第9.1章:祭りのあとに、小さな約束を : 中編 : 門前の境界線と残された笑顔
二人の足取りは、話家の敷地を囲む漆黒の鋳物フェンスの前でついに止まった。道中を照らしていた黄色い街灯の光に代わり、今度は邸宅の玄関ポーチに灯る温かな電球色が、綺麗に敷き詰められたアプローチのアスファルトを優しく照らし出している。高級住宅街の夜気は、先ほどまでの川沿いに比べてはるかに静寂に包まれていた。聞こえるのは、庭の植え込みで鳴く秋虫の声と、風にそよぐモミジの葉擦れの音だけだ。
指を絡め合わせて誓った約束が解けたあとも、朝陽と光はその場を離れようとはしなかった。終わりを迎えた忘れられない一日を前に、二人だけの甘い名残惜しさが夜気に溶け込んでいく。
光はフェンスに背を預け、門柱の横で両手をバッグの前でぎゅっと握りしめた。風に冷やされた頬の赤みと、胸の高鳴りを映す澄んだ茶色の瞳が、街灯の下で美しく揺れていた。
「着いちゃったね……」
光は名残惜しそうに呟いた。朝陽はリュックのストラップを握り直し、ゆっくりと頷く。
「うん。着いたね。……光、早く中に入って休んだ方がいいよ。水族館から川岸まで、今日は本当にたくさん歩いたから」
「えー? 誰が疲れたって?」光は語気を強めて口を尖らせた。
「これでもチア部だよ? 駅からの道のりなんて、普段の練習に比べたら全然平気なんだから!」
朝陽はくすりと笑った。
「でも、歩いてるとき何度もあくびしてただろ?」
「うっ……それは夜風が気持ちよかったからで!」光は顔を赤くして弁明したものの、すぐに悪戯っぽく微笑んだ。
「それに……朝陽くんが昨日から私をドキドキさせるから、眠れなかったんだよ?」
ドクン、と朝陽の心臓が跳ね上がった。
(この子は……どうしてこうも無防備に、人を慌てさせる言葉を言えるんだ……!)
朝陽が必死に動揺を隠そうと視線を泳がせていると、光はくすくす笑いながら、朝陽のすぐ目の前まで一歩足み寄った。その瞳が、真剣で深い光を帯びる。
「朝陽くん……月曜日からの学校、私を避けて通り過ぎたりしない……?」
声の裏に潜む小さな震え。学校一の有名人で、いつも明るく振る舞う光が見せたその脆さに、朝陽の胸がギュッと締め付けられた。過去の傷や噂を恐れる自分を見せつけられてきた彼女だからこそ、この幸せな時間が幻になることを恐れているのだと悟った。
朝陽は深く息を吸い込み、逃げずに光の瞳をしっかりと見つめ返した。
「絶対にしないよ、光」朝陽は言葉に力を込めた。
「月曜日も、その次も……俺から君に声をかける。廊下の噂も、周りの目も、もう気にしない。俺にとって……光は、何よりも大切な人だから」
まっすぐな朝陽の言葉に、光の瞳からボロボロと温かい涙が零れ落ちそうになった。彼女の唇に、今日一番の眩しい笑顔が咲きこぼれる。
「うん……約束だよ?」
「ああ、約束だ」
その時——カチャリと静かな音を立てて、邸宅の重厚な玄関扉が開いた。
「光? 帰ってきたの?」
優しくも品のある女性の声が響き、上品な邸宅の廊下から光が溢れ出した。姿を現したのは、光と瓜二つの面影を持つ母・話静だった。
「お、お母さん!?」光は跳ね上がるように振り向いた。
「十時方向! 静おばさん登場!」
扉の陰から、十歳になる妹の葵が目を輝かせて顔を出した。
「うわぁ! お姉ちゃん、本当に男の子に送ってもらってる! 先日の弁当の写真の人でしょ!?」
「葵! 余計なこと言わないの!」光は慌てて手を振った。
門の外で固まっていた朝陽は、心臓が口から飛び出そうだった。先ほどまでの格好いい決意はどこへやら、冷や汗が一気に吹き出す。
(た、大変だ……ご両親にお会いするなんて聞いてないぞ!?)
朝陽はパニックになりながらも、反射的に九十度腰を曲げて深々と頭を下げた。
「こ、こんばんは! 1年A組の西条朝陽と申します! 遅くまでに光さんをお送りしてしまい、大変申し訳ありませんでした!」
静かはくすりと笑い、娘譲りの上品な声で言った。
「頭を上げてください、朝陽くん。光から話はたくさん聞いていますよ。今日一日、この子をエスコートしてくれてありがとうね。こんなに嬉しそうな顔で帰ってきたのは久しぶりです」
「あ、いえ! 俺の方こそ……」朝陽が恐縮していると、葵が叫んだ。
「お姉ちゃんのお顔、茹でタコみたいに真っ赤ー!」
「葵! 後でおやつ抜きにするからね!」光が顔を真っ赤にして叫ぶ。
静かは微笑みながら朝陽を見つめた。
「今度は門の外じゃなくて、上がり込んでお茶でも飲んでいってくださいね。主人も、光を笑顔にする男の子に会いたがっていますから」
「げっ……お父さんまで!?」光が絶叫した。
朝陽も心臓が潰れそうだったが、胸の奥には不思議な温もりが広がっていた。
「それでは、俺はこれで失礼します! 光、おば様、お邪魔しました!」朝陽は再度頭を下げて歩き出した。
「朝陽くん!」
光がフェンスから身を乗り出すようにして声を上げた。
「月曜日、学校の校門前で待ってるからね! 気をつけて帰ってね……大好き……じゃなくて、朝陽くん!」
言い間違えた光自身も顔を隠して蹲り、朝陽も足をもつれさせそうになりながらも、夜空に向けて力強く手を振った。
「うん! 月曜日にね、光!」




