4話 女王陛下のステージ
第一章:往診という名のオーディション
札幌の秋は、駆け足で通り過ぎる。街路樹のナナカマドが燃えるような赤に染まり、朝晩の冷え込みが冬の訪れを予感させる十月の午後。
私、紬は、重いカメラバッグを肩にかけ、村上先生と尾崎部長の後を追って、円山地区にある高級マンションの一室に向かっていた。
「……ねえ、尾崎さん。さっきのランチ、やっぱりあっちのスープカレー屋にすればよかったかな。ここの角を曲がったところの……」
村上先生が、首から下げた聴診器を弄びながら、のんきな声を出す。この人は、どれほど深刻な終末期の現場に向かう時でも、食欲と世間話の鮮度が落ちない。
「……先生、もう着きます。仕事の話をしてください」
前を歩く尾崎部長が、一度も振り返らずに低く応える。部長の背中は、今日も鉄板のように硬い。第三話で、あの凄惨な「看取り」を経験して以来、部長は私に余計な声をかけなくなった。それが優しさなのか、あるいは「現場に立つなら自分で立て」という突き放しなのか、今の私にはまだ分からない。
目的の部屋の前で、村上先生がインターホンを押そうとした、その時だった。
「……開いているわよ。観客を待たせるなんて、三流のすることね」
ドアの向こうから、凛とした、けれどどこか芝居がかった声が響いた。
村上先生が首を傾げながらドアノブを回すと、そこは異様な空間だった。
昼間だというのに、リビングの遮光カーテンは完璧に閉め切られている。代わりに、部屋の隅々には不自然なほど多くのフロアランプが配置され、中央の一脚の豪華なベルベットチェアを照らし出していた。
「……加賀美さん?」
村上先生が足を踏み入れた瞬間、パッと、クリップライトの強烈な光が三人を射抜いた。
「眩しっ……! 何、演出?」
村上先生が目を細めて手で光を遮る。
光の渦の中心に、その人はいた。
元舞台女優、加賀美蘭(75歳)。末期の肝臓癌。
彼女は真紅のガウンを羽織り、頭には見事なターバンを巻いて、優雅に長い煙管――よく見ると禁煙パイポなのだが――をくゆらせていた。
「遅いわよ、諸君。開演ベルはとうに鳴り響いているわ」
蘭は、長い睫毛の隙間から私たちを鋭く睨みつけた。その瞳には、病魔に侵されているはずの衰えはなく、むしろ過剰なほどの自意識が、燐光のように宿っている。
「……加賀美さん、往診です。あと、そのライト、診察の邪魔なので消してもいいですか?」
村上先生がいつも通り、空気の読めないトーンで尋ねる。
「ダメよ! 消したら私が消えてしまうじゃない! ……そこの、そこの岩石のような顎のラインのあなた」
蘭が、パイポの先で尾崎部長を指差した。部長は無表情のまま、一歩前に出る。
「尾崎です。加賀美さん、今日は血圧と腹水の具合を――」
「いいわ、素晴らしい。その低音、その無愛想な佇まい……。決めたわ。あなた、私の次の舞台『黄昏の接吻』の相手役、ロミオに任命するわ」
「……はい?」
村上先生が口を半開きにする。私も、カメラを構える手が止まった。
ロミオ。この、鉄の塊のような尾崎部長が?
