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5話 残響

  第一章:十二月の敗北

十二月中旬。札幌の街は大通公園のホワイトイルミネーションに彩られ、クリスマスムードに浮き足立っていたが、高橋家の居間は、それとは無縁の、淀んだ冬の午後の光に満たされていた。

「ほら、とめさん。お茶入ったよ。熱いから気をつけてね」

「ああ、悪いねぇ……」

高橋とめさん(九十二歳)は、使い古されたコタツに入り、娘が差し出した湯飲みを、震える手で受け取った。

私は、その光景から三メートルほど離れた壁際で、冷え切った一眼レフを構えていた。加賀美蘭さんの「最後のステージ」を完璧に記録し、あの遺影を完成させてから、私の視覚は、もはや制御不能なほどの解像度を手に入れていた。

(大丈夫。今日は、ただの往診の記録を撮りに来ただけ)

自分に言い聞かせながら、私はファインダーを覗き込む。

カメラの測距点が、とめさんの左の頬に吸い付くようにピントを合わせた。

(……あ)

その瞬間、私の指先が、機材の金属の冷たさに過敏に反応し、小さく跳ねた。

見えてしまうのだ。オートフォーカスが顔を捉えた瞬間、私の目には、家族の誰も、そして隣に座る村上先生さえも気づいていない「生命の綻び」が、ハイスピードカメラのような鋭さで飛び込んできた。

ファインダー越しに見るとめさんの唇は、うっすらと紫がかった、どす黒い影を帯びていた。蘭さんの、あの現像ソフトで何度も塗り潰した「土色」と同じ色だ。

(……お茶を飲む)

私のレンズは、吸い込まれるようにとめさんの喉元をクローズアップした。

プロのカメラマンが、最高の表情が弾ける「その瞬間」を待つように、私は彼女の筋肉の僅かな震えを凝視し続ける。

とめさんが、湯飲みに唇をつけた。

ごくり。

普通なら、一つの連続した動作として見逃されるはずの嚥下。けれど、私の目には、それがコマ送りのスライドショーのように映った。

(遅い)

喉仏が上がる。そこで、一度止まる。

本来ならスムーズに胃へと流し込まれるはずの液体が、喉の奥で迷い、彷徨っている。

首の皮膚が、薄い和紙を裏側から引っ掻いたように、不自然な形に引きつる。

(……ごくん、という『音』がしない)

次の瞬間、とめさんの肩が、ピクンと短く跳ねた。

彼女の表情が僅かに歪み、胸元が大きく波打つ。

「カハッ……」

それは、乾いた、それでいてどこか湿り気を帯びた、小さなむせ込みだった。

娘さんは「あらあら、お母さん、また焦っちゃって」と、朗らかに笑いながらとめさんの背中をさすっている。村上先生も、バイタルを確認しながら穏やかにその様子を眺めている。

けれど、私の耳には、その音が別のものに変換されて届いた。

あの日、源三さんの肺から溢れ出した、あの「死戦呼吸」の最初の一音。

(……あ、……あ……)

脳内の防波堤が、音を立てて決壊した。

真っ白な吹雪。

血の混じったピンク色の泡。

尾崎部長が源三さんの胸を叩き、骨が軋む鈍い音。

ファインダーの中のとめさんの顔が、一瞬、蘭さんの遺影と重なり、次の瞬間には源三さんの、あの虚無の瞳へと変貌する。

レンズが捉える情報の全てが「死」へと収束していく。

酸素が薄い。

手足の先から血の気が引き、指先の感覚が消失していく。

(撮らなきゃ。……いや、助けなきゃ。……でも、どうやって?)

カメラを構える手が、ガタガタと音を立てて震え始めた。

「死の兆候」が見えているのに、私は一歩も動けない。ただ、その崩壊のプロセスを、特等席から高画質で見学しているだけ。

「……紬?」

尾崎部長が、私の異変に気づいて立ち上がるのが視界の端に見えた。

けれど、私はそれに応えることができなかった。

ガシャン、と床で重い音が響いた。

私が落としたのは、レフ板代わりのアルミホイルではない。

私の唯一の武器であり、私を地獄へ繋ぎ止める鎖でもあった、重たいカメラ本体だった。

「……っ……!」

私は自分の口を両手で覆い、穏やかな往診の時間を、そして「見えすぎる現実」を拒絶するように、雪の降りしきる玄関へと走り出した。

背後で村上先生が私の名を呼ぶ声がしたが、耳には入らなかった。

凍てつく外気に飛び出した瞬間、肺が冷気で焼け付くような痛みを感じ、私は雪の上に崩れ落ちた。

冷たい雪が頬を刺す。

けれど、脳裏にこびりついた「唇の紫」と「死の音」は、どれほど凍えようとも消えてはくれなかった。

私は雪の中に顔を埋め、自分の無力さに吐き気を覚えながら、ただ震え続けていた。


 

