第4話:本棚の間の境界線(ライン)
翌日、清陵高校の図書室。ガラス窓を通り抜けてくる夏の風のささやきが、この日の午後に聞こえる唯一の音だった。
古びた紙の匂いと、特徴的な床のワックスの香りが部屋を満たしている。
浅美は歴史書の棚の近くに立ち、再整理するために分厚い本棚の列に手を伸ばしていた。今日の図書委員の当番は、いつも以上に胸が高鳴るものだった。
積み上がった本の重さのせいではない。隣にいる少女の存在のせいだ。
話光——学校の宝石と呼ばれる少女が、浅美の隣で小さく背伸びをし、一番上の棚にある青いカバーの小説を取ろうと苦戦していた。清陵高校の制服の裾が少しめくれ、彼女の華奢な体が露わになる。
「う~っ……あとちょっと……」
光の苦戦する姿を見て、浅美は反射的に動いた。後ろから近寄り、右手伸ばしてその小説を手に取る。
しかし、浅美は距離感を計算し忘れていた。
本を掴んだ瞬間、二人の位置は息が詰まるほど急接近していた。光の背中が、浅美の胸にぴったりと触れそうな距離。光の髪から漂う桜のような甘い香りが、浅美の嗅覚をくすぐる。
光が素早く振り返った。二人の顔の距離は、ほんの数センチしかなかった。
ドクン!
浅美の心臓が一瞬で止まりそうになる。光の澄んだ茶色の瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。頬に彼女の温かい息遣いを感じる。
「あ、あ……ごめん! 僕、本を取るのを手伝おうとしただけで……!」
浅美は死ぬほどパニックになり、慌てて後ずさろうとしたが、足が本棚の角に引っかかってしまった。
「危ない、浅美くん!」
光が咄嗟に浅美の腰を支えた。離れるどころか、倒れないように正面から抱きすくめられる形になり、体勢はさらに気まずいものとなる。
数秒間、完璧な静寂が二人を包んだ。浅美は凍りつき、息をすることすらできない。
しかし、嫌がるどころか、光はくすっと優しく微笑んだ。一番甘い悪戯っぽい笑みを浮かべ、抱きしめる手を緩めようともせず、さらに顔を上げて浅美を見上げる。
「浅美くん……知ってる?」
光は甘くゾクゾクするような声で囁いた。
「そんな風に焦ってる顔、すごく可愛いよ」
「は、話さん……ここ、図書室だから……誰かに見られちゃう……」
恥ずかしさのあまり声が出なくなりそうな浅美。
「ふーん? それがどうしたの?」
光は少し首を傾げ、目を悪戯っぽく輝かせた。
「だって、この棚の陰には私達しかいないもん。誰も見てないよ」
光はようやく手を離したが、靴の先が浅美の靴に触れるほど一歩近づいた。浅美の持つ青い小説を見つめ、それから再び少年を見つめる。
「本、取ってくれてありがとう」
光は柔らかくお礼を言った。手を伸ばして本を受け取る際、彼女のしなやかな指先が、故意に浅美の甲を優しく撫でた。
「お返しに……当番が終わったら、窓際の席で一緒に本を読んでくれる? 二人きりで」
浅美は重く唾を飲み込んだ。気まずさ、激しい鼓動、そして小さな幸せが混ざり合う。二人の関係にはまだ特別なラベルなんてないし、自分は相変わらず不釣り合いだと感じてしまうけれど、光の近くにいるこの時間は人生で最も美しい瞬間だった。
「う、うん……読むよ、話さん」
浅美の答えを聞いて、光の笑顔は一層花開いた。満足そうに頷くと、彼女は優雅に翻し、二人がいつも当番の時間を過ごす部屋の隅の読書テーブルへと向かっていった。
一方、浅美は歴史書の棚の通路で固まったまま、飛び出しそうな左胸を押さえて彼女の背中を見つめていた。指先が触れ合った手が熱く、不思議で心地よい感覚が残っている。
(くそっ……こんなこと続けられたら、本当に心臓が止まっちゃうよ……)
浅美は真っ赤な頬を軽く叩きながら心の中で毒づいた。
深呼吸をして鼓動を整えた後、残りの本を整理してカウンターへ運んだ。光の手際が良かったこともあり、当番の仕事はすぐに終わった。
約束通り、掃除用具を片付けると光はすぐに駆け寄り、浅美の制服の袖を引っ張った。
「終わったね! 行こう、浅美くん!」
光は楽しそうに、緑のグラウンドを見渡せる大きな窓際の長テーブルを指さした。
夕暮れの温かい日差しがガラスを通り抜け、彼女の茶髪に金色の輝きを映し出す。二人は隣り合わせで座った。肩が触れ合いそうなほど近い距離だ。
光が例の青いカバーの小説を開く。タイムトラベルを題材にしたファンタジー小説だった。
「この本、読んだことある? 浅美くん」
「ないよ。僕は歴史書やミステリーが多くて、こういうライトなのは珍しいかな」
「じゃあ、一緒に読もうよ! 過去をやり直す機会を得た人の話で、すごく面白いんだから」
(過去をやり直す機会、か……)
(もしやり直せるなら、影のままでいて、図書室でこの子とぶつからない道を選ぶかもしれない。……ううん、やっぱりそんなの嘘だ)
光はテーブルの中央に本を置き、ページをめくり始めた。浅美は彼女が作り出す穏やかなリズムに身を任せた。
最初は文字に集中しようとしたが、次第に意識が逸れていく。隣で囁くように本を 読む光の声が、どんなストーリーよりも美しく聞こえたからだ。
「浅美くん、ここすごくおかしいよ。読んでみて」
光が指先で紙面を指し、顔を近づけてくる。再び桜の香りが鼻腔をくすぐった。
「う、うん……見てるよ……」
章の半ばに差し掛かる頃、光の声が次第に小さくなっていった。なめらかだった音読が途切れ途切れになる。光の頭が舟を漕ぎ始めた。図書室の心地よい涼しさと当番の疲れが、彼女に強い眠気を連れてきたらしい。
すとん。
不意に、光の頭が傾き、浅美の肩へと優しく預けられた。
浅美は瞬時に硬直した。手の中の本を落としそうになる。息を呑みながら隣を盗み見ると、長いまつ毛を微かに揺らし、安らかな寝顔を見せる光の姿があった。
(え……僕の肩で寝てる……?!)
を起こしてしまわないよう、身動き一つ取れない。もし誰かが入ってきたら大変なことになる。
だが、一瞬だけ周囲の世界が消え去った気がした。クラスメイトの噂も、リョウタの影も、自分の劣等感も。
あるのは、静かな放課後と、一冊の青い小説、そして自分の肩に安心して体を預けてくれる学校の宝石だけ。
浅美は静かに息を吐き、無意識に小さく微笑んだ。光がもっとに眠れるよう、少しだけ体勢を低く調整する。そして空いた手で、彼女の額にかかる髪を優しく払った。
(僕のな世界は……もう灰色じゃないのかもしれない)
胸の中で高まる夏の温もりを感じながら、浅美は静かに目を閉じたのだった。
初めまして、プトラ_SP13(Putra_SP13)です!
数ある作品の中から『かけがえのない宝石にたどり着く、僕の旅の物語』に目にとめていただき、ありがとうございます。
【※読者の皆様へ(お知らせ)】
本作品は、インドネシアの著者が執筆したオリジナル小説を日本語に翻訳してお届けしている作品です。
カクヨムおよび「小説家になろう」にて同時に連載を行っております。
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