第32話:影踏みの暗殺者
裂の弱体化は続いていた。
噂による概念の書き換えは、ボディブローのように効いている。
歩くだけで息切れしている。
そんな中、新たな刺客が現れる。
『作家』の差し金だ。
深夜の路地裏。
街灯がチカチカと明滅する中、二人の足元の影が、不自然に伸びた。
それはまるで生き物のように、黒いインクをぶちまけたような粘着質を持ち、触手のように這い寄ってくる。
コンクリートの割れ目に染み込み、あるいは壁を垂直に登り、二人の逃げ道を塞ぐように包囲網を形成していく。
「……来るわよ、湊くん。影の中に『重み』があるわ」
「……気をつけなさい、湊くん。嫌な気配よ」
裂が声を絞り出す。
彼女の動きは鈍い。いつもなら気配だけで敵を両断しているはずなのに。
「影踏みよ」
影の中から、音もなく黒装束の男が現れた。
忍者のような、あるいは死神のような男。
地面の影と一体化し、壁を滑るように移動している。
物理法則を無視した動きだ。
男が裂の影を踏む。
グシャリ、と嫌な音がした。
影が悲鳴を上げたような錯覚。
その瞬間、裂の動きがピタリと止まった。
「ぐっ……! 体が、動かない……!」
まるで金縛りにあったように、指一本動かせない。
足の裏が地面と溶接されたような感覚。
心臓の鼓動が早まり、冷や汗が流れるが、それすらも重力に逆らうように頬にへばりついて動かない。
見えない鎖でがんじがらめにされたというより、存在そのものを地面に釘付けにされたような絶望感だ。
「『影踏み』のあそび。影を踏まれた者は動けない。童歌の通りですよ。子供の遊びも、極めれば呪術になる」
男が淡々と言う。
呪術的な拘束。
今の弱った裂には、これを自力で解く霊力がない。
「終わりだ、口裂け女。伝説はここで幕を閉じる。作家先生のシナリオ通りにな」
男が懐剣を取り出し、裂に迫る。
黒い刀身。物理的な刃物ではない。影を断つための呪具だ。
あれで斬られれば、影ごと存在を消される。
ロスト・シャドウ。
「やめろ!」
九条が割って入る。拳銃を抜こうとする。
しかし、男は影を移動して瞬時に背後に回り込んだ。
影に潜る能力。
「邪魔だ、人間」
九条も影を踏まれ、金縛りにあう。
「……くそっ……! 足が、鉛みたいに重い……!」
絶体絶命。
九条は腰のホルスターに手を伸ばそうとするが、神経が麻痺したように動かない。
いや、動かせるものがある。
胸ポケットに入れていた、緊急用の信号弾だ。
指先だけの動きなら、悟られずに済む。
「口元さん! 目を閉じて! 網膜焼けますよ!」
九条は叫ぶと同時に、指先でフレアのピンを弾いた。
シュボッ!!
カッッッ!!!!
強烈なマグネシウムの閃光が、狭い路地裏を埋め尽くした。
真昼以上の明るさ。太陽が地上に降りてきたかのようだ。
視界が真っ白に染まり、網膜に光の残像が焼き付く。
影という影が、その圧倒的な光量の前に消滅していく。
闇を切り裂く、物理的な光の暴力。
あらゆる影が消滅する。
絶対的な光の前には、影は存在できない。
それは物理法則の勝利であると同時に、光に照らされた「真実」の暴力でもあった。
あまりの光量に、暗殺者がこれまで潜んでいた「闇の次元」そのものが焦げ付くような異臭を放つ。
男の足元からは、逃げ場を失った影の残滓が、黒い煙となって立ち昇っていた。
「なっ、影が!? 馬鹿な、こんな光量が!?」
男が狼狽える。
光が強すぎて、影ができない。
影がなければ、影踏みは成立しない。
呪縛が解ける。
「今よ! 反撃開始!」
裂が残った力を振り絞り、鋏を振るう。
影を失った暗殺者は、ただの人間と同じだ。
「邪魔よ! 私の影に触るんじゃないわよ! 踏んでいいのは私のヒールだけよ!」
ドガァッ!!
鋏の側面で強打され、男はゴムまりのように吹き飛んだ。
壁に激突し、動かなくなる。
「……やるじゃない、湊くん。眩しすぎよ」
裂が肩で息をしながら言う。
「……目が、目がチカチカします。自分が一番食らいました。残像が消えません」
九条が涙目で言う。
「影を作るには光が必要だけど、光が強すぎれば影も消える。逆転の発想ね。眩しすぎて前が見えないけど」
九条はしばらく、目を開けることができなかった。
「口元さん……。俺、明日からサングラスないと無理かもしれません……。犯人の顔より、自分の光でやられました……」
裂は「警察官の鑑ね。文字通り、自分を光り輝かせて敵を討つなんて」と、少しだけ誇らしげに(そして相変わらず上から目線で)笑っていた。
路地裏には、マグネシウムの燃えカスと、影を失った暗殺者の抜け殻だけが残されていた。
刺客は退けた。
しかし、敵の攻撃は激化している。
作家との決戦は近い。影はまだ、彼らの背後に潜んでいる。