 第二章:氷点下の対話

どれくらいの時間、そこにうずくまっていたのかは分からなかった。

肺に吸い込む空気があまりに冷たくて、呼吸をするたびに胸の奥を剃刀で削られているような感覚がした。

視界の端で、誰かが雪を踏みしめる音がした。

キュッ、キュッ、という重く、規則正しい足音。私は顔を上げることができなかった。雪に埋もれた自分の指先が、感覚を失って白くなっているのを、ただ他人事のように見つめていた。

「……いつまでそこにいる。そんなところにいたら、本当に凍えてしまうぞ」

低く、けれど先ほどまでの事務的なトーンとは違う、どこか湿り気を帯びた声。尾崎部長だった。

部長は私の隣に立つと、無理に抱き起こそうとはせず、ただ私と同じように冬の灰色の空を見上げた。

「……すみません。カメラ、……落としました。壊れたかもしれません」

私は震える声で、ようやくそれだけを口にした。

カメラを壊したこと以上に、あの場で動けなくなった自分への嫌悪感が、胃の奥から酸っぱい塊となって込み上げてくる。

「機械のことは気にするな。……紬。何が見えたんだ」

部長の問いは、雪の中に突き立てられた杭のように真っ直ぐだった。

私は顔を上げ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、冷たい手で拭った。

「……唇の色が。蘭さんの、死ぬ前の色と同じだったんです。喉の動きも、変で……。見たくないのに、レンズが勝手にそこをズームして、私に『死の予兆』を教えてくるんです」

私は雪を握りしめた。

「部長が言った通りでした。私が撮っているのは命の削りカスで……。私、源三さんの時もそうでした。予兆は見えていたのに、シャッターを切ることも、助けることもできなかった。ただ、高解像度で誰かが壊れていくのを見届けるだけの……悪趣味な観客なんです、私は」

吐き出した言葉は、白い霧となって消えていく。

私は、部長に「向いていない」と突き放されるのを待っていた。そう言ってもらえれば、この研ぎ澄まされすぎた視界から逃げられるような気がしたのだ。

けれど、部長は私の隣にどっかと腰を下ろした。高級そうなスーツのズボンが雪に濡れるのも構わず、私と同じ高さで、凍った景色を見つめた。

「……俺は、この仕事を始める前、救急センターのERで看護師をしていた」

部長は、記憶の底に沈んだ重たい蓋を、素手でこじり開けるように静かに語り始めた。

「ある夜、火災現場から一人の男の子が運び込まれてきた。八歳だった。全身三度熱傷……服が皮膚に溶け込み、全身が黒い炭のように焼けただれていた。一目見ただけで、助からないと分かる絶望的な状態だった。だが、残酷なことに……その子の意識だけは、最後まで驚くほどはっきりとしていたんだ」

私は息を止め、部長の横顔を凝視した。部長は、雪に濡れた自分の大きな掌を見つめていた。

「その子はね、必死に体を引き摺って、俺の手を握ろうとしたんだ。何かを伝えようとして、小さな喉を鳴らし、動こうとした。だが、焼けて炭化し、縮み上がった皮膚が全身を強固な鎧のように締め付けていて、指一本動かすことさえできない。無理に動かそうとすれば、突っ張った皮膚が裂け、さらに彼を苦しめるだけだ。自由にならない自分の体に閉じ込められたまま、その子はただ、目だけで俺に助けを求めていた」

部長の声が、微かに、本当に微かに震えた。

「俺は、点滴の針を刺す場所を必死に探した。だが、どこを触っても、感触は生身の人間じゃない。カサカサと乾いた、炭の塊だ。命がその内側で激しく燃え尽きようとしているのを、文字通りこの手で感じながら、俺は何もできなかった。ただ、その炭化した手の上から、自分の手を重ねて……その子が動かしたくても動かせない体の代わりに、俺の手が震えることしかできなかったんだ」

