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3話:焦点の喪失

 第一章:棟梁の王国

「——おーい、吉田! お前、その鉋の研ぎ方はなんだ。そんなんじゃあ、木の魂が泣くぞ!」

札幌の初夏。丘の上に立つ、木の香りが染み付いた古びた家の中に、源三さんの怒号が響いた。肺癌が全身に回っているはずの男のどこにそんな力が残っているのか、その声は未だに「棟梁」としての重みを失っていなかった。

「すみません、親方! でも、これでも一晩かけて磨いたんっすよ!」

一番弟子の吉田くんが、困ったように、けれどどこか嬉しそうに頭をかく。彼の周りには、二番弟子、三番弟子の若い衆が常に二、三人は付き添い、源三さんの脚をさすったり、お茶を運んだりと、かいがいしく動いていた。

「……紬さん、また賑やかでしょ。ごめんなさいね、男所帯で」

そう言って笑うのは、源三さんの妻の文江さんだ。彼女が運んできたお盆には、弟子たちの分まで用意された冷たいお茶と、地元の和菓子が並んでいる。

私は、その賑やかな光景の端っこで、カメラを置いたまま畳に座っていた。

今日が初訪問。けれど、源三さんは私の顔を見るなり、「死にぞ損ないを撮ってどうする、塩をまけ!」と一喝した。

「源三さん、私は『死にゆく姿』じゃなくて、あなたが歩んできた時間を撮りに来たんです」

「うるせえ。小娘に何がわかる。道具も触れねえ奴が、俺の何を写すってんだ。カメラなんてのは、チャラチャラしたもんを撮るための道具だろ」

源三さんは、布団の上に座ったまま、使い込まれたのみの刃先を鋭い目で見つめている。その眼光は、癌という病に侵されていることなど忘れさせるほどに研ぎ澄まされていた。

「親方、この人、根性ありますよ。昨日も仕事場の掃除を手伝ってくれたんです」

吉田くんが加勢してくれるが、源三さんはフンと鼻で笑って横を向いた。

部屋の隅には、彼が現役時代に手がけたという建築物の写真が数枚飾られている。どれもが力強く、札幌の厳しい冬を何十年も耐え抜いてきた誇りに満ちていた。その建築物の前で、半纏はんてんを羽織り、若き日の吉田くんたちに囲まれて笑う源三さんは、まさにこの「島田組」という王国の絶対的な王だった。

「お嬢ちゃん、帰んな。俺の体は、もう俺の言うことを聞かねえ。そんなもん、記録に残してどうする。俺は死ぬまで棟梁でいたいんだ。……惨めに死んでいく『老人』の姿を、弟子たちに見せたくねえんだよ」

源三さんの言葉は重かった。

それは死への恐怖ではなく、自分が築き上げてきた「美学」が壊れていくことへの拒絶だった。

私は、自分の足元にあるカメラバッグを見つめた。

尾崎部長は言った。

『死を撮ることは、その人の生を肯定することだ』と。

けれど、目の前のこの男にとって、私のカメラは自分の「生」を汚す侵入者にしか見えていない。

「……わかりました。今日は帰りましょう」

私が立ち上がると、弟子たちが「え、お姉さんもう帰っちゃうの?」「明日も来てよ、親方の愚痴聞いてやってよ」と口々に声をかけてきた。

文江さんも、申し訳なさそうに私の手を握る。

「ごめんなさいね。ああ見えて、本当は寂しいのよ、あの人。……また、顔を出してあげて」

私は、門をくぐり、ライラックが揺れる丘の道を歩きながら、何度も後ろを振り返った。

あの家からは、今も弟子たちが親方を囲んで笑い、叱られる声が漏れ聞こえてくる。

死という終着駅に向かっているはずのこの場所には、なぜか、誰よりも強く生きようとする男たちの熱い空気が満ちていた。

私は決めた。

源三さんが「撮ってくれ」と言うまで、私はこの丘に通い続けよう。

彼の美学を壊すのではなく、彼が命をかけて守り抜こうとしている「棟梁としての誇り」を、私のレンズで証明するために。

これが、私と「島田組」の、長く、そしてあまりにも短い一週間の始まりだった。


 

