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2話 嘘つきな神様と、本当の施し

 第一章:施しの天丼と、見知らぬ経典

札幌の四月は、春という言葉に期待しすぎると、その夜のうちに手痛いしっぺ返しを食らう。

日中の陽光に誘われて、アスファルトの隙間からわずかに顔を出したふきのとうが、夜の凍てつく風に打たれて縮こまっている。歩道脇には、排気ガスを吸い込んで鉄のように硬く黒ずんだ雪の塊が、冬の執念を象徴するように居座り続けていた。ビル風はコートの隙間から容赦なく体温を奪い去り、私は悴んだ指先をポケットの奥に押し込んだ。

私はアパートの錆びついた外階段を、一段ずつ重い足取りで上っていた。

『Terminal Links』での仕事は、私の人生観を根底から揺さぶるほどに刺激的だ。第一話であの親子に立ち会ってから、私のレンズが捉える世界は劇的に色を変えた。けれど、魂が震えるような崇高な経験をしたからといって、二十一歳の若造の銀行残高が増えるわけではない。

「……はぁ。お腹空いたな」

一人暮らしの狭い部屋に帰っても、冷蔵庫にあるのは期限の切れた納豆と、萎びたキャベツの芯くらいだ。今月の給料は、カメラ機材のメンテナンス代とレンズの分割払いにほとんどが消えていった。写真とは、つくづく金のかかる道楽であり、仕事なのだ。

その時だった。

「……あの、お嬢さん。ちょっといいかしら」

階段の踊り場で、不意に声をかけられた。

振り返ると、そこには妙に顔色の良い、ニコニコとした六十代後半くらいのおばちゃんが立っていた。

クリーム色のウールのコートに、首元からは小さなひまわりのチャームをぶら下げている。手には、パステルカラーの、どこか浮ついたデザインのパンフレットが数枚握られていた。

(出た。宗教勧誘だ)

反射的に体が拒絶反応を起こした。普段の私なら、スマートフォンの画面を見るふりをして逃げ去るか、「予定があるので」と事務的に断るところだ。けれど、その時のおばちゃん——佐藤さんは、私の胃袋の叫びを見透かしたように、慈愛に満ちた、いや、それ以上に「獲物を確信した猟師」のような眩しい笑顔を向けた。

「あなた、本当にお腹が空いている顔をしてるわね。そこにある角の定食屋さん、とっても美味しいのよ。もしよかったら、私に奢らせてくれないかしら」

「……奢り、ですか?」

私は立ち止まった。プロのカメラマンを目指す者として、見知らぬ人、ましてや宗教のパンフレットを持った人についていく危険性は理解している。けれど、その時の私にとって、佐藤さんの背後に見える定食屋の赤い暖簾は、砂漠の中のオアシスのように見えた。

「いいのよ、気にしないで。私、若くて頑張っている人を見ると、どうしても応援したくなっちゃうの。幸せのお裾分けだと思って」

佐藤さんの声は、驚くほど柔らかく、毒気がなかった。私は三秒ほど逡巡したが、「特上天丼」という魅惑的なワードが脳裏をよぎった瞬間、私の理性はもろくも崩壊した。

十分後、私は定食屋のカウンターで、揚げたての天ぷらが放つ香ばしい匂いに包まれていた。

目の前には、丼からはみ出すほど大きな海老が二尾、舞茸、南瓜、そして大葉。琥珀色のタレが艶やかにかかった特上天丼が鎮座している。

「さあ、遠慮しないで食べてちょうだい」

佐藤さんに促され、私は箸を取った。サクリ、という心地よい音と共に、海老の甘みが口いっぱいに広がる。空っぽだった胃袋が、歓喜の声を上げているのがわかった。

「……美味しいです。すごく」

「そうでしょう? 美味しいものを食べると、心に光が差すのよ。ねえ、お嬢さん、今、幸せ?」

佐藤さんは、私が天丼を頬張る様子を満足そうに見つめながら、ゆっくりとカバンから例のパンフレットを取り出した。表紙には『光の輪』という文字と共に、草原を駆ける家族のイラストが描かれている。

「私たちのコミュニティに入れば、どんな悩みも解決するのよ。金銭的な不安も、人間関係も、そして……不治の病だって治るわ。神様にすべてを委ねれば、死ぬのだって怖くなくなるの。それが本当の幸福なのよ」