部長は、視線を空へと戻した。

「紬。お前が『見えすぎて怖い』と言うなら、俺は『触れすぎて怖い』。命に関わるっていうのは、そうやって救えない命の感触を、消えない刻印として自分の肌に増やしていく作業だ。お前だけじゃない。俺だって、今でもあの時の、炭が軋むような感触を思い出して、夜中に指先が凍りつくことがあるんだ」

部長の言葉は、冷たい雪の中に落ちた、温かい雫のようだった。

「……部長でも、怖いんですか?」

「ああ。怖いからこそ、準備をするんだ。怖くない奴に、人の命を預かる資格はないと俺は思う」

部長はゆっくりと立ち上がり、雪を払った。そして、脇に抱えていた私の一眼レフを、壊れ物を扱うように両手で差し出した。レンズフードには傷がついているけれど、その重みはまだ、失われてはいなかった。

「……今日はもう帰れ。先生には俺から言っておく」

部長はカメラを私に手渡した。冷たいはずのマグネシウム合金が、部長の手の熱を吸って、驚くほど温かかった。

「だが、三週間後。正月には、またとめさんのところへ行くぞ。家族が餅を食べさせたいと言っている。……それがお前の『リベンジ』だ。逃げるか、受けて立つか。それまでに、自分のその『目』と話し合っておけ」

部長は、私の肩をポン、と軽く叩いた。

「お前のその目は、呪いじゃない。命が発信しているSOSを受信できる、特別な才能だ。……待ってるぞ、紬」

部長はそれだけ言うと、私を置いて、ゆっくりと家の中へと戻っていった。

私は一人、手渡されたカメラを抱きしめた。

三週間。

その短い期間で、私はこの「高解像度の呪い」を、どうやって「力」に変えればいいのか。

答えは出ないまま、札幌の街には、さらに激しく雪が降り始めていた。

 

 

 第三章:空白の数週間

事務所に戻ってからの私は、まるで幽霊のようだった。

部長の配慮もあり、現場への同行を一切辞退し、デスクに積み上がった過去の記録写真を整理するだけの日々。

カメラを握ろうとすると、あの十二月の、とめさんの「紫の唇」がフラッシュバックする。ファインダー越しに世界を見ることが、誰かの死期を宣告する死神の行為のように思えてならなかった。

私は、現実から逃げるように、あるフォルダを開いた。

それは、以前の往診で立ち会った、ある独居老人の「死亡確認」の記録だ。

写真の中の部屋は、冬の午後だというのに、妙に暖かくて、無機質だった。

村上先生が聴診器を当て、時計を見て、静かに時刻を告げる。その背後で、私はただ記録のためにシャッターを切っていた。

当時の私は、それを「ただの仕事」だと思っていた。

けれど、今その写真を拡大してみると、当時の私さえ気づいていなかった「真実」が、残酷なまでの解像度で写り込んでいた。

死後数十分が経過した遺体の、肌の質感。

毛細血管から血の気が引き、皮膚が石膏のように乾燥していく、そのわずかな移行期。

村上先生が死亡を宣告する数分前、まだ「生きていた」はずのその人の指先が、すでに生命の熱を失い、どす黒く変色し始めていたことを、私のカメラは冷酷に記録していたのだ。

(……私は、知っていたんだ)

村上先生が診断を下すよりも早く。

家族が「死」を受け入れるよりもずっと前に。

レンズを通した私の「目」だけが、取り返しのつかない生命の破綻を、真っ先に察知していた。

それは特権などではない。

他人の終わりを、本人の意識よりも、医師の診断よりも早く知ってしまうという、あまりにも重すぎる「解像度の呪い」だ。

(……怖い。また見てしまうのが、怖い)

私は、防湿庫の奥に仕舞い込んでいたカメラを取り出した。

傷のついたレンズフードを指でなぞる。

部長があの子の炭化した手を握りしめた時、彼はきっと、絶望だけを見ていたわけじゃない。その子が「生きたい」と願って動かそうとした、皮膚の奥の微かな拍動を感じ取ろうとしていたはずだ。