 第二章:ライラックの約束

それから、私は「仕事」の枠を完全に飛び越えてしまった。

訪問診療の同行日以外、週に二日の休みはすべて、丘の上の島田家へ通うことに費やした。事務所でカメラのメンテナンスをしていた時、その様子を見ていた尾崎部長が、いつになく真剣な面持ちで私に声をかけてきた。

「紬さん。……ほどほどにしておきなよ」

部長の言葉は、冷たい突き放しではなく、深い危惧だった。

「僕たちの仕事は、彼らの『生』の終着点に寄り添うことだ。だけど、自分自身の人生を切り売りしてまで入り込むのは違う。深入りしすぎれば、その命が尽きた時、持っていかれるのは彼らだけじゃない。君自身の心も、一緒に持っていかれるよ」

「わかってます。……でも、部長。あそこには、まだ撮るべき『生』が溢れているんです。源三さんが吉田くんに何かを渡そうとしている。それを見届けたいんです」

私の頑固な返答に、部長は小さく溜息をつき、「……なら、最後まで責任を持ってね」とだけ言って、自分のデスクに戻っていった。

それからの私は、もはや「カメラマン」ではなく、島田組の見習いのような姿で毎日を過ごした。

弟子たちに混じって雑巾を手にし、柱や床を磨く。島田組の家は、どこを触っても木の滑らかな温もりが手に伝わった。それは、源三さんが数十年かけて育ててきた「命」の感触そのものだった。

「紬、また来たのか。お前、他に行くところはねえのかよ」

三週目が過ぎる頃には、源三さんの口調から険が消えていた。私はカメラバッグを玄関に置いたまま、源三さんの脚をさすり、吉田くんが研ぎ澄ます刃物の音を横で聞きながら、源三さんの昔話に耳を傾けた。

しかし、一ヶ月が経とうとする頃、源三さんの病状は明らかに進行していた。

声は掠れ、あんなに鋭かった視線も、時折、霧の中に迷い込んだようにぼんやりと虚空を彷徨う。

ある日の夕暮れ、弟子たちが買い出しに出払い、文江さんが台所で夕食の支度をしていた時のことだ。

「……紬。俺はよ、このまま消えちまいたいんだ」

源三さんが、沈みゆく夕日に照らされた自分の手を見つめて、消え入りそうな声で漏らした。

「指先に力が入らねえ。木の肌触りも、刃物の重みも……全部、砂みたいにこぼれ落ちていく。俺にとって、仕事ができねえってことは、生きてねえのと同じだ。こんな『空っぽ』になった俺を、記録に残して何になる」

それは、あの大音量で弟子を怒鳴りつける「棟梁」の仮面を剥ぎ取った、一人の老いた職人の、剥き出しの恐怖だった。

「空っぽなんかじゃありません」

私は、源三さんのその手を、そっと両手で包み込んだ。

「この手のタコも、傷も、全部源三さんが生きた証です。源三さんが動けなくなっても、この手が建てた家は、今も誰かの家族を雨風から守っています。そして……源三さんの技術は、吉田くんたちの手の中に、もう移り始めてる」

源三さんは、私の手を振り払わなかった。

「……吉田、か」

「はい。あの子、毎日源三さんの道具を磨きながら、泣きそうな顔をしてるんですよ。『親方の技術を一つも漏らさず盗みたい、でも時間が足りない』って。源三さんが自分一人の美学にこだわって、何も残さずに逝ってしまったら、あの子たちの心に、一生消えない穴が空いちゃいます」

源三さんは、長く、深い沈黙に沈んだ。

窓の外からは、初夏の風に乗って、満開間近のライラックの甘い香りが漂ってくる。

その翌日。私がいつものように顔を出すと、源三さんは一番弟子の吉田くんを枕元に呼んでいた。二番弟子、三番弟子の若い衆も、掃除の手を止めて固唾を呑んで見守っている。

「吉田。……お前、俺がいつまでも現役でいるのが、そんなに困るか」

「……困りません。でも、親方」

吉田くんが、畳に額を擦り付けるようにして言った。

「僕は、親方の背中をずっと見てきました。でも、親方の頭の中にある『木の理』を、全部はまだ受け取れていません。……だから、形に残してほしいんです。僕らが迷った時に立ち返れる場所を。……僕らに『託した』という証を、ください」

