第31話:書き換えられた噂
「……力が、出ないわ」
朝、特対課に来た裂が、ソファに倒れ込んだ。
いつもなら愛用の鋏を入念に手入れしている時間だが、今日はその鋏を持ち上げる力もなさそうだ。
鋏が床に転がっている。
「どうしたんですか、口元さん。風邪ですか? それとも二日酔い?」
九条が心配して近づく。
裂の顔色は悪い。マスクの下から覗く肌もカサカサで、艶がない。
トレードマークの赤いコートも、どこかくすんで見える。存在感が希薄だ。
輪郭が少しぼやけているようにも見える。
「……私の噂が、変なのよ」
「噂?」
「ネットを見てみなさいよ。『口裂け女』で検索して。エゴサしたら最悪だったわ」
九条はスマホで検索した。
SNSのトレンドに「#口裂け女」が入っている。
しかし、その内容は奇妙なものだった。
『口裂け女って、実は怖がりらしいよ。お化け屋敷で泣いてたってwww』
『ポマードだけじゃなくて、納豆も嫌いらしい。匂いで気絶するってマジ?』
『走るのが遅くて、三輪車にも抜かれるらしい。100メートル20秒かかるらしいぞ』
『実は整形に失敗したただのおばさんらしい。美魔女気取り痛いwww』
『口の傷は、ただのイチゴジャムの塗りすぎらしいぞ。甘い匂いがしたら彼女がいる証拠www』
『ポマードを3回唱えるんじゃなくて、マヨネーズを投げれば喜んで食べるらしい。デブ活中かよ』
『最近は高齢化で足がもつれ、ガードレールに激突して自爆してたらしい。ダサすぎ』
「……何ですかこれ。デマじゃないですか。しかも悪質な。誹謗中傷レベルですよ」
「デマでもね、広まればそれが『事実』になるのよ……今の世の中じゃ、バズったもん勝ちだから」
裂が苦しげに息を吐く。
『口裂け女は100メートル走で小学生に負ける』
『実はマスクの下は普通の口で、ただのあざといファッション』
『ポマードを投げられると、泣いて謝る』
そんな根も葉もない噂が、SNSで拡散され、真実として定着しつつある。
都市伝説は、人々の噂(認知)を糧に存在している。
その噂が書き換えられれば、彼女の存在そのものが変質してしまうのだ。
「恐怖の象徴」から「笑い者」へと、概念が上書きされつつある。
物理的な攻撃よりも、この認知の書き換えは怪異にとって致命的だ。
人々に恐れられなくなれば、それはただの怪談、あるいは忘れ去られるべき古臭い偶像へと成り下がる。
裂の肩が震えている。怒りというより、存在そのものが空虚に呑み込まれそうになっている恐怖だ。
「私、消えるのかしら……」という呟きが、九条の心臓を冷たく掴んだ。
「誰かが意図的に流してるわね。私の『格』を下げるために。組織的なネガキャンよ。インフルエンサーを使ってる」
「……あの『作家』ですか」
九条が拳を握る。
言葉(物語)で怪異を操る男。
彼が、口裂け女という最強の駒を弱体化させようとしているのだ。
ペンは剣よりも強し、を地で行く攻撃だ。
「……ふざけんじゃないわよ」
裂がよろよろと立ち上がる。
「私は最強で最恐なのよ……こんな根も葉もない噂で……私が三輪車に負けるわけないじゃない……! フェラーリより速いのよ……!」
しかし、彼女の足元はおぼつかない。
今の彼女は、ただの「風邪気味の女性」以下の戦闘力しかないかもしれない。
存在の基盤が揺らいでいるのだ。霊基グラフが低下している。
「俺が何とかします」
九条が立ち上がる。
「情報操作には情報操作です。俺がネットで訂正しまくります! 覆してやりますよ!」
「……バカね。アンタ一人の拡散力じゃ無理よ。フォロワー何人よ。相手は無数のボットを使ってるかもしれないのよ」
「でも、黙って見てられませんから! 俺の指が折れるまでリプ返します!」
九条はPCに向かい、猛然とキーボードを叩き始めた。
複数のアカウントを使い分け、地道な反撃を開始する。
腱鞘炎覚悟の高速タイピング。
それは、警察官としてではなく、彼女のたった一人の理解者としての戦いだった。
『口裂け女は最強です! 三輪車より速いです! ジェット機並みです!』
『彼女は納豆も食べられます! ソースは俺! 健康志向です!』
『彼女は美しいです! おばさんじゃありません! 永遠の19歳です(諸説あり)!』
『三次元的な美醜の基準を超越した、概念的なカリスマなんですよ、彼女は!』
『ポマード3回で逃げられると思ったら大間違いだ! 今の彼女は、ポマードを浴びてもさらに加速する特性を得ています(真っ赤な嘘)!』
必死の擁護。
あまりの熱量に、一部のネット民からは「この垢、口裂け女への愛が重すぎて怖い」「宗教か?」と引き気味の反応が返ってきている。
しかし、その「認知の熱」が、冷え切っていた裂に微かな温もりを与えていた。
側から見れば痛々しいが、今の九条にはこれしかできない。
それを見て、裂はマスクの下で微かに笑った。
「……変な相棒。物好きね」
彼女は少しだけ元気が出た気がした。
世界中の人間が敵に回っても、一人でも自分を正しく認識してくれる人間がいれば、存在は消えない。
噂の力は弱まっても、身近な信頼があれば、まだ戦える。
アンカー(錨)としての相棒。
「……ありがとう、湊くん。でも『納豆も食べられる』は嘘よ。嫌いだから消しなさい。ネバネバするし」
「えっ、そうなんですか? 健康にいいのに」
日常会話が戻る。
しかし、ネット上の悪意ある噂は拡散を続けていた。
見えない敵との情報戦は、まだ始まったばかりだ。
九条は、画面上の敵意と戦いながら、「口元さん、今日は美味しいもんでも食べて、早く寝ましょう。俺、高級カツ丼、特急で取ってきますから」と言った。
裂は「……カツ丼は2個お願い。今はそれくらい食べないと、概念が保てないわ」と返し、少しだけ普段の強気な声を取り戻した。
それでも、彼女の輪郭は、モニターのブルーライトに照らされて、まだ不安げに揺れていた。