「さあ、ロミオ。今すぐ私の前に跪いて、この右手の甲に誓いの言葉を。愛でも絶望でもいいわ、あなたの魂を私に差し出しなさい」
蘭は、細く痩せこけた右手を、舞台の女王のように差し出した。
普通なら「何を言ってるんですか」と笑うか、困惑して立ち尽くす場面だ。だが、尾崎部長は違った。
部長は、一切の表情を変えず、精密機械のような動作で、蘭の前に静かに片膝をついた。
「……失礼します」
その声は、驚くほど低く、重厚だった。
部長は蘭の冷たくなった指先をそっと取り、まるでお手本のような動作で、彼女の右腕の袖をゆっくりと捲り上げた。
「……ロミオ……」
蘭がうっとりと目を細める。
その光景を、私はファインダー越しに捉えていた。
「……血圧測定のため、右腕を固定させていただきます。……動かないでください、加賀美さん」
部長は蘭の瞳を真っ直ぐに見つめながら、真顔でマンシェット(血圧計の帯)を巻き始めた。蘭は「なんて強引なの……」と頬を染めているが、部長はただ淡々と、メーターの目盛りを注視している。
「……128の78。脈は整です。加賀美さん、酸素飽和度を確認しますので、左手を出してください。ロミオとしての、再確認です」
「ああ、なんて冷徹な愛なの……!」
蘭が左手を差し出すと、部長は無表情でパルスオキシメーターを装着した。
その横で、村上先生が私にコソコソと耳打ちしてくる。
「ねえ、紬さん。私、一応国立大学出なんですけど、三流ですかね? さっき三流って言われましたよね?」
「……先生、今はそこじゃないです」
「あと、あのライトのせいで加賀美さんの顔色がよく分からないんだよね。……あ、そうだ。紬さん、これ持って」
村上先生がバッグから取り出したのは、なぜかアルミホイルが雑に貼られた段ボールの板だった。
「これ、こないだネットで見たんだ。自作レフ板。これで光を反射させて、診察しやすくしてよ。はい、カメラマンさん」
「……えっ、私ですか?」
私は戸惑いながらも、カメラのストラップを首にかけ、左手に「村上先生特製レフ板」を持ち、右手にカメラを構えた。
シュールだ。
スポットライトを浴びる「女王」と、その前に跪く「ロミオ(部長)」。そして、横でアルミホイルを振っている「医師(村上先生)」。
私は、その光景を撮るべきなのか、それとも笑うべきなのか判断がつかなかった。
けれど、蘭さんは満足そうに微笑んでいる。
「いいわ、お嬢ちゃん。あなた、私の『華』を分かっているわね。……撮りなさい。私の、この最後にして最高のステージを。……嘘でもいいから、世界で一番美しく残して」
その言葉に、私は吸い込まれるようにシャッターを切った。
カシャッ。
静かな部屋に、乾いた音が響く。
その瞬間だった。
ピントを合わせた蘭さんの顔が、ファインダーの中で異常なほど鮮明に浮かび上がった。
(……えっ?)
私は、指先が微かに冷たくなるのを感じた。
蘭さんは、完璧にメイクを施している。真っ赤な口紅、丁寧に引かれたアイライン。
けれど、マクロレンズが捉えたその「静止画」の中には、化粧では隠しきれない異変が、不気味なほどはっきりと記録されていた。
蘭さんが「オホホ!」と笑った、その一瞬の静止画像。
唇の端、真っ赤な口紅の下から覗く、粘膜の色。
それは、健康なピンク色でも、病的な白さでもなかった。
不自然に、くすんだ、土のような紫色。
(……何、この色)
私は、思わずカメラから目を離した。
肉眼で見る蘭さんは、相変わらずスポットライトの下で、部長に「愛の台詞」を強要している。
「ロミオ! 私の心臓の鼓動が、あなたには聞こえないの?」
「……加賀美さん。聴診をしますので、そのまま深く息を吸ってください。演出抜きで、お願いします」
部長は真顔で聴診器を当てている。
村上先生は、「レフ板の角度、これでいい?」と、楽しそうにアルミホイルを調整している。
