第7話:遠ざかる背中と胸の迷い(前編)
今朝の2階男子トイレでの大騒動——浅美が大樹に目撃され、光と凛に囲まれていた奇妙な状況——は、本来なら気まずいドタバタ劇の幕引きとなるはずだった。しかし、自虐的でネガティブ思考が極まる浅美サイジョウにとって、問題はそう単純ではなかった。数学の授業のチャイムが鳴り、人がそれぞれの教室へと戻った後も、清陵高校を包む重苦しい空気は容赦なく浅美に襲いかかった。
トイレから戻る廊下は、いつもよりずっと長く感じられた。1-Bや1-Cの教室の前に立つ生徒たちの視線が、浅美の動きを追う。好奇心と悪意の混ざった噂話が、耳障りな羽音のように刺さってくる。
「見なよ、今朝グループラインで話題になってた西条だろ?」
「本当にあいつが昨日、話さんと相合い傘してたの? 顔も地味だし、冴えない雰囲気じゃん」
「あり得ないでしょ。バスケ部主将の涼太先輩だって苦戦してるのに、なんであんな奴が話さんの取り巻きに入ってんの?」
浅美は深くうつむき、左肩の鞄のストラップを強く握りしめた。周囲の言葉が、彼自身の劣等感を証明する刃となって突き刺さる
(みんなの言う通りだ……)
浅美は胸の奥の激痛に耐えながら、心で身もだえした。
(僕はただの1-Aのモブ生徒だ。涼太先輩みたいな運動神経も、カリスマ性も、誇れるものなんて何一つない。あの写真が出回り続けて噂がもっと酷くなったら、傷つくのは僕だけじゃない……これまで無傷だった光の清らかな評判まで台無しになる)
1-Aの教室に入ると、ざわついていた室内が一瞬だけ静まり返った。何人かのクラスメイトが会話を止め、探るような視線を向けてくる。浅美はその変化に気づかないフリをして、慌ただしく廊下側の窓際一番後ろの席へ向かった。モブキャラクターにとって最高の避難場所だ。
木製の椅子に腰を下ろし、両肘を机について顔を覆った。隣の席から、吉田大樹が椅子を少し引き寄せてくる。普段の悪戯っぽいニヤニヤ顔は消え、本気の心配そうな表情を浮かべていた。
「浅美……」大樹はシャーペンの先で浅美の机をトントンと叩いた。「大丈夫か? その……さっきの男子トイレでの前代未聞の事件の後さ。顔色が朝食を食べ忘れたゾンビみたいに真っ青だぞ」
浅美は顔から手を外し、重いため息をつきながら椅子の背もたれに体を預けた。
「大丈夫だよ、大樹……ただ、ちょっと息苦しいだけだ」
「嘘つけ」大樹は周囲に聞こえないよう声を潜めた。「お前の性格はよく知ってる。鉛筆の握り方一つで、頭の中でネガティブな壊れたテープが再生されてるって分かるんだよ。今朝の涼太先輩の威圧的な言葉をまだ引きずってんだろ?」
浅美は太ももの上で拳を握りしめた。窓の外へ視線を向けると、秋風に吹かれて校庭の枯れ葉が舞っていた。
(引きずらないなんて無理だ……。涼太先輩は堂々とした自信に満ちていて、僕の机の横に立って、僕が一番恐れていた言葉を叩きつけてきたんだ。
『身の程を知れ……自分のエゴのために、彼女を自分のレベルまで引きずり下ろすな』って。
あれはただの脅しじゃない。光が僕に微笑みかけてくれた時から、僕が必死に目を背けてきた苦い現実なんだ)
「涼太先輩の言ってることは……正論だよ、大樹」浅美は溢れ出そうになる感情を抑え、震える声で呟いた。
「話さんは僕たちとは違う世界の人だ。スポットライトの当たる華やかな舞台に立ち、みんなから愛されるヒロインだ。それに比べて僕は……正式なチケットすら持ってない、一番後ろの立ち見席の観客に過ぎないんだよ」
大樹は呆れたように目を丸くし、自分の額を派手に叩いた。
「おいおい、数学の授業中にその絶望のポエム癖を出すなよ!」大樹は焦れったそうに囁いた。
「ちょっとは幸せな脳みそを使えって! トイレでのこと見ただろ? 話さんはお前が大丈夫か確かめるためだけに男子トイレにまで突撃してきたんだぞ?! 心底心配してなきゃ、あんな洗剤の匂いのする場所に入ってくるかよ!」
「でも、それは間違ってるんだ、大樹!」浅美は声を荒げそうになり、慌てて抑えた。
「話さんのその勇敢さは、彼女が純粋で優しすぎる証拠なんだよ! 彼女は長期的なリスクを考えてない。
僕みたいな奴を庇い続ければ、涼太先輩たちバスケ部ファンがもっと酷い噂を流すことになる。話さんの優しさのせいで、彼女自身が傷つくのを黙って見てなんていられない!」
(本当に彼女を大切に思うなら……昨日雨の中で傘を分け合ったあの甘い思い出を大切にしたいなら、身の程を知る人間として僕が引くべきなんだ)
胸が苦しく締め付けられる。
(境界線をはっきり引こう。彼女は高い場所で輝く星のままでいてもらう。僕の陰気な影で彼女を汚させたりはしない)
「お前、本気で勘違いしたヒーロー気取りのバカだな」大樹は呆れて首を振った。
「引き下がることが彼女を守ることだと思ってんのかもしれないけど、お前が急に冷たくなって他人みたいに接したら、話さんがどう思うか考えたことあんのかよ?」
浅美は凍りついた。大樹の言葉は、彼の心の最も柔らかい部分を突いていた。しかし、光の将来の足枷になることへの恐怖は、自分自身の決断による痛みよりも遥かに大きかった。
「僕はただ、彼女に無事でいてほしいだけなんだ……それだけだよ」
先生が黒板の板書を叩いたのを機に、浅美は会話を打ち切った。
数学の授業が終わり、昼休みのチャイムが鳴るまでの間、浅美は二度と口を開かなかった。その心の中で、一つの苦くて臆病な決断が固まっていた。
昼休みになったら、話光から距離を置こう、と。




