中の権力争いに関われば、命が幾つあっても足りない。これ以上、あの子に深入りするな。一刻も早く引き離し、遠ざかるべきだ」


謝問は唇を噛み締め、ゆっくりと――しかし断固として首を横に振った。


「……その命には従えません」


皇甫軻の凛とした眉が、ぴくりと跳ねる。


「なぜだ?あの少年はお前と血の繋がりもない、ただの赤の他人だろう。なぜそこまで頑なに庇おうとする?」


「親しいかどうかの問題ではありません」


謝問は背筋を正し、真っ直ぐに師を見つめ返した。


「思い返せば、私は無実の罪で獄へ落とされ、あの光も届かぬ暗闇の底で、ただ朽ち果てるのを待つだけの身でした。もしあの男が命を賭して私を救い出してくれなければ、今の私はありません。それに……」


謝問の脳裏に、先ほど自分を救うため、必死に短刀を振るった朔の姿がよぎる。


「今や私と朔は、生死を共にした仲です。昨夜も、あいつは私のために命を懸け、絶体絶命の窮地から救ってくれた。ここで見捨てれば、それこそ私は、恩を仇で返す屑に成り下がります」


皇甫軻はふっと視線を逸らし、冷ややかに呟いた。


「情に厚いのはお前の美徳だ。だが時として、その情こそが、自らを滅ぼす刃になる」


「師尊が私を案じてくださっていることは、痛いほど分かっています」


謝問は苦笑を漏らし、一歩距離を詰めた。


「ですが、私も無策で言っているわけではありません。ただ、朔を守り、あいつが穏やかに暮らせる場所を見つけてやりたいだけなのです」


皇甫軻は沈黙した。


長い静寂が二人を包み込む。


やがて彼はゆっくりと顔を上げ、謝問の瞳の奥をじっと見つめた。その眼差しには、諦念と、どこか独占欲にも似た仄暗い感情が入り混じっている。


「……ならば、私と共に南華山へ戻るがいい。あそこなら、お前も安心できるだろう?」


謝問の瞳が、一瞬で輝きを取り戻した。


「では、朔を南華門で匿ってくださるのですね!?」


「……勘違いするな。あくまで一時しのぎの便宜だ」


皇甫軻は、自らの甘さを嘲るようにため息をつく。


「先のことは、すべての塵が落ち着いてから考えればよい」


「師尊……!やはり、貴方は誰よりも私にお優しい!」


歓喜のあまり、謝問はかつて穏やかだった頃の少年へ戻ってしまったかのように、考えるより先に皇甫軻を強く抱き締めていた。


「しまっ――」


気づいた時には、もう遅い。


だが腕の中に収まったその身体は、驚くほど細く、そして冷たかった。


不意を突かれた皇甫軻は一瞬硬直する。死人のように蒼白だった頬が、みるみる鮮烈な朱に染まっていった。


「――不埒者が!何をする、早く離れろ!」


皇甫軻は激しく謝問を突き放した。


だがその直後、彼は激しく咳き込み、片手を胸元へ押し当てて苦しげに顔を歪める。眉が深く寄せられ、その瞳の奥には、急速に広がる漆黒の陰霾が宿っていた。


その姿を見た瞬間、謝問の脳裏に最悪の記憶が蘇る。


「師尊!……また、あの『心病』(しんびょう)が!?」


謝問は慌てて駆け寄り、胸元へ手を伸ばした。


しかし皇甫軻は、その手を冷たく振り払う。何度も荒い呼吸を繰り返し、ようやく発作を抑え込んだ。


謝問は差し伸べた手を宙に止めたまま、激しい罪悪感に全身を締め付けられる。


「……申し訳ありません。嬉しさのあまり、つい我を忘れてしまい……」


「……構わん」


皇甫軻は瞬く間にいつもの氷の仮面を被り直し、謝問へ背を向けた。


その背には、誰にも触れさせぬ孤独が滲んでいる。


「昨晩は一睡もしていない。少し疲れただけだ……。お前は早く部屋へ戻り、あの子の面倒を見てやれ」


それだけを言い残し、皇甫軻は一度も振り返ることなく、静かに回廊の闇へ溶けるように消えていった。


――◇◇◇――


静まり返った廊下に、謝問だけが立ち尽くしていた。


彼は自らの右手の掌を見つめる。そこにはまだ、師の衣の感触と、かすかな体温が残っている気がした。


(また、俺のせいで……)


胸を掻き毟るような自責の念が、謝問の心を暗く蝕んでいく。


皇甫軻が患う、あの忌まわしき『心病』。


あれは病ではない。四年前、謝問の命を救うために背負った、文字通りの“呪い”の代償だった。


当時、瀕死の重病に侵されていた謝問を救うため、皇甫軻は南華門に伝わる禁忌の秘術を用いた。


己の純粋な真気と命の源を削り取り、他者へ分け与える秘術。


その代償として、皇甫軻の身体には深刻な内傷が残った。感情が激しく揺れ動いた時、あるいは他者と過度に接触した時、心臓を無数の針で刺されるような激痛が走る――それが『心病』だった。


つまり、皇甫軻が他人に対して冷徹であり、謝問の情愛を頑なに拒み続けるのは、冷酷だからではない。


そうしなければ、自らの肉体が崩壊してしまうからだ。


自分の命と引き換えに、師の身体を永遠に蝕み続ける不治の呪い。


謝問は壁へ背を預け、そのままずるずると座り込んだ。


「くそっ……」


押し殺した声が、薄暗い回廊の奥へ静かに消えていく。


これほど近くにいるのに、触れることすら許されない。


自分が彼を想い、近づこうとすればするほど、愛する人を傷つけてしまう――その残酷な現実。


胸の奥で荒れ狂う熱い情炎を、謝問はただ、冷たい罪悪感の底へ沈めていくことしかできなかった。


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