けれど、私の中に、嫌な冷気が入り込んでいた。
ピントを合わせるために凝視した、あの唇の色。
そして、蘭さんが笑うたびに、首筋の細い血管が、まるでミミズのようにピクピクと、けれど力なく怒張しているのが、どうしても目に付いてしまう。
私は医療従事者ではない。
唇が紫なのが何を意味するのか、首の血管が腫れるのがどれほど危険なのかなんて、知識としては知らない。
けれど、カメラマンとしての私の指先が、本能的に「それ」を拒絶していた。
美しいものを美しく撮ろうとすればするほど、私のファインダーは、蘭さんの身体が発している「死の記号」ばかりを、ハイビジョンで、冷酷に、切り取ってしまう。
第二章:高解像度の呪い
「……いいわ。触診? 構わないわよ。ただし、ロミオ。その触れ方は『別れの朝の、未練がましい愛撫』のようでなくてはダメ。わかった?」
加賀美蘭は、尾崎部長の手を自分の腹部に導きながら、うっとりと目を閉じた。
尾崎部長は、一秒の迷いもなく、業務用の精密機器のような無機質さで、その要求に応えた。
「……失礼します。膨満感を確認します」
部長の指先が、蘭のパジャマの上から静かに沈み込む。その顔は相変わらずの鉄仮面だが、手つきだけは驚くほど丁寧だ。傍から見れば、熟練の役者が演じる「別れのシーン」に見えなくもない。
その横で、村上先生が自作のアルミホイル・レフ板を、まるで団扇のようにパタパタと仰いでいた。
「……ねえ尾崎さん、今の角度、光の当たり具合最高じゃない? 私、医療ドラマの監修とか向いてるかもしれない。ねえ、紬さん」
「……あ、はい。……そうですね」
私は生返事をしながら、シャッターを切り続けた。
ファインダーの中の世界は、肉眼で見るよりもずっと「うるさい」。
カメラマンという生き物は、ピントを合わせるために、被写体の隅々までを舐めるように凝視する。睫毛の一本、毛穴の一つ、そして皮膚の質感。
カシャッ。
(……あれ?)
蘭さんの首筋にピントを合わせた瞬間、私は指を止めた。
彼女が声を上げて笑うたびに、首の付け根にある皮膚が、呼吸のリズムと合わない妙なタイミングで、ペコっと小さく凹むのだ。
(……鎖骨のところ、こんなに動くものだっけ? 影のつき方が、なんか変だな)
それは「不気味な予兆」というより、カメラマンとしての私が**「この影のせいで、デコルテのラインが綺麗に映らない」**と舌打ちしたくなるような、純粋に造形上のノイズだった。
さらに、蘭さんの手。
真っ赤なマニキュアが塗られた爪。その根元が、ファインダー越しに見ると、少しだけ青ざめて見える。
(……照明のせいかな。いや、さっきのクリップライトはもっと暖色系だったはず。ホワイトバランスが狂ってる……?)
私はカメラの設定をいじり、露出を変え、何度もシャッターを切る。
けれど、どう調整しても、蘭さんの肌の質感は、どこか「生きた人間」のそれとは違う、乾燥した古紙のような、あるいは湿りすぎた粘土のような、撮りにくい質感としてレンズに定着してしまう。
「……今日はこれくらいにしましょう。加賀美さん、少しお疲れのようですから」
尾崎部長が、蘭を椅子に座り直させ、静かに立ち上がった。
「もう行くの? 私のロミオ。次はいつ、この劇場の幕を開けてくれるのかしら」
蘭は名残惜しそうにパイポをくゆらす。
「……来週、また伺います。それまで、薬は必ず飲んでください。演出ではなく、業務命令です」
「ふふ、冷たい人……。いいわ。お嬢ちゃん、今日の写真、楽しみにしてるわね。私の『魔法』が消えないうちに、現像してちょうだい」
蘭さんは、私に細い手を振った。
その瞬間、私は彼女の足元を見てしまった。
派手なシルクのスリッパから覗く足首。パンパンに張っていて、本来あるはずのくるぶしの骨のラインが、どこにも見当たらない。