源三さんは、震える手で、枕元にある古い道具箱に触れた。そこには、彼が親方から受け継ぎ、一生をかけて使い込んできた一本のかんなが収められている。

源三さんは、私を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、恐怖を乗り越えた、静かな「覚悟」が宿っていた。

「……紬。お前の勝ちだ。俺の『老い』じゃなく、俺がこいつらに渡す『魂』を撮れ。……それがお前の仕事だろ」

「親方……!」

吉田くんの目に、熱いものが溢れた。他の弟子たちも「よっしゃあ!」と歓声を上げ、互いの肩を叩き合う。奥の台所で聞いていた文江さんが、エプロンで目元を拭いながら、私に小さく、何度も頷いてくれた。

一ヶ月。

仕事の枠を超えて、自分の心を削りながら通い続けた日々が、ようやく報われた瞬間だった。

「最高の光で撮ります。源三さん、吉田くん。……島田組の、一番かっこいい『継承』の瞬間を」

私は、心からそう誓った。

誰もが、その「最高の一瞬」が訪れるのを、一点の疑いもなく信じていた。


 

 第三章:レンズに映らない旋律

撮影当日の午後は、呪わしいほどに完璧な光に満ちていた。

その日はちょうど一週間に一度の訪問診療の日でもあり、仕事場の隅には村上先生と尾崎部長の姿もあった。

「源三さん、今日は一段と顔色がいいですね。これなら最高の写真になりますよ」

村上先生が聴診器を外しながら、穏やかに笑いかけた。バイタルを測定していた尾崎部長も、モニターの数値を確認して満足げに頷く。

「血圧も酸素飽和度も、ここ一ヶ月で一番安定しています。……紬さん、今日が勝負だね」

「はい。万全の準備をしてきました」

部長の言葉に、私は力強く頷いた。

窓を全開に放った仕事場には、満開のライラックから溢れ出した甘い香りが、濁流のように流れ込んでいる。札幌の短い夏の始まりを告げる、生命力に満ちた風。

「おーい、紬さん! 見ろよ、親方のこの格好。全盛期に戻ったみたいだろ!」

吉田くんが、誇らしげに声を張り上げる。源三さんは、一番弟子が夜通しアイロンをかけたという、深い藍色の半纏はんてんを羽織っていた。背中には、職人の魂を象徴する「島田」の紋が力強く踊っている。

「……五月蝿いぞ、吉田。小恥ずかしい真似をさせやがって」

源三さんは毒づくが、その口元には、一ヶ月前には決して見せなかった柔らかな笑みが浮かんでいた。文江さんが運んできた冷茶を、弟子たちや村上先生、尾崎部長が囲む。それは「患者」と「医療者」の壁を超えた、一つの大きな家族のような、温かく完成された空間だった。

「さあ、始めましょうか。源三さん、特等席へ」

吉田くんと二番弟子の若手が、阿吽の呼吸で源三さんの両脇を支え、光が最も美しく差し込む窓際の椅子へと導く。源三さんの手には、あの最高傑作のかんなが握られていた。

「吉田、こい。お前もだ」

源三さんの呼びかけに、吉田くんが居住まいを正し、師匠の隣に跪く。

窓からの逆光が、源三さんの白髪を銀色のハローのように輝かせ、仕事場に舞う微細な木屑が、ダイヤモンドの粉のようにキラキラと宙を舞っている。

私はファインダーを覗いた。

これだ。一ヶ月間、休みを返上して通い詰め、この家族の一員になって、ようやく辿り着いた光景。

「死」を待つ老人の姿など、そこには微塵もなかった。

あるのは、次代へすべてを託そうとする男の神々しいまでの覚悟と、それを真っ向から受け止めようとする弟子の、震えるほど純粋な忠誠心だけだ。

「……源三さん、吉田くん。そのまま、笑ってください。島田組の、最高の笑顔を」

私の声に応えるように、源三さんが口角を上げ、吉田くんが眩しそうに目を細める。

傍らでは村上先生と尾崎部長が、この美しい継承の儀式を、慈しむような目で見守っている。

幸せが、この部屋の隅々まで飽和していた。

私は、この一瞬を永遠に封じ込めるために、世界で一番幸せなシャッターを切ろうとした。

(今だ……!)