部長は、その「触れる恐怖」を背負ったまま、今も現場に立ち続けている。

ならば、この「見えすぎる目」を授かった私に、できることは何だろうか。

判定して絶望するためではなく、その予兆の先にある「生」を掴み取るために、この解像度を使えるのではないか。

私は、三週間ぶりにシャッターを切った。

被写体は、窓辺に置かれた、枯れかけた観葉植物。

枯れて茶色くなった葉の縁に、極限までピントを合わせる。それは「死」の始まりではなく、そこまで栄養を運ぼうとした、植物の最後の抵抗の記録だ。

一月のカレンダーが、最後の一枚を告げていた。

外は再び、激しい雪。

私は、新調した予備のバッテリーをバッグに詰め込み、重いコートを羽織った。

明日、正月の往診。

そこには、お餅を囲む穏やかな家族の光景と、そして、誰にも見えない「死の影」がある。

逃げるためではなく、その「影」を光の下に引きずり出し、彼女を現世に繋ぎ止めるために。

私は、自分の「目」を信じてみることにした。


 

 第四章:沈黙の暗転

一月三日。

高橋家の居間は、ストーブの熱気と、どこか張り詰めた空気に包まれていた。

正月の往診。それは、急変のリスクが高まるこの時期、在宅医と看護師にとっては最も神経を使う仕事の一つだ。

「……やはり、先月の誤嚥ごえん以降、嚥下反射が一段と鈍くなっていますね。反射の遅延が顕著だ」

村上先生は、とめさんのカルテを手元のタブレットで確認しながら、落ち着いた声で言った。その隣では、尾崎部長が腕を組み、鋭い眼差しで娘さんの話を聞いている。

「ええ。ですから先生、今後は食事のトロミを一段階上げようと思うんです。それと、夜間の体位ドレナージの回数ですが、ご家族の負担を考えると……」

二人のプロフェッショナルは、とめさんのすぐ傍らにいながら、完全に意識を「これからの療養方針」へと向けていた。娘さんもまた、部長のアドバイスを必死にメモしており、彼らの視線はとめさんの「喉元」からは外れていた。

その少し後ろで、私は一人、畳に膝をついてカメラを構えていた。

傷のついたレンズフードが、私の視界を限定的な円形に切り取る。

ファインダーの中には、とめさんの横顔だけが、異様な密度で存在していた。

(大丈夫。私だけは、今この瞬間を見ていなきゃいけない)

三週間、私は「見る」ことだけを自分に課してきた。

オートフォーカスを切ったレンズのピントリングを、指先の感覚だけで回す。とめさんの頬の産毛、薄く開いた唇の乾き、その一つ一つが、私の網膜に情報の奔流となって流れ込んでくる。

「おばあちゃん、お餅だよ。お正月だからね。喉に詰まらないように、うんと小さく切ったからね」

娘さんが、自分を納得させるような、どこか祈るような声で言った。

割り箸の先で摘み上げられた、白くて粘り気のある小さな塊。

それがとめさんの唇に触れ、ゆっくりと口腔内へ吸い込まれていく。

その瞬間だった。

私の世界から、村上先生の理知的な声も、尾崎部長の専門的な解説も、すべてガラスを隔てた向こう側のように遠ざかった。

(……あ)

シャッターを切ろうとしていた人差し指が、凍りついたように止まった。

見えてしまったのだ。

餅を飲み込もうとした瞬間、とめさんの喉仏が、本来あるべき位置よりも数ミリ上でピタリと停止した。

上がったきり、下がってこない。

それは、悲鳴さえない、あまりに静かな暗転だった。

十二月の時のように、激しくむせ込む音はしない。

ただ、とめさんの視線が、焦点を見失ったように虚空を彷徨さまよい、瞳の奥に宿っていた微かな光が、ロウソクの火を吹き消すようにスッと消失した。

顔色が、瞬く間に変わる。

血の気のあった老人の肌色が、加賀美蘭さんが最期に見せた、あの生命の通わない「土色」へと一気に沈み込んでいく。

「おばあちゃん? 柔らかく煮たから大丈夫だよね」

娘さんは、まだ気づいていない。

次に運ぶ餅に目を落としながら、母の異変に気づかぬまま言葉をかけ続けている。

背後では、村上先生と部長が、まだ「脱水予防の点滴」についての協議を続けていた。

(……詰まった。止まってる。呼吸が、届いてない)