「はぁ、そうなんですか。……この舞茸、肉厚でいいですね」

私は海老を咀嚼しながら、彼女のマシンガントークを右から左へと受け流していた。

佐藤さんの話は、聞けば聞くほど支離滅裂だった。神様に祈れば癌が消えるとか、多額のお布施をすれば来世での位が約束されるとか。現代社会の合理性とは対極にある、まやかしの言葉たち。

けれど、ふと彼女の「手」が視界に入った時、私の箸が止まった。

カウンターの下で、彼女の手は細かく、小刻みに震えていた。

必死に教えを説き、私を「幸せ」という名の檻に誘おうとするその言葉とは裏腹に、彼女の指先は、まるで崩れそうな自分自身を必死に繋ぎ止めているかのように、経典の端を白くなるほど強く握りしめていたのだ。

(この人、勧誘してるんじゃない。怯えてるんだ)

それは、誰かを騙して悦に入る詐欺師の震えではなかった。

逃げ場のない何かから、必死に目を背けようとして、それでも震えが止まらない。そんな、剥き出しの恐怖の残滓が、そこにはあった。

「……佐藤さん、でしたっけ。ごちそうさまでした。幸せになれるよう、努力してみます」

私は最後の一口を飲み込み、お冷やを飲み干すと、適当にあしらって店を出た。

「いつか、あなたのお家にも伺うわね! 待っててちょうだい!」と叫ぶ彼女の声を背中で聞きながら、私は少しだけ胸の奥がザラつくのを感じていた。

特上の天丼は確かに美味しかったが、後味には、彼女の指先から伝わってきたような、冷たくて鋭い「死への恐怖」の味が混ざっていた。

翌日、事務所に出勤してその話をすると、尾崎部長はコーヒーを淹れながら、呆れたような、けれどどこか心配そうなため息をついた。

「紬さん。あなた、いつか毒を盛られるよ。……特上天丼に釣られて宗教の門を叩くなんて、あまりにも不用心だ。せめて相手の身元くらい確認してから食べなさい。二十一歳にもなって、不審者についていく子供じゃないんだから」

「だって、本当にお腹空いてたんですよ。でも、あのおばちゃん、なんだか切羽詰まってる感じがしたんですよね。勧誘っていうより、誰かにすがりついてるみたいな……。あの震える手、思い出すとちょっと気になって」

村上先生が、老眼鏡をずらして私を見た。窓から差し込む朝の光が、先生の白髪を銀色に輝かせている。

「……紬さん。人はね、自分一人では抱えきれないほどの巨大な恐怖に直面した時、理屈じゃない何かに縋りたくなる生き物なんだ。それがたとえ、客観的にはどれほど滑稽で、まやかしに見えるものであってもね。……さて、そろそろ仕事の話をしようか。今日の往診先は、ご家族のケアも含めて、少し踏み込んだ対応が必要になるだろう」

尾崎部長が、無言でPCA(持続皮下注)ポンプの点検を始めた。カチカチという精密な駆動音が、事務所の空気を一瞬で仕事のそれに塗り替えた。

私たちは再び、あのシルバーのミニバンに乗り込んだ。

行き先は、昨日の定食屋からほど近い、古い平屋の住宅だった。

玄関脇には、手入れの行き届いた鉢植えが並んでいる。その静かな佇まいに、私はどことなく「昨日のおばちゃん」と同じ、必死に保たれた平穏のようなものを感じていた。

そして、玄関の引き戸が開いた瞬間、私の体は文字通り硬直した。

「あら! 昨日の……! 紬さんって言うのね! 凄いわ、やっぱり神様が導いてくれたんだわ! 運命よ、これこそが奇跡なのよ!」

そこにいたのは、パステルカラーの経典を胸に抱き、エプロン姿でボロボロと涙を流す、昨日の佐藤さんだった。

「……佐藤さん?」

「尾崎さん、先生! 主人の容体が、昨夜から急に……。でも、神様に特別なお祈りをしたから、きっと今日は良くなっているはずなんです! 私、信じているんです、奇跡が起きるって!」

