8-5 葛藤
深夜23時。
以前なら、和真とともにトレーニングジムで同じ時間を過ごしていた。しかし━
もう、同じ時間、同じ空間を共有することはできない。
━わたしは、ここにいてはいけない。
後ろ髪を引かれる思いでトレーニングジムの玄関から離れ、学院の敷地を出ようと歩み始めた。
「よーるのぉぉぉやぁみいぃをうけてー、あーいーはーいまー!」
夜の静けさに似合わない謎の不協和音。
時差ボケをしたカラスの鳴き声かと思ったら男の奇声だった。
ユリィはギョッと飛び上がった。
「……え?…………こわい」
そんな言葉が勝手に口に出ていたことにユリィは驚いた。
振り向くと、所々黒焦げの白衣を着用している男。
貝塚兼孝。
「ヘイ!汝!迷えるねぇ?どこへ行くんだい?こんな夜中に」
それは兼孝にも言えることだが、ユリィにはそこまで突っ込む余裕はない。
「ちょうど小腹が空いちゃってね、コンビニに行こうと思っていたんだよ〜、夜はこれからだからねー!」
謎のハイテンションについていけない。
「汝!コーヒーでも飲むかい?ノンカフェインかな?それともオレンジジュースがいいかい?」
ユリィと兼孝は共にコンビニへ向かい、飲み物を買った。兼孝は、徹夜する気満々なのか、500mlペットボトルのブラックコーヒーを買った。
「んで、どうしたんだい?キミの顔にはSOSって書いてあるよ?」
ペットボトルのオレンジジュースを両手に持つ。遊園地で飲んだオレンジジュースの甘さを思い出した。今飲んでいるオレンジジュースは、明らかに苦い。
ユリィは兼孝に事情を話し始めた。
「……わたし、かずまにひどいこと言った。『大嫌い』って。守ってくれたのに……わたしがかずまを傷つけたのに……」
震え声。聞き手の兼孝は柔らかい笑みを浮かべていたが、その眼差しは真剣であった。
「……かずまにも、ゆかりにも酷いことを言った。ここにはもう、いられない。かずまの負担になるくらいなら、わたしがいなくなればいい。わたしは兵器だから、壊れてもいいのに」
もはや、自暴自棄だった。
「……ここにいたら、かずまを傷つけてしまう。そうなるくらいなら、いっそ━」
もうどうなってもいい。本気でそう思っていた。
「それは違うよ」
兼孝が口を挟んだ。いつもの軽い口調ではなかった。
「キミがいなくなってハッピーになれる人なんていない。兵器は人の事情なんて考慮してはくれない。そうやって人を思いやれる時点でキミは人間だよ。人から遠ざかるのは、その人のことを考えてるようで、自分が壊れないようにするための一種の防衛本能なのかもね」
兼孝の言葉に、ユリィの心が揺らいだ。
「まあボクはとっくに壊れてるから。でもね、ひとつだけ言っておくよ。和真クンがキミを庇った行動、それそのものを否定するのだけはやめてあげてね?」
ユリィは黙って小さく頷いた。
「分かりあうって、難しいよね。良かれと思ってしたことでも、不幸になっちゃうんだもの。でもね、話し合わないと、分かるものも分からないままだよ?」
兼孝は、月を眺めながらそう諭す。
ユリィも月を見上げた。三日月でも満月でもない。
「和真クンから離れたい、それは本当にキミの願いかい?」
ストレートな問いかけに、ユリィは俯いた。
考えがまとまらない。本心は、決まっているはずなのに、言葉が出ない。
「キミがどうしたいか、自分自身と向き合ってみるんだね」
「……ふたりとも、許してくれるかな」
「和真クンも北条さんも、心が広いからきっと大丈夫だよ?」
冷たい夜風が肌に沁みる。銀色の髪が揺らぐ。
ユリィは再び月を見上げた。
物言わぬ宇宙の岩塊が、煌々と輝いていた。
*
翌朝。
一睡も出来なかった。
食事も喉を通らなかった。
勉強も、トレーニングも、趣味の読書も、全く意欲が湧かなかった。
ベッドで茫然と横たわっていた。
ただ、ショックだった。
