第5話:相合い傘と夏の雨の香り
清陵高校のロータリーの屋根を叩く雨音が、激しく響き渡っていた。さっきまで晴れていた夕空はあっという間に漆黒の雨雲に覆われ、激しい土砂降りとなって多くの生徒たちを昇降口に足止めさせていた。
浅美はテラスの隅に立ち、鞄の中身を確認しながら静かにため息をついた。
(あーあ、折りたたみ傘、忘れたな……)
雨が止むまで待つしかないと覚悟を決める。それはつまり、すっかり日が暮れてからの帰宅になることを意味していた。
「浅美くん、まだ帰ってなかったの?」
聞き覚えのある柔らかい声が近くから聞こえた。浅美が振り返ると、そこには淡いピンク色の折りたたみ傘を手にした光が立っていた。
「あ、話さん……」浅美は気まずそうに答えた。
「うん、傘を忘れちゃって。雨が弱まるまで待とうと思って」
光は激しさを増す雨を見つめ、それから口元に小さな笑みを浮かべた。迷うことなく折りたたみ傘を開き、浅美へと一歩歩み寄る。
バサッ。
「弱まるの待ってたら、夜になっちゃうよ?」光は可愛らしく言いながら、傘を少し浅美のほうへ傾けた。「一緒に帰ろ。バス停まで、この傘に入っていこ?」
浅美の顔が一気に熱くなった。
「え、ええっ?! いいよいいよ、話さん! その傘、ちょっと小さめだし、僕と一緒に入ったら話さんが濡れちゃうよ」
「濡れないよ。浅美くんが私にピッタリくっついてくれればね」光はあっけらかんと答え、肩が触れ合うほど距離を詰めてきた。「それとも……私と一緒に歩くの、嫌?」
澄んだ茶色の瞳が、断るのが難しいほどの懇願を込めて浅美を見つめてくる。
「つ、嫌なわけじゃないけど……」浅美は降参した。
「わ、分かった。僕が傘を持つよ」
浅美は光の手から傘の柄を受け取り、清陵高校の正門へ向けて雨のカーテンの中へと踏み出した。
二人で入るにはギリギリのサイズの折りたたみ傘だったため、浅美は反射的に傘を光のほうへ多めに傾けた。自分の右肩が雨でびしょ濡れになっていくのなど気にも留めず、隣の少女に一滴も雨がかからないことだけを意識していた。
しかし、光はそれに気づいていた。バス停へ向かう途中、光は突然足を止めた。
彼女は浅美の制服の袖をつかむと、両腕を彼の腕に絡め、自分の体をぴったりと浅美へ引き寄せた。
ドクン! ドクン!
浅美の心臓が胸から飛び出しそうになった。腕に伝わる光の体温の感覚に、思考が真っ白になる。
「は、話さん?!」真っ赤になった浅美は立ち尽くした。
「ほらやっぱり。浅美くんの肩、濡れてるじゃん」
光は小さく呟き、パニックになる浅美の顔を見上げた。
「だから、無理しないでってば。こうやってくっついて歩けば、二人とも濡れないでしょ?」
「だ、だってこれじゃ……」
浅美は視線をどこへ向ければいいのかすら分からなくなった。雨に濡れた土の匂いと混ざり合う光の甘い香りが、ピンク色の傘の下で幻想的な空間を作り出している。
光は浅美の腕を強く抱きしめたまま、彼の肩にちょこんと頭を預けた。
「少しだけ……バス停に着くまでこうさせて? 温まりたいの」
浅美の体温を感じながら、光の唇には勝利を確信したような甘い笑みが浮かんでいた。
◇
荒れ狂う鼓動を抱えたまま、静寂の中で歩みを進める。小さなピンクの傘の下、雨の匂いと光から漂う桜のような甘い香りが混ざり合い、僕の意識を浮遊させた。
(嘘だろ……夢でも見てるのか?)
心の中で悲鳴を上げる。僕みたいな陰キャが、学校一の美少女と一つの傘に入り、腕を組んでぴったり密着して歩いているなんて。もし夢なら覚めないでくれ。
あまりの緊張に足元が狂い、滑りやすい歩道のタイルで躓きそうになった。なんとか体勢を立て直し、二人で水たまりへ倒れ込む事態は免れた。
「浅美くん……」
雨が小降りになり始めた静けさの中、光が静かに僕を呼んだ。
「なに、話さん?」
声が裏返らないよう必死に答える。
緊張で喉はカラカラで、顔を横に向けたらあまりの近さに気絶してしまいそうだった。
光は少し顔を上げ、澄んだ瞳で僕の表情を探るように見つめた。
「私とこうやって人前で歩くの……迷惑じゃ、ない?」
その質問は、どこか不安げな響きを含んでいた。いつも自信満々で楽しそうな彼女からは想像もつかない声だった。
濡れた歩道を照らす街灯の光を見つめながら、一瞬だけ胸の奥の劣等感が囁いた。お前なんかが彼女の隣にいていいのか、と。
だが、彼女の瞳にある純粋な光を見た瞬間、そんな迷いは一吹きで吹き飛んだ。
「迷惑なんかじゃないよ、話さん」
思った以上にきっぱりとした声が出た。
「迷惑どころか……僕には、出来過ぎた夢みたいだよ」
光の唇がパッと上がり、今まで見た中で一番眩しい笑顔が咲いた。
「よかった」
光は嬉しそうに囁き、逃がさないとばかりに僕の腕を一層強く抱きしめた。
やがて緑の屋根のバス停が見えてきた。雨はすっかり上がり、木の葉から雫が落ちる静かな夕暮れが広がっていた。
濡れていないバス停の屋根の下に入ると、光はゆっくりと腕を離した。体温が離れた瞬間、急に肌寒さを感じて少し寂しくなる。
「あ、バスが来るまであと10分くらいあるね」光が時刻表を見て微笑んだ。
「少し体を乾かしながら待とうか」
「うん」
僕はポケットからハンカチを出し、濡れた右肩を拭いた。光は僕の濡れた服を見て、少し怒ったように、でも愛おしそうに目を細めた。
「ほら見なさい! 私を庇って自分の肩を濡らすからだよ! 浅美くんが風邪引いたら、明日誰が教室の隅で私と一緒にご飯食べてくれるのさ?」
フィルターのない、当たり前のようなその言葉。
(僕と一緒にご飯を食べるのが……当たり前になってるんだ)
胸が熱くなる。
「だ、大丈夫だよ。僕だって男なんだから、女の子を雨から守るくらい……」
口を滑らせてしまった。
(待て、男が自分の女の子を守る……?! 何を言ってるんだ僕のバカ!!)
恥ずかしさのあまり爆発しそうになり、顔を真っ赤にして口を噤んだ。
光は一瞬目を見開き、それから頬をぽっと色に染めた。恥ずかしそうに鞄のストラップをいじりながら、下唇を噛む。
二人の間に甘い静寂が流れた。やがて光が顔を上げ、とびきり愛らしい笑顔を僕に向けた。
「じゃあ……これからずっと、私を守ってね。浅美くん」
その言葉が、僕の胸の奥に残っていた最後の迷いを完全に打ち砕いた。
雨上がりの夕暮れの中、僕は彼女の茶色の瞳を真っ直ぐ見つめ、深く頷いた。
「うん……約束する」
やがてやってきたバスのエンジン音が静寂を破り、僕たちの新しい物語を乗せて走り出したのだった。