佐藤さんは、必死に、狂信的な笑顔を浮かべていた。

けれど、その背後の奥の部屋から漂ってくるのは、神様の奇跡などではない。

幾重にも積み重なった、死期の近い肉体特有の、重く、甘く、それでいて鋭い「崩壊」の匂いだった。



 第二章:エビデンスと祈りの狭間

奥の六畳間は、昼間だというのに厚いカーテンが引かれ、わずかな隙間から差し込む西日が、浮遊する埃のダンスを無慈悲に浮き彫りにしていた。

そこに横たわっていたのは、昨日聞いた「神様の奇跡」という言葉が、あまりに虚しく響くほどに枯れ果てた老人の姿だった。

佐藤健一さん、七十歳。

大腸癌ステージ4。腹膜にまで無数に散らばった癌細胞は、彼の生命活動を内側からじわじわと、けれど確実に食い荒らしていた。結膜は黄色く濁り、重度の黄疸が出ている。肝機能の低下によるアンモニアの蓄積は、彼の意識を深い霧の向こうへと追いやっていた。

「……先生。昨夜は、主人が痛みにのたうち回って。……でも、私がこの経典を胸に当てて、光の輪を信じて必死に祈ったら、少し落ち着いたんです。やっぱり、お布施が足りていたんですね。神様が、主人の身代わりに痛みを持って行ってくださったんです」

佐藤さんは、縋るような、あるいは何かに取り憑かれたような目で村上先生を見つめた。

村上先生は何も言わず、健一さんの腹部をそっと触診した。腹水が溜まり、皮膚がはち切れんばかりに張っている。昨夜の痛みは、癌性腹膜炎による激痛だろう。祈りで治まるようなものでは、断じてない。医学的なエビデンスに基づけば、今この瞬間も、健一さんの体内では地獄のような炎症が続いているはずだった。

「……尾崎さん。準備を」

村上先生の短い指示に、尾崎部長は静かに頷いた。

その動きには、一切の迷いも、佐藤さんの宗教に対する軽蔑の色もなかった。彼は健一さんの枕元に跪くと、まるでお気に入りのレコードを扱うような繊細な手つきで、医療カバンからPCA(自己調節鎮痛法)ポンプを取り出した。

「佐藤さん、驚かせてすみません。少しだけ、ご主人の体を楽にするお手伝いをさせてくださいね」

尾崎部長の声は、低く、穏やかだった。それは不安に震える佐藤さんの心を、優しく包み込むような不思議な響きを持っていた。彼は健一さんの鎖骨の下、皮下組織がわずかに残る場所に、持続皮下注のための細い針を、痛みを与えない速度で刺入した。

「今、痛み止めの薬を入れ始めました。佐藤さん、これでご主人の呼吸が少しずつ深くなっていきますよ。あなたが一生懸命祈っていたことが、ようやく形になって届き始めるはずです」

尾崎部長がダイヤルの数値を微調整すると、数分後、それまで苦悶に歪んでいた健一さんの眉間の皺が、氷が解けるように消えていった。荒かった呼吸が、少しずつ、穏やかなリズムを取り戻していく。

「……ああ、見て! 健一さんの顔が楽そう! 先生、やっぱりこのパンフレットの効果だわ! 経典を置いた瞬間に効いたのね、奇跡が起きたのね!」

佐藤さんは、ポンプのスイッチを操作した尾崎部長の手元も見ずに、胸に抱いたひまわりの経典を高く掲げ、歓喜の声を上げた。その姿は、私には異様に映った。

(……尾崎部長、どうして)

私は、喉元まで出かかった言葉を必死に飲み込んだ。

今、健一さんを救ったのは科学だ。尾崎部長がミリ単位で調整した薬剤の投与量ドーズだ。それを、あんな胡散臭い教えの功績にされて悔しくないのか。私なら「これは薬の効果ですよ」と、冷たく突き放してしまいそうだった。

だが、尾崎部長は私の視線を制するように、優しく首を振った。

「佐藤さん。ご主人が今こうして穏やかになれたのは、あなたが片時も離れず、彼を救いたいと願い続けていたからです。その強い想いが、私たちの手を動かしてくれたんですよ」

尾崎部長の言葉は、嘘ではなかった。けれど、あまりにも寛容すぎた。

村上先生もまた、慈しむような顔で健一さんの脈を診ながら続けた。

「健一さんは、あなたの献身に心底安心しているようです。……さあ、紬さん。今のうちに、ご主人の表情を撮っておきなさい。彼が今、どれほど安らかな場所に辿り着いたか、記録してあげるんだ」

私は釈然としない思いを抱えたまま、重いカメラを構えた。

ファインダー越しに見える健一さんは、確かに凪の中にいた。けれど、その穏やかさは、何かを諦めたような、あるいはすべてを受け入れたような、深い「許し」を含んでいるように見えた。