かずまなんか、大っ嫌い。
その一言がずっと頭にしつこく残っている。
スマートフォンの画面を見る。午前7時30分。
━学校に、行かないと……。
和真は体を起こそうとする。しかし、異常に体が重い。
根性で起きる。歯を磨く。顔を洗う。制服に着替える。リュックサックに必要な教科書等を入れる。
当たり前にやってきた行動のひとつひとつが、多くのエネルギーを要する。
カバンを背負い、校舎へ向かう。
大嫌いという明確な拒絶。
それでも和真は諦めきれなかった。
理由が知りたい。
教室に入るまで、思考は無限にループし続けていた。
「おはよう和真━って、お前顔大丈夫か?魂が抜けてるぞ?」
教室に入ってきた祐一が和真の顔を見ると、その様子に後退りした。
「う、うん、一睡もできなくて……」
和真は精一杯喉から声を出して返答した。
その後、ゆかり、竜二、山内、山田、西山にも同様の指摘を受けた。停学明けの小渕紗子に至っては、
「あなた、死にかけのゾンビみたいな顔をしてますわよ!?目のクマがとんでもないですわよ!?」
と、盛大に驚いていた。それに対して和真は、
「クマ?今ってもう冬眠の時期過ぎたんだっけ?」
と、完全に的外れな返答をしていた。それを見かねたゆかりはついに実力行使に打って出た。
「今冬眠すべきなのは和真だから!」
ゆかりは和真を肩で運んで医務室へ連れて行った。
*
ゆかりは医務室にて、学校医のクリストフ・ルノワールに事情を説明し、和真をベッドに座らせた。
「その様子だと、数日はちゃんと寝れてなかったのではないか?」
クリストフは和真の様子から、そう訊ねた。
「……はい、しばらくロクに寝れてなくて、昨夜は一睡もできなくて……」
虚な目で和真は答えた。
「何があったか事情を聞くつもりはこれっぽっちもないが、これでも飲んでせいぜい大人しく寝ておくんだな」
クリストフはそう言い、何か液体の入ったマグカップを和真に渡した。マグカップからは湯気がたっており、蜂蜜のような甘い匂いが放たれていた。
「……ドーナツ?」
「そういうボケはいらないから飲みなさい」
━ドーナツ?
呆れているクリストフを横に、ゆかりは首を傾げた。
熱くなっている液体を空気を吹き込んで冷ました後、和真は恐る恐る液体を口にした。
「それ飲んだらその辺に置いといて」
クリストフはそう言い残し、医務室の奥へ去っていった。
「……おいしくない」
和真はマグカップの中の液面を見つめながら呟いた。それを少しずつ啜る。
数分後、飲み切る。
「もう一杯欲しい」
━どっちだよ。
一見すると支離滅裂な発言を繰り返す和真を、ゆかりは指を咥えて見ていられなかった。
ゆかりはぼーっとしている和真をベッドに寝かせた。
「大嫌いって……」
「和真、今は寝て」
「大嫌いって、本心だったのかな」
そう溢した和真に、ゆかりは動きを止めた。
違う。
本気で嫌いになったわけがない。
「……多分、ユリィは自分が和真のそばにいると、和真が傷ついて不幸になるって思ってる」
「……なんだよ、それ……」
「だから、和真から離れて、和真に幸せになってほしいのかもしれない」
和真は何も言わなかった。
空気が地獄だった。息が苦しい。
「……ごめん、今は1人にして」
このままここにいると、自分も泣きたくなる。
ゆかりは黙って立ち上がり、医務室を出た。
ドアの向こうからは、啜り泣く声が聞こえた。
━どうして、両思いなのに苦しまなきゃいけないの。
2人の仲睦まじい光景を知っているゆかりは、やるせない気持ちに支配されていた。
一瞬、悪魔の選択肢を思い浮かべた。
私が『かずま』をとっちゃうよ?
ユリィに投げかけた、自身の言葉。
その未来を思い浮かべた。ユリィの嘆き苦しむ顔を想像したくない。心が痛くなる。
━やっぱり、『かずま』を奪うなんて、私にできるわけないじゃない……。