人差し指に力を込める。

その刹那。

『……ぁ、……がはっ……!!』

世界から音が消え、代わりに、この世のものとは思えない「不快な音」が静寂を突き破った。

ファインダーの中の世界が、物理的に跳ね上がった。

源三さんの体が、まるで内側から巨大な力で突き上げられたように大きく反り返る。その衝撃で、手にしていた最高傑作の鉋が、畳の上に乾いた音を立てて転がった。

「親方!?」「源三さん!」

さっきまで笑っていた吉田くんたちの叫びが重なる。

私は指を止めた。何が起きたのか、脳が理解を拒んでいた。

ピントを合わせたままのレンズの向こう側で、源三さんの尊厳に満ちた顔が、一瞬で「怪物」のような形相に変貌していく。

眼球が大きく上を向き、白目だけが私を睨みつけていた。

四肢は不自然に内側へねじれ、鋼のように硬直する。除脳肢位。

そして、その喉の奥から漏れ出したのは、人間のものとは思えない、地鳴りのような喘ぎだった。死戦呼吸。一分間に数回、魂を無理やり吐き出すような、あまりにも不気味で、暴力的な音。

「急変だ! 紬さん、カメラを置いて車からAEDを持ってこい! 早く!」

尾崎部長の怒号が、凍りついた私の体を弾いた。

「あ、はい……!」

私はカメラを畳に投げ出すように置き、裸足のまま外へ走った。

ライラックの香りが鼻を突く。さっきまであれほど甘かった香りが、今は死を告げる死臭のように感じられた。車から重いAEDケースを掴み出し、全力で部屋へ戻る。

「救急車! 誰か、早く救急車を呼んで!」

文江さんが、錯乱したように叫びながら電話に手を伸ばそうとした。

「奥さん、待ってください!」

胸骨圧迫をしながら尾崎部長が、鋭い声で制した。

「救急車を呼べば、救急隊は延命の義務に従います。源三さんは病院のICUで、機械に繋がれたまま最期を迎えることになります。……源三さんは、それを望んでいましたか!?」

「でも、だって……! このままじゃ、死んじゃう!」

「吉田くん、ここを押せ! 僕が代わるまで絶対に止めるな!」

尾崎部長は、パニックで泣きじゃくる吉田くんを源三さんの胸元に無理やり引き寄せた。

「え、あ、僕が……!? 親方の骨が……!」

「いいから押せ! 早く!」

吉田くんが震える手で、師匠の細くなった胸を押し始めた。

『バキッ』

静かな部屋に、嫌な音が響いた。

肺癌で骨まで脆くなっていた源三さんの肋骨が、一打目で折れたのだ。吉田くんの顔が恐怖に歪む。

「止めるな、続けろ! 紬さん、AEDを!」

私は震える手でAEDの蓋を開け、電極パッドを源三さんの胸に貼り付けた。さっきまで私が「職人の歴史が刻まれている」と褒めたあの胸に、今は無機質な粘着パッドが貼り付けられ、コードが這っている。

村上先生は源三さんの頭側に陣取り、BVMバッグバルブマスクを顔に密着させていた。シュッ、シュッ、と規則正しく、けれど虚しい音が響く。

『解析中……体に触れないでください』

AEDの合成音声が、カオスな部屋を静まり返らせた。

全員が、止まった吉田くんの手の先、源三さんの胸を見つめていた。

(動いて……お願い、一回だけでいいから……)

『……ショックは不要です。直ちに胸骨圧迫を開始してください』

「え……?」

吉田くんが、掠れた声を漏らした。

「止めるな、吉田くん! 続けろ!」

尾崎部長の声が飛ぶ。吉田くんは嗚咽を漏らしながら、再び両手を重ねた。一秒間に二回。バキッ、バキッ、という鈍い音が響くたび、文江さんがビクッと肩を揺らし、耳を塞いだ。