シャッターを切る瞬間、私は気づいた。

健一さんの視線は、佐藤さんが掲げるパステルカラーのパンフレットなど一瞥もしていなかった。

彼は、それを必死に、震える手で握りしめる佐藤さんの、その不器用な「指先」だけを、愛おしそうに見つめ返していたのだ。

「……健一さん。あなたは、全部知っているんですね」

私は小さく、自分にしか聞こえない声で呟いた。

彼は、自分が死にゆくことも、妻が全財産を注ぎ込もうとしている愚かな行為も、全部わかっている。

それでも、彼がこの「嘘」を受け入れている理由。

それは、私のような若造が、昨日の特上天丼の味を思い出すような軽薄な想像力では、到底辿り着けない領域の話だった。


 

 第三章:レンズが見抜いた「安らぎの正体」

午後三時。

太陽が西に傾き、遮光カーテンの僅かな隙間から差し込む光が、部屋の空気を斜めに切り裂いていた。その光の筋は、健一さんの黄色く濁った肌を、まるで見せ物のように不自然なほど鮮明に照らし出している。

浮遊する埃の一つ一つが、光の中で激しく踊り、この部屋に溜まった「死」の重たさを視覚化しているようだった。

尾崎部長が管理するPCAポンプは、一定のリズムで微かな駆動音を立て続けている。

『カチ、カチ』というその機械音は、健一さんの毛細血管へ「安らぎ」という名の麻薬を送り込む、冷徹な秒読みのようにも聞こえた。健一さんは、もはや言葉を発する気力も残っていないようだったが、その瞳だけは、濁流の底に沈む石のように、驚くほど静かに澄んでいた。

「見て、紬さん。健一さん、今、笑ったわ。神様がこの部屋を光で満たしてくださっているのよ。ああ、お布施を追加して良かった……。私の祈りが、ようやく天に届いたんだわ」

佐藤さんは、恍惚とした表情で、もはや何度も読み返されて端がボロボロになった経典を胸に押し当てていた。

その姿は、私には異様に、そしてひどく危ういものに映った。愛する夫の死が秒読み段階に入っているというのに、彼女が見ているのは夫の顔ではなく、手の中にあるパステルカラーの冊子に書かれた、根拠のない福音ばかりだ。

その一節を唱えるたびに、彼女の家から、そして老後の蓄えから、大切なものが削り取られていく。

昨日、奢ってもらった特上天丼の代金さえも、彼女にとっては「徳を積むための出費」だったのかもしれない。そう思うと、胃の奥がキュッと締め付けられるような罪悪感がこみ上げた。

「……佐藤さん。健一さんの写真を、撮らせていただきます」

私は、喉の奥にこびりついた苦い砂を飲み込むようにして、カメラを構えた。

村上先生と尾崎部長は、部屋の隅でバイタルデータをチェックしながら、私に「場所」を譲ってくれた。二人の背中は、この異常な空間にあって唯一、冷徹な現実を繋ぎ止めるアンカー(錨)のように見えた。

私はファインダーを覗き、ピントを合わせた。

レンズのフォーカスリングを回すと、健一さんの細かな毛穴や、浮き出た血管、そして死を予感させる独特の肌の質感が、暴力的なまでの解像度で迫ってくる。

まず、健一さんの顔を狙う。

頬はこけ、顎のラインは鋭く尖っている。けれど、その表情は驚くほどに凪いでいた。

癌という病は、本来なら阿鼻叫喚の痛みをもたらすはずだ。村上先生の処方と尾崎部長の技術がなければ、彼は今頃、自分の体を掻きむしって叫んでいたに違いない。けれど、薬では消し去れないはずの「死への恐怖」さえも、彼の顔からは消えていた。

(なぜ、こんなに穏やかになれるの? まさか本当に、神様を信じているから……?)

