第24話:予防接種
「嫌よ! 絶対嫌! 帰る! 有休取るわ!」
特対課のオフィスに、裂の悲鳴が響き渡っていた。
普段のクールな彼女からは想像もできない取り乱しようだ。
部屋の隅で丸くなっている。
膝を抱えて、コートで自分をくるむように包み込んでいる。目が潤んでいる。
暮と同僚を“鬼”や“大妖怪”と戦う彼女が、金属の細い針に怖えている。
今日はインフルエンザの予防接種の日だ。
警察病院から派遣された医師が、注射器を持って困り顔で立っていた。
「口元さん、大人なんですから……。特別顧問とはいえ、組織の一員として受けてもらわないと困ります。集団生活なんですから」
九条が説得する。
「嫌なものは嫌なの! 刃物はいいけど針はダメなの! 先端恐怖症なの! あんな細いので刺されるなんて生理的に無理! 子供の頃、下手くそな鍼灸師に刺されてトラウマなのよ!」
巨大な鋏を振り回し、人を真っ二つにする女が何を言うか。
彼女の美的感覚では、刃物は「美しい」が、注射針は「気持ち悪い」らしい。
理解不能なこだわりだ。
「暴れないでください! 押さえますよ! 先生、チャンスです!」
九条が裂の背後から羽交い締めにする。
彼女が暴れると庁舎が壊れるので必死だ。彼女の筋肉が鋼鉄のように硬い。
「離して! セクハラよ! 訴えてやる! 化け物虐待よ! 人権委員会に電話するわよ!」
「公務です! 先生、今です! 早く!」
「いきますよー、チクッとしますからねー。すぐ終わりますよー」
医師が震える手で針を近づける。殺気におののいている。
裂の二の腕(白くてモチモチしている)に針が触れた瞬間。
カキンッ!
硬質で乾いた金属音がした。
針が刺さる音ではない。何かに弾かれた音だ。
ポキッ。
針が根元から折れて飛んだ。
放物線を描いて床に落ちる。
「……え?」
医師が目を丸くする。眼鏡がずれる。
自分の目が信じられないといった顔だ。
彼は折れた針の先端を拾い上げ、光に透かして確認する。
不良品だったのか? いや、新品の医療用注射針だ。ステンレス製だ。
「……えっと、筋肉注射のつもりでしたが、骨に当たったような感触が……いや、皮膚の表面で弾かれましたね?」
「……硬っ!?」
九条も驚愕する。
見れば、裂の二の腕には、針の跡形すらついていなかった。赤くすらなっていない。
白い肌は無傷で、滑らかなままだ。
彼女の皮膚は、ガードレールをも曲げる怪力に耐え、拳銃弾すら弾く強度なのだ。
生物としての密度が違う。
医療用の極細の針など、通るはずがなかった。
医師は3本目の針を試みたが、同様に折れた。針の方が悲鳴を上げている。
「すいません、チタン合金製の特殊針を試しても……」
「やめなさい先生。チタンでも無理ですよ。彼女の皮膚はダイヤモンド以上ですから」
九条が針の残骸を集めながら諸めた。
「ふふん、見たか」
裂が勝ち誇った顔をする。
涙目だが得意げだ。鼻息が荒い。
「私の肌理細かい肌は、異物を受け付けないのよ。ダイヤモンドより硬いわよ。エステ通ってるからね」
「いや、どうするんですかこれ。ワクチン打てませんよ。集団免疫に穴が開きます。パンデミックの源になりますよ」
九条が頭を抱える。
「飲むわ」
「へ?」
「ワクチンなんて液体でしょ? 体内に入れば一緒よ。胃酸でなんとかなるわ」
裂は新しいアンプル(小瓶)を医師から奪い取ると、蓋を歯で噛みちぎり、一気に飲み干した。
豪快すぎる。
「ん、不味い。苦いわ。これ、いちご味とかないの?」
「……絶対効果ないと思いますけど。タンパク質として消化されるだけじゃ……」
医師も呆気に取られていたが、これ以上関わりたくなかったのか、「まあ、元気そうだからいいか……」とカルテに『接種完了(経口)』と書き込んだ。
医学的敗北だ。
カルテの備考欄には「注射不可。皮膚強度が針を超過。代替措置として経口投与」とだけ書かれていた。それ以上の言葉が見つからなかったのだろう。
医師は帰り際、九条に「次回から衣理性試験が先です」と真顔で言い残した。
最強の怪異は、不可視のウイルスよりも、可視化された注射針の方が怖いらしい。
ただのわがままである。
翌日、彼女だけピンピンしていて、ワクチンを打った九条の方が副反応で熱を出した。理不尽だ。
裂は熊のグミのぬいぐるみを抱いている九条に、「男のくせに弱いわね」とかるく見下しつつ、ベッドの横にポカリを置いていった。