「村上先生、ルート確保! アドレナリン、いきます!」

尾崎部長は流れるような動作でシリンジに薬液を吸い上げ、「アドレナリン1mg、静注!」と叫びながら、源三さんの痩せ細った腕に針を刺し込んだ。

「吉田くん、交代だ! 下がれ!」

注入を終えた尾崎部長が、限界を迎えつつあった吉田くんの肩を強く押し、入れ替わるように膝をつく。部長の掌が、すでにバラバラになった肋骨の感触を厭わずに深く沈み込む。一打ごとに源三さんの体から空気が漏れるような音がし、その顔面が苦悶に歪んでいるように見えた。

「源三さん! 戻ってきて!」「親方! 親方ぁ!!」

文江さんと弟子たちの悲鳴が、ライラックの香る部屋を地獄へと変えていく。

その時、BVMバッグバルブマスクの手を止めることなく、村上先生が静かに、けれど通る声で口を開いた。

「文江さん、吉田くん、皆さん……よく聞いてください」

その声の落ち着きが、一瞬だけ部屋のパニックを凪がせた。

「今、尾崎さんが行っているのは、源三さんの心臓を無理やり動かそうとする処置です。アドレナリンも入れました。ですが、源三さんの心臓は、もう自力で動く力を使い果たしてしまったようです」

「先生、そんな……! まだ、まだ温かいんです!」

吉田くんが叫ぶ。村上先生は悲しげに、けれど真っ直ぐに彼を見つめた。

「このまま処置を続ければ、源三さんの体はさらに傷つきます。骨は折れ、内臓も耐えられません。源三さんは……自分の誇り高い姿を、皆さんに見ていてほしかったはずです。これ以上、源三さんの体を苦しめることを、彼は望んでいるでしょうか」

村上先生の言葉は、残酷なほどに「死」を突きつけていた。

文江さんが、夫の冷たくなっていく手を握り締め、嗚咽を漏らしながら尾崎部長の背中を見た。

「……もう、いいわ」

文江さんの掠れた声が、部屋に響いた。

「もう……十分です。先生、尾崎さん。源三さんを、もう、楽にさせてあげてください。この人は……最後まで、かっこいい棟梁のままでいさせてあげたいの」

吉田くんが畳に突っ伏して号泣し、他の弟子たちも顔を覆った。

尾崎部長は、最後の一打をこれまでで最も深く、心を込めるように押し込み、そしてゆっくりと、本当にゆっくりとその手を離した。

「……アドレナリン投与から三分。処置を終了します」

村上先生が、静かに腕時計に目を落とした。

「島田源三さん。……午後四時二十分、ご臨終です」

その瞬間、泣き声さえも一瞬途切れた。

静まり返った部屋に、ただ一つ、AEDの胸骨圧迫のガイド音だけが、規則正しく鳴り続けていた。

ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

もう誰も押すことのない胸を、機械の音だけが急かしている。その冷徹なリズムが、源三さんの「停止」を際立たせていた。

私は、膝の力が抜けてその場に座り込んだ。

自分のカメラのモニターには、急変直前の、ピントがどこにも合っていない、真っ白に光が飛んだ源三さんの後ろ姿だけが写っていた。

一ヶ月、自分の人生を切り売りして追い求めた「最高の瞬間」は、一枚も残せなかった。

 

 

 第四章:空白のSDカード

源三さんが息を引き取ってから、どれほどの時間が経ったのだろう。

村上先生と尾崎部長が、文江さんと共に源三さんの体を整える「エンゼルケア」を始めている間、私は一人、仕事場の隅で動けずにいた。

「……紬さん」

尾崎部長の声に顔を上げると、そこにはいつもの冷静な部長がいた。けれど、そのスクラブの胸元は源三さんの胸を押し続けた汗で色を変え、指先は微かに震えている。

「機材を片付けよう。……今日は、もう終わりだ」

「はい……」

私は、畳の上に転がっていたカメラを拾い上げた。手に馴染んでいるはずのカメラが、今は鉛のように重く、他人の持ち物のように感じられる。レンズキャップをはめる指が震えて、何度やってもうまく噛み合わない。