私は構図を変えた。

健一さんの視線を追うようにして、カメラのレンズをゆっくりと下へ振る。

そこには、健一さんの痩せ細った、骨と皮ばかりになった手があった。かつては何かを形作り、家族を守ってきたであろうその大きな手は、今はただ、重力に抗うこともできずにシーツの上に投げ出されている。

そしてその手を、佐藤さんの、シワだらけで、今もなお細かく震えている手が、壊れ物を扱うような手つきで、ぎゅっと、痛いくらいに握りしめていた。

その瞬間、私の指が止まった。

健一さんの視線は、ずっと、そこにあった。

佐藤さんがどれほど荒唐無稽な教義を唱えようと、どれほど怪しいパンフレットを掲げようと、彼は一度もそれを軽蔑せず、否定もしなかった。ただ、自分を失いたくないと必死に足掻き、まやかしにさえ縋り付いて自分を繋ぎ止めておこうとする妻の「手」だけを、慈しむように見つめ返していたのだ。

私は、息を止めた。

ファインダーの中の世界が、一瞬だけ歪んで見えた。

佐藤さんが読み上げる空虚な経典。それ自体に意味はない。けれど、それを必死に信じようとして、涙を流しながら夫の手を握る、その「不器用な献身」こそが、健一さんにとっての唯一の救いになっている。

シャッターを切る。

『カシャッ』

乾いた金属音が、静まり返った部屋に、鋭い痛みのように響いた。

一枚。

二人の、繋がれた手のアップ。

パステルカラーの経典を握る手ではなく、互いの体温を、湿り気を、生きた証を確かめ合う、その皮膚の重なり。

二枚。

佐藤さんの、必死で滑籍なまでに妄信的な横顔と、それを見つめる健一さんの、すべてを許したような微笑み。

「……ああ、ダメよ。もっと神々しい顔をしていただかなきゃ。パンフレットに載るような、奇跡を体現したような、幸せに満ちたお顔を撮って!」

佐藤さんが焦ったように健一さんの枕元で声を張り上げる。その声は、もはや祈りではなく、自分を納得させるための悲鳴に聞こえた。彼女は、健一さんが「救われている」という証拠を、外側に、目に見える形に求めていた。そうしなければ、自分の全財産を注ぎ込んだ数ヶ月が、ただの愚かな浪費になってしまうからだ。

その時だった。

健一さんの指先が、ぴくりと動いた。

彼は残された力を振り絞るようにして、佐藤さんの、シワだらけの手を握り返した。

「……あっ」

佐藤さんが声を漏らす。

それは、言葉を介さない、彼なりの、最期の「答え」だった。

『いいんだよ、それで』

『お前のしたいようにしなさい』

『俺は、お前がそばにいてくれれば、それでいいんだ』

そんな声が、聞こえた気がした。

健一さんの沈黙の愛は、佐藤さんの狂信さえも優しく飲み込んでいた。

(違う。佐藤さん、違うんだ)

私はカメラを握りしめ、心の中で叫んだ。

健一さんを救っているのは、光の輪でも、ひまわりの経典でも、神様の慈悲でもない。

あなただ。

あなたが、そこにいてくれるから。

あなたが、自分を助けようと必死に、あまりにも不器用に、宗教なんかにまで縋ってまで、自分を愛してくれているから。

彼は、その「愛」という名の大きな嘘さえも、自分に向けられた真実として飲み込んで、安心して死に向かって歩いていけるんだ。

私は、佐藤さんの震える手から目を逸らせなかった。

その手の震えは、夫を失う恐怖に対する「弱さ」そのものだった。

けれど、健一さんの安らかな眠りを支えているのは、間違いなく、その「弱くて、不器用な手」そのものだったのだ。

私がこれまで撮ってきた写真は、被写体の「最高の一瞬」を切り取るためのものだった。

でも、今目の前にあるのは、最高に惨めで、最高に不器用で、けれど最高に美しい「嘘」の記録だ。

私は夢中でシャッターを切り続けた。

村上先生も、尾崎部長も、何も言わずに私を見守ってくれていた。

事務所で尾崎部長が言った言葉を思い出す。

『人はね、自分一人では抱えきれないほどの巨大な恐怖に直面した時、理屈じゃない何かに縋りたくなる生き物なんだ』

その「理屈じゃない何か」が、佐藤さんにとっては宗教であり、健一さんにとっては、その宗教に狂う妻そのものだったのだ。

夕闇が迫る中、私は最後の一枚を撮り終えた。

健一さんの瞳が、ゆっくりと、満足そうに閉じられた。

モニターに映る血圧の数値は、さらに低下を続けている。

けれど、この部屋を満たす空気は、一時間前よりもずっと澄んでいるように感じられた。


 