視界が歪みそうになるのを、私は奥歯を噛み締めて食い止めた。

一ヶ月前の私なら、ここでカメラを放り出し、パニックに陥っていただろう。

けれど今の私は、ファインダー越しに、とめさんの頸部が必死に異物を押し出そうとして、失敗し、音もなく痙攣している「事実」を、冷徹なまでに捉え続けていた。

この高解像度の目は、絶望を予言するためにあるんじゃない。

誰よりも早く、生命の綻びを見つけるためにあるんだ。

私は、愛機を静かに、けれど速やかに畳の上に置いた。

そして、これまでの人生で一度も出したことのないような、喉の奥を裂く叫びを上げた。

「――先生! 部長!! お餅、詰まってます!! 止まってます!!」

私の叫びが、事務所のような静謐せいひつな往診の空気を粉々に粉砕した。

村上先生の肩が跳ね、尾崎部長が、獲物を狙う猛禽類のような速さでこちらを振り向いた。

「なんだと!?」

部長がとめさんの顔を覗き込んだ瞬間、すでに彼は「看護師」の顔に切り替わっていた。

「村上先生、チョークサイン、チアノーゼ出てます! 紬、とめさんの背中を支えろ、前傾だ!」

怒号に近い指示に、私の体は反射的に動いた。

とめさんの細い、折れそうな背中を両手で支える。

部長がとめさんの背後から回り込み、みぞおちのあたりに手を回して、力強く、けれど的確な角度で突き上げた。

「ハイムリック、いきます!」

一回、二回。

部長の腕に力がこもり、とめさんの体が大きく揺れる。

家族の悲鳴が聞こえるが、部長の表情は微塵も揺るがない。

かつて救命の最前線で、震える指先で命の熱を追い求め続けたあの「手」が、今、確実に目の前の命を捉えていた。

「……ッ、ガハッ!!」

三度目の突き上げと同時に、とめさんの口から白い塊が飛び出した。

直後、激しい咳き込みとともに、彼女の肺に待ち望んでいた空気が一気に流れ込んだ。

「部長、SpO2モニターを! 紬、とめさんの指を貸せ!」

村上先生の指示を受け、部長が即座に小型のパルスオキシメータをとめさんの人差し指に差し込んだ。

ピピッ、ピピッ、という電子音が静まり返った居間に鳴り響く。

液晶に表示された数値は『78』。酸素を求めて、とめさんの肩が激しく上下している。

「数値低いな……。部長、酸素だ。フェイスマスクで5リッター開始!」

「了解。マスクつけました。酸素5L開始します!」

部長が迷いのない動きで酸素チューブを接続し、とめさんの口元を覆うようにマスクを装着した。シューという激しい酸素の噴出音が、絶望的な沈黙を上書きしていく。

「……はぁ、……はぁ、……あ……あ……」

パルスオキシメータの数値が、85、92、96と、ゆっくり、だが確実に戻っていく。

とめさんの瞳に、再び光が宿った。

土色だった肌に、じわじわと、けれど力強い赤みが差し込んでいく。

その劇的な変化を、私は一秒たりとも見逃さなかった。

部長の腕の中で、とめさんの命が、再び「残響」を奏で始めた瞬間だった。

私は膝をついたまま、震える手で、畳の上のカメラを引き寄せた。

部長の、まだ微かに震えている大きな手が、酸素マスクを固定し、とめさんの背中を優しく撫でている。

それは、かつて救えない運命をその掌に刻み込んだ男が、今、確かに掴み取った「生の感触」だった。


 

 第五章:残響(結び)

シューという酸素の噴出音だけが、居間の中心で規則正しく響いている。

パルスオキシメータの数値は98%で安定し、とめさんの胸は深く、静かに上下していた。

「……あ、ああ……よかった。本当によかった……」

張り詰めていた糸が切れたように、娘さんはその場に崩れ落ち、顔を覆って号泣した。その背中には、さっきまで母の命を自らの手で奪いかけたという、想像を絶する恐怖が貼り付いている。

処置を終えた尾崎部長は、膝をついたまま、ゆっくりと自分の両手を見つめた。

手袋越しに感じた、異物を押し出した時のあの重い手応え。彼は一度、深く、長く肺の底から息を吐き出すと、すぐさま「看護師」の顔に戻り、娘さんの隣へ這うように移動した。