傍らでは、吉田くんが呆然とした様子で、源三さんが落としたあの「最高傑作のかんな」を見つめていた。刃先は畳に落ちた衝撃で少し欠け、主を失った道具は、ただの重い鉄と木の塊に成り下がっていた。

「吉田くん……」

声をかけようとしたが、言葉が出てこなかった。

一ヶ月。私は訪問診療の同行日以外、自分の休みをすべてこの家に捧げてきた。

仕事場の掃除を手伝い、吉田くんと「親方の技術」について語り合い、源三さんの脚をさすりながら彼の人生を聞いた。私は、この「島田組」という家族の一員になれたのだと、自分の居場所を見つけたつもりでいた。

けれど、決定的な瞬間に、私はただの「異分子」でしかなかった。

私が「源三さんの背中を残すべきだ」なんて言わなければ。撮影なんて提案しなければ。

彼はもっと静かに、穏やかな光の中で、弟子たちと最期の対話を交わして逝けたのではないか。

私のエゴが、私のカメラが、この家族の「理想の最期」を、肋骨を叩き折るような阿鼻叫喚の地獄へと変えてしまったのではないか。

その疑念が、喉の奥までせり上がってくる。

「……お疲れ様でした」

文江さんに声をかけた私の声は、自分でも驚くほど冷たく乾いていた。文江さんは、赤く腫らした目で、それでも私に小さく微笑んでくれた。その優しさが、今の私には刃のように痛かった。

事務所に戻る車内は、死ぬほど静かだった。

窓の外を流れる札幌の街並みは、何事もなかったかのように初夏の夕暮れに染まっている。ライラックの香りはもうしない。あるのは、服に染み付いた消毒液の匂いと、源三さんの胸が沈み込む時の、あの鈍い音の残像だけだ。

事務所のデスクに座り、私は一人、暗い中でパソコンにSDカードを差し込んだ。

祈るような気持ちで、プレビュー画面を開く。

(一枚でいい……あの一ヶ月の、何か一つでも残っていてくれ……)

画面に表示されたのは、真っ白な空間だった。

露出設定が間に合わなかったのか、あるいは急変の衝撃でカメラが大きく揺れたのか。

源三さんの凛とした背中も、吉田くんの決意に満ちた顔も、受け継がれるはずだった鉋も。

すべてが過露出の光の中に溶け、輪郭すら定まらない「失敗作」だけが、冷たいモニターの中に並んでいた。

最後にシャッターを切ったはずの、急変の瞬間の写真は、記録すらされていなかった。

書き込みが完了する前に、私がパニックでカメラを放り投げてしまったからだ。

「……撮れなかった」

私はマウスを握ったまま、声を殺して泣いた。

一ヶ月、自分の人生を切り売りして、休みをすべて注ぎ込んで、家族の輪に入り込んだ。自分は特別な記録者になれると、死に際さえも美しく切り取れると、自惚れていた。

けれど、現実は、私のレンズなどあざ笑うかのように、一瞬で「命」を解体し、奪い去っていった。

私の手元に残ったのは、何の価値もない真っ白なデータと、二度と取り戻せない「約束」の残骸だけだった。



 第五章:目蓋に焼き付いた記録

源三さんの葬儀が終わっても、私の時間は止まったままだった。

カメラバッグは玄関に置かれたまま、一度も開けられていない。レンズの冷たい感触を思い出すだけで、源三さんの肋骨が折れたあの「バキッ」という音が耳の奥で再生され、指先が凍りついたように動かなくなる。

事務所に出勤しても、私はただの抜け殻だった。

「紬さん、次の現場の機材チェック、お願いできるかな?」

村上先生にそう声をかけられても、私は返事すらできず、震える手でカメラバッグのストラップを握りしめるのが精一杯だった。

一ヶ月、自分の人生を切り売りして入り込んだ。

「自分なら、命の尊厳を写せる」

そんな傲慢な自惚れは、あの真っ白なSDカードのデータと共に、木っ端微塵に砕け散っていた。

それから一週間。私は一度もシャッターを切ることができなかった。

夕暮れ時、誰もいなくなった事務所のデスクで、私はただぼんやりと窓の外を眺めていた。あのライラックの香りが、まだどこからか漂ってくるような気がして、胸の奥が苦しくなる。