(……あ、これ、現像で修正するのが大変そうだな)
私は、そんな不謹慎なことを考えながら、カメラバッグのジッパーを閉めた。
「死」が怖いというよりも、**「今の蘭さんは、カメラマンにとって、なんて残酷な被写体なんだろう」**という、やりきれない実感が、重たい機材と一緒に肩にのしかかっていた。
マンションの廊下に出ると、冷たい秋の風が吹き抜けた。
「いやー、今日も濃かったね! 尾崎さんのロミオ、最高。紬さん、今の写真、後で送ってよ。私のレフ板の効果、確認したいし」
村上先生が笑いながらエレベーターのボタンを押す。部長は相変わらず無言だ。
私は、カメラバッグを強く抱きしめた。
この中に、修正しきれないほどの「ノイズ」を抱えた蘭さんが、何百枚もの静止画として閉じ込められている。
それは魔法でも呪いでもなく、ただの、抗いようのない「現実」の記録だった。
第三章:カーテンコールのあとに
それから数日間、私は狂ったように加賀美蘭の写真を現像し続けた。
事務所のデスクで、大型モニターに映し出される彼女の姿。
蘭さんの要求は「世界で一番美しく」だ。私はその言葉に従い、Photoshopのペン先を走らせる。黄疸特有の肌のくすみを飛ばし、不自然な影を払い、唇には血色に近い瑞々しい赤を乗せていく。
けれど、作業を進めれば進めるほど、喉の奥に苦いものがせり上がってくるような感覚に襲われた。
ピクセルを一つずつ塗り潰していくこの作業は、まるで、今にも崩れそうな砂の城を必死にアクリル絵の具で塗り固めているような、奇妙な虚しさに満ちていた。
「……紬さん、まだやってるのか」
背後で、扉が開く音がした。振り返らなくても分かる。尾崎部長だ。
部長はコートを脱ぎもせず、私のデスクの端に紙コップのコーヒーを置いた。
「……蘭さんの現像、今日中に終わらせたくて。明日、届けに行く約束なんです」
私は、無理に明るい声を出してモニターを見せた。
そこには、スポットライトを浴びて、ロミオ(部長)の腕の中で微笑む、女神のような蘭さんの姿があった。
「見てください、部長。この写真。蘭さんが言っていた『魔法』、ちゃんとかかってますよね?」
部長は、その画像をじっと見つめた。
数秒の、深海のような沈黙。
「……この写真を現像しながら、何を考えていた?」
部長の問いは、私の心臓のど真ん中を射抜いた。
私はマウスを握る手を止め、震える呼吸を整えた。
「……わかりません。でも、ピントを合わせようとすると、どうしても……蘭さんの、唇の色とか、足のむくみとか……そういう、撮る側としては『ノイズ』でしかない部分が、異常なほど鮮明に飛び込んでくるんです。私は医療従事者じゃないのに、なんでこんなに、嫌なところばかりが目に付くんでしょう」
私は、モニターの中の、修正を施した蘭さんの手を指差した。
「この写真、綺麗ですよね? でも、私には見えるんです。この滑らかにした皮膚の下にある、粘土みたいな質感が。部長が触れた後に消えなかった、あの指の跡が。……私、カメラマンなのに、美しいものじゃなくて、被写体の『衰え』ばかりを、高画質でコレクションしてるみたいで……」
声が、自分でも驚くほど震えた。
第三話での源三さんの死。あの時の「音」の記憶が、今度は「視覚」という形をとって、私の五感を侵食していた。
尾崎部長は、私の隣に椅子を引いて座った。
「……紬。今感じているのは、カメラマンとしての『誠実さ』だ。被写体の全てを見ようとするから、隠されているものまで見えてしまう」
「でも、怖いです。次に蘭さんに会う時、私のシャッターが、彼女の『最期』の引き金になってしまうんじゃないかって……」
「怖いのは、彼女の人生を真剣に引き受けようとしているからだ。……だが、紬さん」
部長は、コーヒーを一口啜り、モニターの中の「完成された虚構」を一度だけ見てから、私に視線を戻した。