 第四章:本当の神様

二日後の夜、札幌の空には厚い雲が垂れ込め、街全体を湿った静寂が包み込んでいた。

坂口健一さんは、その静寂に溶け込むようにして、静かにその生涯を閉じた。

村上先生が瞳孔を確認し、臨終の時刻を告げる。

「……午後九時十二分。健一さん、よく頑張りましたね。お疲れ様でした」

先生の声は、凪いだ海のように穏やかだった。

尾崎部長は、無言で健一さんの胸元に手を置いた。それは、かつて数え切れないほどの命を死の淵から引き戻してきた、救急の最前線を生きた男の敬意だった。彼は慣れた手つきで、健一さんの体に繋がれたPCAポンプのラインを外し、最後のアフターケア——エンゼルケアを開始した。

「……健一さん、綺麗にしますね。佐藤さん、綿布を貸していただけますか」

尾崎部長の声はどこまでも優しかったが、その隣で、佐藤さんは泣き崩れるどころか、どこか異様な高揚感に包まれていた。彼女はボロボロになった経典を遺体の胸元に置き、手を合わせて何度も唱えている。

「……勝った。勝ったのよ。健一さんは、神様の奇跡で、苦しまずに天国へ召されたんだわ。昨夜、お布施をあと五十万追加したのが良かったんだわ。神様は見ていてくださったのね、私の真心が届いたのよ!」

その言葉を聞いた時、私の背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。

五十万。

佐藤さんが一人でコツコツと貯めてきたであろう、大切な生活の糧だ。それが、科学的な処置によって得られた「穏やかな死」の対価として、あんなパステルカラーのまやかしに吸い取られてしまったのだ。

「佐藤さん、それは……」

私が口を開こうとしたその時、玄関の引き戸が激しく開き、場違いなほど軽快な足音が廊下に響いた。

「いやあ、佐藤さん! 素晴らしい奇跡です! 健一さんのこの安らかなお顔こそ、我が教団の教えが真実であることの、何よりの証明ですよ!」

入ってきたのは、派手なネクタイを締め、これ見よがしに笑顔を貼り付けた男だった。教団の幹部だろう。男は健一さんの遺体には一目もくれず、佐藤さんの肩を叩き、その手にある通帳へと視線を走らせた。

「佐藤さん、彼をさらなる高み、極楽の最上階へ導くために、あと少しだけ『真心』が必要です。この安らぎを持続させるためには、残りの供養も大切ですよ。さあ、こちらに判を」

男は鞄から、これまたパステルカラーの契約書を取り出した。

佐藤さんは、震える手でそれを受け取ろうとした。彼女の瞳には、もはや夫の死さえも「奇跡」という名の商売道具にされていることへの不信感すらなく、ただ「この人を失いたくない」という恐怖を埋めるための代償を求めていた。

「……いい加減にしろ」

尾崎部長の声が、低い地鳴りのように部屋に響いた。

彼は、健一さんの死後処置を終えたばかりの清潔な手で、男の腕を静かに、けれど逃げ場のない強さで掴んだ。

「……あんたの言う『真心』のせいで、この人がどれだけの重圧に耐えてきたか、分かっているのか。……これ以上、この家で人の死を弄ぶなら、俺が不潔物として、あんたをここから排除するぞ」

尾崎部長の眼光は、鋭利なメスのように男を射抜いていた。男は一瞬怯んだが、すぐに鼻で笑い、私を指差した。

「何を言う。この娘だって、商売で写真を撮っているんだろう? 私たちと同じじゃないか。形のないものに価値を付けて、遺族を丸め込む。同業者だろ?」

その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かが真っ白に弾けた。

同業者?

冗談じゃない。ふざけないで。

この男は、今この瞬間も絶望の淵で溺れている佐藤さんの心を、ただの金蔓かねづるとして見下している。この家で、村上先生や尾崎部長が、どれほどの覚悟を持って健一さんの「痛み」を肩代わりしてきたか。そして佐藤さんが、どれほどの地獄のような恐怖に耐えながら、この怪しい紙切れに縋ってきたか。その「重み」のひとかけらさえも知らずに、よくもそんな言葉が吐ける。

私はバッグの底に隠していた、現像したばかりの写真を、震える手でひったくるように取り出した。

「佐藤さん。これ、これを見てください!」

私は男を突き飛ばすようにして、佐藤さんの前に膝をついた。畳に膝がめり込むのも構わず、私は彼女の、パステルカラーの経典を握りしめるその手に、無理やり写真を押し付けた。