背後で、コーヒーを淹れる音がした。

「……まだ、開けられないか」

振り返らなくても、尾崎部長だとわかった。部長は私の隣のデスクに腰掛け、湯気の立つマグカップを一つ、私の前に置いた。

「……部長。私、もう撮れないかもしれません」

絞り出した声が、自分でも驚くほど掠れていた。

「目を閉じると、源三さんのあの顔が、あの音が、全部蘇ってくるんです。……あんなに時間をかけて、みんなで笑って、準備して。なのに、私の手元に残ったのは、何の価値もない真っ白なゴミだけでした。……私は、彼らに嘘をついたんです。最高の写真を撮るなんて、傲慢な嘘を」

尾崎部長は、熱いコーヒーを一口すすり、夜の街を見つめたまま静かに言った。

「紬さん。写真に残ることだけが、記録じゃないよ」

部長の言葉に、私は顔を上げられなかった。

「あの日、源三さんが法被を羽織って椅子に座った時の、あの威厳。吉田くんが師匠の期待を受け止めた時の、あの震える手。……そして、最期に全員がなりふり構わず命を繋ごうとした、あの泥臭い格闘。……それを見たのは、君だけじゃない」

部長の声が、少しだけ熱を帯びた。

「君が休みを返上して通い、あの組の一員として過ごしたからこそ、源三さんは笑って椅子に座る覚悟ができた。吉田くんは、親方の骨が折れる音を自分の手で聞きながら、それでも最後まで胸を押し続けた。あの『痛み』と『継承』を、あの子に刻ませたのは、君が作ったあの時間だ。……あの日、あの場所にいた全員の心に、君が『生』を焼き付けたんだよ」

「でも……写真は、真っ白だったんです」

「真っ白だったのは、君の心が、あの光景のまぶしさに耐えきれなかったからじゃないのか」

部長は私を真っ直ぐに見据えた。

「写真は、目に見えるものしか写さない。だが、看取りの現場での『記録』っていうのは、その場にいた人間の心にどれだけの重みを残したかだ。……お前のSDカードは空白かもしれない。だが、お前の目蓋の裏には、源三さんの最高の姿と、最期の凄まじい生が、世界で一番鮮明に焼き付いているはずだ」

私は、部長の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと目をつぶった。

真っ白なデータの裏側に、あの日、レンズ越しに見た景色が蘇る。

ライラックの香りと、職人の手の温もり。そして、死の淵で戦っていた男の、圧倒的なエネルギー。

「……撮れなかったんじゃない。君は、レンズを通さずに、一人の人間としてあの家族の最期を『記憶』したんだ。……その痛みを抱えたまま、それでもまたレンズを覗けるようになった時、君は本当の意味で、他人の人生を背負う『看取りの記録者』になれる」

尾崎部長は、私の肩を一度だけ強く叩き、席を立った。

残されたコーヒーの湯気が消えるまで、私は暗い事務所で一人、自分の手を見つめていた。


 

 第六章:ライラックの残り香

「……目蓋に、焼き付いている」

部長の言葉を反芻するように目を閉じると、あの日、レンズ越しに見た源三さんの眼光が、昨日のことのように鮮明に蘇る。けれど、いざカメラを手に取ろうとすると、あのAEDの無機質なガイド音と、吉田くんの嗚咽がセットになって脳内を埋め尽くす。私はまだ、カメラバッグのジッパーを開けることすらできずにいた。

そんなある日の午後、私のスマホに一件の通知が届いた。文江さんからだった。

『紬さん、お元気ですか。もしお時間があれば、一度うちに遊びに来ませんか? ちょうど、源三の四十九日も無事に終わったところなんです。』

その文字を見た瞬間、心臓が跳ねた。合わせる顔がない。あんなに良くしてもらったのに、私は結局、一枚の「家族写真」すら渡せていないのだから。けれど、逃げ続けても源三さんとの一ヶ月は消えてくれない。私は震える指で「伺います」と返信し、翌日、再びあの丘へと向かった。