「自覚して。お前が今見ているのは、ただの『絵』じゃない。命の削りカスだ」
「命の、削りカス……」
「そうだ。記録するっていうのは、その対象が摩耗していくプロセスを一緒に引き受けるってことだ。お前がシャッターを切るたびに、蘭さんの『今』は過去になり、削り取られていく。その重さに耐えられないなら、その指をボタンから離せ」
突き放すような言葉。けれど、部長の手は、震えが止まらない私の右手に、そっと重ねられた。その分厚い皮膚の熱さが、氷のように冷え切っていた私の指先を、強引に現世へと引き戻す。
「……怖くても、見ろ。お前にしか見えていないその『ノイズ』は、蘭さんが生きて、抗っている証拠だ。それをなかったことにするな。修正して消し去っても、お前だけは、その下にある真実を覚えておいてやれ」
部長はそれだけ言うと、椅子を引いて立ち上がり、暗い事務所を出て行った。
私は一人、残された冷たいコーヒーを啜った。
苦くて、少しだけ甘い。
モニターの中の蘭さんが、微笑んでいる。
「魔法をありがとう、お嬢ちゃん」
彼女の掠れた声が、静かな部屋に木霊している。
私は、部長の言葉を反芻しながら、再びマウスを握った。
私は、彼女の唇の土色を塗り潰し、足首の浮腫を削り取り、彼女が望んだ「完璧な女優」へと再構築していく。
けれど、レタッチを重ねれば重ねるほど、私の指先は、あの粘土のような皮膚の感触を、消えない刻印のように記憶に刻みつけていた。
「……できた」
窓の外が白み始めた頃、ようやく最後の一枚が完成した。
そこには、死の気配など微塵も感じさせない、永遠の美しさを手に入れた加賀美蘭がいた。
第四話:女王陛下のステージ(終演)
往診から二週間後。加賀美蘭さんの「魔法」は、想像を絶する形で現実となった。
蘭さんは自宅のリビングを開放し、限られた知人だけを招いた「生前葬」を強行したのだ。いや、彼女の言い方を借りれば、それは「加賀美蘭・引退記念特別公演」だった。
「お嬢ちゃん、準備はいい? 私の人生で、最も完璧な『死に顔』を撮りなさい」
控室となった寝室で、蘭さんは鏡の中の自分を見つめながら言った。彼女の顔は、二週間前よりも明らかに痩せこけている。肝不全特有の黄疸は、ファンデーションを三層塗り重ねても、なお肌の奥から不気味な光を放っていた。
それでも、彼女は真っ赤なシルクのドレスに身を包み、宝石を散りばめたティアラを戴いている。私は何も言えず、ただレンズのキャップを外した。
会場となるリビングには、村上先生と尾崎部長の姿もあった。
村上先生は、「生前葬なんて初めて! ケーキとか出るのかな?」と、相変わらず場違いな期待を口にしている。一方、尾崎部長は、黒いスーツに身を包み、壁際に立って蘭さんの動きを一瞬たりとも見逃さないように注視していた。ロミオ役を解任されたわけではないらしい。
「さあ、ミュージック、スタート!」
蘭さんの掛け声と共に、古い蓄音機からエディット・ピアフの『愛の讃歌』が流れ出す。蘭さんは、村上先生がアルミホイルのレフ板(今回は少しグレードアップして、百均の姿見を改造したものだ)で光を反射させる中、ゆっくりと、けれど確かな足取りで、ゲストたちの前へと歩み出た。
その瞬間、私は息を呑んだ。
ファインダー越しに見る彼女は、間違いなく「死」を纏っている。
ドレスの裾から覗く足首は、浮腫の重みでステップが僅かに遅れる。呼吸は歌に合わせて激しくなり、鎖骨の上の窪みは、先日の往診時よりも深く、激しく、不気味に陥没している。
(……見えすぎる。嫌だ。見たくないのに、ピントがそこを拾っちゃう)
私は、震える指でシャッターを切った。
カシャッ。
カシャッ。
ところが、不思議なことが起きた。
シャッターを切るたびに、私の脳内にある「死のノイズ」が、蘭さんの放つ圧倒的な「華」によって、強引に塗り替えられていくのだ。