「……何、これ。私の、手?」

佐藤さんが、呆然と写真を見つめる。

そこには、神様も、光の輪も、ひまわりの経典も写っていない。

ただ、癌に侵されて痩せ細った夫の冷たい手と、それを必死に、壊れそうなほど必死に温めようとする、妻の、シワだらけで節くれ立った、泥臭くて力強い「手」が写っていた。

「健一さんが最期まで見ていたのは……こんな、こんな怪しいパンフレットなんかじゃないんです! 神様なんかじゃないんです!」

私の声が、自分でも驚くほど震えていた。視界が急速に歪んでいく。喉の奥が焼けるように熱く、溢れ出そうになる感情が言葉を追い越していく。

「彼が痛みに耐えられたのは、薬のせいだけじゃない。佐藤さん……あなたが、あなたがずっと、手を離さなかったからなんです! 宗教なんかに騙されて、老後の貯金を全部奪われて、周りからどれだけ馬鹿にされたって、あなたは彼を救いたくて、ただ死なせたくなくて、必死に、必死に不器用に足掻いてきたじゃないですか!」

「お嬢さん……」

「健一さんはね、そんなあなたの『弱さ』も、『不器用さ』も、全部わかってたんです! あなたがあんな胡散臭い教えを必死に語るのを、彼はどんな気持ちで聞いていたか分かりますか? 否定もせず、ただ愛おしそうにあなたを見ていたのは、自分のためにそこまでボロボロになって寄り添ってくれる、あなたそのものが、彼にとっての救いだったからなんです!」

私はもう、止まれなかった。涙が頬を伝い、畳に大きな染みを作っていく。

佐藤さんの、恐怖に支配された数ヶ月。それを「奇跡」という安っぽい言葉で片付けようとする男への怒りと、何より、自分自身がこの数日間抱えていた「なぜこの人を救えないのか」という無力感が、一気に爆発していた。

「神様のおかげなんかじゃない! 佐藤さん、あなたが彼を幸せにしたんです! あなたが、彼を一人で死なせなかったんです! 神様に頼らなくても、あなたはもう、一人の妻として、最高の『施し』をしたんです! この写真は、あなたが彼を愛し抜いた、世界で唯一の、本当の証拠なんです! これ以上、これ以上あんな奴らに、あなたの愛を、お金で、汚させないでください……!!」

最後は、叫びに近かった。

私は佐藤さんの手を握りしめたまま、声を上げて泣いた。

二十一歳の、何の力もないカメラマン。医療のことも、本当の死の恐怖も、佐藤さんの半分も分かっていない未熟な自分。それでも、この写真の中に写った「真実」だけは、誰にも汚させたくなかった。

部屋の中は、私の号泣と、佐藤さんの荒い呼吸だけが響いていた。

幹部の男が「何をバカなことを!」と顔を真っ赤にして叫ぼうとしたが、その前に尾崎部長が立ちはだかった。

「……聞こえなかったか。もう、あんたの居場所はないと言っているんだ」

尾崎部長の目は、今までに見たことがないほど冷たく、けれど紬の言葉をすべて肯定するような温かさを湛えていた。村上先生もまた、静かに頷き、その沈黙で男を圧倒した。

男が忌々しそうに吐き捨てて出ていくと、部屋に本当の静寂が訪れた。

佐藤さんは、写真を胸に押し当て、私の手を、そのシワだらけの手で、壊れそうなほど強く、強く握り返した。

「……あ、……あぁ……。ごめんなさい……ごめんね、健一さん……。私、怖くて……あなたが消えちゃうのが怖くて……。あんなものに縋って……。でも、そうね……。私は、あなたの手を、握っていたかっただけなのね……」

それは、まやかしの救いではない、剥き出しの、一人の人間の慟哭だった。

佐藤さんは、ひまわりの経典を畳に落とした。

そこにあるのは、もう「狂信者」の姿ではない。

ただの、愛する夫を亡くした、一人の傷ついた女性の姿だった。

私は、泣きながら、それでも佐藤さんの手を離さなかった。

レンズ越しに見たあの日の光は、今、この部屋で本当の意味で、健一さんの魂を解き放ったのだと信じて。


 

 第五章:施しの終わり

一週間後。

札幌を覆っていた重い雲はどこかへ去り、街はようやす、本当の意味での春を迎えようとしていた。

街路樹の蕾は今にも弾けそうなほど赤らみ、ビルの影にこびりついていた黒ずんだ雪の塊も、昼間の陽光に負けて水たまりへと姿を変えていた。その水面を、冷たいながらもどこか柔らかな風が、細かなさざ波となって渡っていく。