初夏だったあの日は遠く、札幌にはもう秋の気配が混じり始めていた。ライラックの花はとっくに散り、島田家の庭は少しだけ寂しげに見えた。

「あら、紬さん。よく来てくれたわね」

迎えてくれた文江さんは、少し痩せたようにも見えたけれど、その微笑みは以前と変わらず温かかった。通された仕事場には、源三さんの遺影が飾られている。

「……文江さん、本当にすみませんでした。あの日、私、何も撮れてなくて……」

畳に額を擦り付けるようにして謝る私に、文江さんは優しく声をかけた。「紬さん、顔を上げて。……これ、見てくれるかしら」

文江さんが差し出したのは、あの日、源三さんが座っていた椅子の近くに置かれていた、小さな木箱だった。中には、源三さんが生涯大切にしていた研ぎ石と、あの日、畳に転がったあの最高傑作のかんなが入っている。

「……お疲れ様です、紬さん」

背後から、低く、けれど芯の通った声がした。振り返ると、そこには現場帰りの吉田くんが立っていた。作業着は木屑で汚れ、その顔つきは一ヶ月前よりもずっと精悍で、どこか源三さんに似た威厳を湛えている。

「吉田くん……」

「紬さんに、ずっと言わなきゃいけないことがあったんです」

吉田くんは私の前に座り、真っ直ぐに私を見つめた。

「あの日……僕は自分の手で、親方の骨を折りました。しばらくは、その感触が手にこびりついて、道具を握るのも怖かった。……でもね、ふと思い出したんです。あの時、紬さんは泣きながら、それでも僕たちのそばに居続けてくれた。カメラを置いて、一緒に戦ってくれた。……あの日、紬さんが撮影を提案して、親方が覚悟を決めて椅子に座った。あの『時間』があったから、僕は親方の最期を、あの凄惨な格闘さえも『誇り高い継承』だったと、今は思えるんです。……紬さん、ありがとうございました。あなたがいてくれて、本当に良かった」

吉田くんは、深く、長く頭を下げた。

「……っ……ああ、……」

その瞬間、私の中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ去った。

申し訳なさ、不甲斐なさ、恐怖、そして救い。

一ヶ月間、ずっと喉の奥に詰まっていた感情が、熱い涙となって溢れ出した。私は子供のように声を上げて、畳に伏したまま泣きじゃくった。

「ごめんなさい……っ、私、何も、何もできなかったのに……! 写真も、一枚も、撮れてなかったのに……っ!」

「写真はいいんです。僕たちの心の中に、あの日の親方はちゃんと写ってますから」

吉田くんの静かな言葉が、私の心に深く染み込んでいく。

(あぁ、そうか……。こういうことだったんだ、部長)

尾崎部長の言葉が、ようやく真実として私の中に落ちた。

**「他人の人生を背負う」**ということ。

それは、綺麗な瞬間を切り取ることではない。その人の苦しみも、痛みも、残酷な死の瞬間さえも、逃げずに見届け、自分の心に一生消えない傷として刻みつけることだ。

その傷を背負い、家族と共に泣けること。それが、看取りの現場に立つ「記録者」に許された、唯一の救いだったのだ。

「……紬さん。源三さんはね、あなたのことが大好きだったのよ。自分の死に際を、あんなに一生懸命追いかけてくれる子がいたことが、あのアマノジャクには最高の贅沢だったの」

文江さんが優しく私の背中をさすってくれる。

私は泣き腫らした目で、ゆっくりとカメラバッグを開けた。

まだ、指先は微かに震えている。けれど、もう迷いはなかった。

「……撮らせてください。吉田くん、今のあなたを」

吉田くんは照れ臭そうに、けれど力強く頷き、源三さんの形見の鉋を握った。

カシャッ。

静かな仕事場に、数ヶ月ぶりのシャッター音が響く。

今度は、真っ白なんかじゃなかった。

窓から差し込む秋の光の中に、師匠から弟子へと託された「命」の重みが、鮮やかに、力強く、そこに写し出されていた。

私は、再び重いカメラバッグを肩にかけた。

その重みは、他人の人生を背負い、共に生きていく決意をした、心地よい誇りの重みだった。


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