彼女が細い腕を広げ、観客に向けて微笑む。その瞬間、土色の唇は、彼女の情熱という名の魔法で、血のような赤色に発火する。彼女が咳き込みそうになり、一瞬だけ動きが止まる。その静寂さえも、彼女は「愛の終わりを惜しむ演技」として、完璧に自分のものにしていた。
「……綺麗だ」
隣でカメラを構えていない誰かが、小さく呟いた。
私は無心でシャッターを切り続けた。
彼女の身体が崩壊に向かっていることは、レンズ越しに見れば明らかだ。でも、その崩壊のプロセスさえも、彼女は「加賀美蘭」という芸術の一部として捧げている。
私は、彼女の「最高の瞬間」を待った。
曲がクライマックスに達し、蘭さんが壁際の部長――ロミオに向かって、震える指先をそっと差し出した、その刹那。
カシャッ。
撮れた。
ピントは、彼女の瞳の奥、今まさに消えようとしている生命の「最後の閃光」に、一点の狂いもなく合っていた。
パーティーが終わった後、蘭さんは椅子に倒れ込むように座った。
「……魔法は、かかったかしら。お嬢ちゃん」
彼女の声は、もう掠れてほとんど聞こえない。
「……はい。完璧でした。加賀美さん」
私は、自分でも驚くほど静かな声で答えた。
彼女は満足そうに目を閉じ、それ以上は何も言わなかった。
その姿を最後の一枚に収め、私は「劇場」を後にした。
窓の外が白み始めた頃、ようやく最後の一枚が完成した。
そこには、死の気配など微塵も感じさせない、永遠の美しさを手に入れた加賀美蘭がいた。
数日後。
私はその写真を手に、再び蘭さんのマンションを訪れた。
部屋の中は、あの「生前葬」の喧騒が嘘のように静まり返っていた。カーテンは開け放たれ、冬の柔らかな光が、ベッドに横たわる彼女を照らしている。
蘭さんは、もはや声を出すことさえ難しい状態だった。
けれど、私が現像した写真を枕元に置くと、彼女はゆっくりと目を開けた。
「……」
声にはならなかった。
けれど、彼女は震える手で、その写真を愛おしそうに撫でた。黄疸で濁ってしまった瞳が、一瞬だけ、かつての銀幕のスターのように輝く。
彼女は写真の中の自分と、それを見届けた私を交互に見つめ、口角を微かに上げた。
(ありがとう。……完璧よ)
唇の動きだけで、彼女はそう言った。
それは、カメラマンである私に向けられた、最大級の賛辞だった。
その翌週の夜。加賀美蘭は、眠るように息を引き取った。
村上先生から聞いた話では、彼女は亡くなる直前までその写真を胸に抱き、まるで「最高の演技」を終えた後のように、満足げな表情で幕を下ろしたという。
彼女は、自分の死さえも「魔法」で包み込み、伝説として完成させた。
その遺影の前で、私は立ち尽くしていた。
私の写真は、彼女の望みを叶えた。彼女の尊厳を守り抜いた。
けれど、私の「目」には、彼女が死に至るまでのカウントダウン……あの唇の色、あの皮膚の沈み込み……その一つ一つが、剥がせないステッカーのように網膜に張り付いていた。
部長の言葉が、耳の奥でリフレインする。
『お前が今見ているのは、ただの絵じゃない。命の削りカスだ』
私は、自分の指先を見つめた。
この指がシャッターを切るたびに、誰かの命が削られ、私の記憶に「死のデータ」として蓄積されていく。
感謝されればされるほど、その重みで、カメラバッグのストラップが肩に深く食い込んだ。
「……さあ、紬さん。次は高橋とめさんだよ。九十二歳!」
蘭さんを見送ってから数週間後。
村上先生の明るい声が、雪に閉ざされた札幌の街に響く。
お正月を目前に控え、街は浮き足立っていた。けれど、私の視界だけは、モノクロームの静寂に包まれていた。
「……はい。行きましょう、先生」
私は、一度だけ強くカメラバッグを背負い直した。
逃げたかった。でも、この重みこそが、私が蘭さんから引き継いだ「責任」なのだと言い聞かせて。