『Terminal Links』の事務所の郵便受けに、一通の手紙と、ずっしりと重い箱が届いたのは、そんな日の午前中のことだった。

「……紬さん、宛先は君だよ。随分と重いな」

尾崎部長が、いつもの穏やかな手つきで荷物をデスクに置いた。

差出人の名前を見て、私は息を呑んだ。「佐藤」——あの、震える手で経典を握りしめていた彼女の名前だ。

震える手で封を切ると、そこには便箋一枚に、丁寧な、けれどどこか迷いが晴れたような力強い筆跡で言葉が綴られていた。

『紬さんへ。

あの節は、本当にありがとうございました。

あの写真は、仏壇の、一番健一さんの顔がよく見える場所に飾りました。

不思議ですね。経典を読んでいた時よりも、あの写真を見ている時の方が、健一さんがそばにいてくれるような気がするんです。

宗教は辞めました。あの人たちが言っていた「奇跡」はなかったけれど、あなたが切り取ってくれた「私の手」の中に、健一さんが遺してくれた本当の贈り物が詰まっていたことに気づけました。

私の救いは、神様じゃなくて、あの人のそばにいられたこと、そのものだったのですね。

あの日の天丼、図々しくも私から奢らせていただいたのに、さらにお返しをさせてください。本当の幸せが何か、少しだけわかった気がします。』

箱を開けると、そこには地元で評判の、創業百年を超える老舗の和菓子が整然と並んでいた。

一つ一つが丁寧に包まれ、桜の花びらを模した美しい意匠が施されている。天丼という「空腹への施し」が、彼女の真心によって、さらに重みのある「魂への施し」となって返ってきたようだった。

「……一本取られたな。特上天丼を奢ってもらったはずが、さらにもっと立派な菓子になって返ってくるとは。紬さん、お前、よっぽど佐藤さんに『本当の施し』をしたんだな」

尾崎部長が、いたずらっぽく目を細めて笑いながら、和菓子を一つ手に取った。

その眼差しは、あの日、桜の下で立ち尽くしていた私を叱咤した時よりもずっと近く、対等な「プロ」として認めてくれているような温かさに満ちていた。

村上先生も、淹れたての茶を運んできながら、穏やかに頷く。

「紬さん。君が撮ったのは、真実だったんだよ。……医療の力では、佐藤さんの心の穴を埋めることはできなかった。科学は痛みを消せても、死別という孤独までは消せないからね。でも、君の写真が、彼女に『自分自身が救いだった』という自信を与えた。……それは、我々医師や看護師がどれほど知識を積み上げても届かない、カメラマンにしかできない『治療』だったんだよ」

私は、デスクの上に置かれた自分のカメラに、そっと触れた。

金属の冷たさが、心地よく指先に伝わる。

レンズの向こう側にあるのは、光の当たった綺麗な世界だけじゃない。

死への恐怖に怯え、なりふり構わず怪しいものにまで縋り付いてしまう、人間の弱さ。

けれど、その醜いまでの「生の執念」をすべて飲み込んだ先にある、本物の、誰にも汚せない愛の輝き。

私は和菓子を一つ口に運んだ。

上品な餡の甘さが、鼻から抜ける桜の香りと共に、私の心の中に優しく広がっていく。

それは、あの日佐藤さんが奢ってくれた天丼と同じ、けれど少しだけ違う、本当の「救い」の味がした。

「……さて。次はどこへ行きましょうか。尾崎部長」

私は、新しいSDカードをカメラに差し込み、レンズキャップを外した。

事務所の窓から差し込む春の光が、埃のダンスを、今日はどこか祝福の吹雪のように美しく照らしている。

「……いい意気込みだ。行こうか、カメラマン。……君にしか撮れない、大切な『一瞬』が、またどこかで待っているよ」

尾崎部長が救急バッグを肩にかけ、村上先生が往診カバンを手にする。

私は、二人の広い背中を追いかけて、再び札幌の街へと踏み出した。

私のカメラは、今日、何を写すだろうか。

バッグの中で揺れるカメラの重みを感じながら、私は前を向いた。

『Terminal Links』。

死という終着駅ターミナルで、誰かの生を繋ぐ(リンク)物語は、まだ始まったばかりだ。


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