「高橋さん。お母さん、もう大丈夫です。見てください、呼吸も落ち着いています」

部長の声は、先ほどの怒号とは打って変わって、驚くほど静かで温かいものだった。彼は娘さんの震える肩を、大きな手でしっかりと、それでいて優しく包み込んだ。

「ごめんなさい……。お正月だからって、私が無理に……。私が殺しかけたようなものです。本当にごめんなさい……」

「自分を責めないでください。お母さんに喜んでほしかったんでしょう? その気持ちは、お母さんにも届いています。……ほら、お母さんを見て」

部長に促され、娘さんが恐る恐る顔を上げた。

酸素マスクの向こう側で、とめさんは、まだ少し朦朧としながらも、娘さんの顔をじっと見つめていた。そして、しわがれた手をゆっくりと動かし、泣きじゃくる娘の手に重ねたのだ。

「……いいんだよ。……美味しかったよ……」

掠れた、けれど確かな意志を持った言葉。

その瞬間、部屋を満たしていた死の影は、完全に霧散した。

村上先生は、その様子を静かに見届けながら、とめさんの手首に指を当てて脈を診続けていた。

「……うん、いい脈です。高橋さん、今日はこのまま酸素を吸って休みましょう。僕たちもしばらくここにいますから、安心してください」

先生はそう言うと、持参したポータブルの聴診器でとめさんの肺の音を丹念に聴き始めた。餅の一部が残っていないか、吸入性肺炎の兆候はないか。その事務的で、けれど徹底した「日常の医療」の仕草が、パニックに陥っていた家族を、現世げんせへと着地させていく。

私は、その光景を少し離れた場所から、震える手でカメラに収めた。

ファインダー越しに見える世界は、もう私を脅かすだけの地獄ではなかった。

そこには、泣き疲れてとめさんの膝に顔を埋める娘さんの姿があった。

そこには、騒ぎを聞きつけて奥から出てきた親戚たちが、状況を理解し、互いに肩を抱き合う安堵の輪があった。

そして、酸素マスクのプラスチック越しに、少しだけ疲れた、けれど満足げに微笑むとめさんの姿があった。

カシャ、という乾いた音が、静かな部屋に響く。

それは蘭さんの時のように、死を覆い隠すための嘘ではない。

源三さんの時のように、絶望を焼き付けた真っ白な空白でもない。

死の瀬戸際から戻ってきたばかりの、泥臭くて、生々しくて、それでいて圧倒的な「生の証明」だ。

「紬さん。今の、いい写真だったね」

村上先生が、振り返って微笑んだ。

私は何も答えず、ただモニターに映し出された画像を確認した。

そこには、とめさんの指に付けられたパルスオキシメータの赤い光も、顔を覆う酸素マスクのバンドも、そして散らばった割り箸や、処置に使われた脱脂綿のゴミさえも、すべてが余さず写り込んでいた。

かつてなら「不浄なノイズ」として消し去りたかったそれらは、今や、彼女がこの世界に踏み止まっていることを証明する、最も愛おしい「生命の目印」に見えた。

小一時間ほどして、とめさんの容態が完全に安定したのを確認し、私たちは高橋家を後にした。

玄関を出ると、札幌の空を覆っていた重い雪雲が、僅かに割れていた。

凍てつく夜気にさらされた頬が、心地よく痛む。

「……部長」

車へ機材を積み込みながら、私は隣に立つ部長に声をかけた。

「私、これからも撮り続けます。死の予兆も、命の削りかすも……全部、目を逸らさずに」

部長はコートの襟を立て、視線を真っ直ぐ前に向けていた。

「……そうか。重いぞ、そのバッグは」

「はい。でも、この重さが、私が生きている誰かを見届けたっていう『証』なんだと思います。部長の、あの時の手の重さと同じように」

部長は鼻で小さく笑うと、私の肩を一度だけ、強く叩いた。

「好きにするといい。ただし、次はカメラを落とすなよ。メンテナンス代は、給料から引くからな」

「……はい!」

走り出した車の窓の外、街灯に照らされた雪の結晶が、ダイヤモンドのようにきらめきながら舞い落ちてくる。

私の視界は、かつてないほどクリアだった。

これから先も、私はファインダー越しに、誰かの終わりの予兆を見てしまうだろう。そのたびに、足が震え、逃げ出したくなる夜も来るに違いない。

けれど、私にはもう分かっている。

この「高解像度の目」は、誰かの絶望を予言するためにあるのではない。

消えゆく命が放つ、最後の、そして最も力強い「残響」を拾い上げ、一秒でも長く、この愛おしい世界に繋ぎ止めるための、私だけに与えられたバトンなのだ。

バッグのストラップが、心地よく肩に食い込む。

私は、雪の降る札幌の夜に、もう一度だけ、深く、深く呼吸をした。


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