8-1 扉
某日。
暗い部屋に1人の男が、ノートパソコンのディスプレイに向かっていた。画面には「sound only」の表示。
『目標は取り逃したか』
ノートパソコンのスピーカーからは男の低い声。
「……申し訳ございません」
天野は画面に向かって頭を下げて謝罪した。
『まあよい、彼女の所在が確定しただけでも儲け物だ……SNSで生きていることがわかっていたからこそ、貴様に共有した甲斐があったというものだ』
「と、仰いますと?」
『「ユリィ・フロストは危険な兵器」という投稿だ。まさか、生きていたとはな……』
天野は躊躇しつつ口を開いた。手には汗が付着していた。
「そ、それに関してですが、《タナトス》様の計画が漏洩した可能性があります」
歯切れの悪い天野に対し、画面の向こう側から「む?」という声。
「資料室が荒らされておりました。暁星学院の連中に見られたかもしれません」
『なぁに、やりようはいくらでもある。こっちは暁星学院の研究成果をタダでお借りしているのだ。対価だと思えばよい』
「しかし、流石にプロジェクト・Yの真実を知られるのは……」
天野は不安そうに言う。
『知られたところで、人は見たものしか信じない。マスコミはこちらの味方だ。世の中を作るのは我々のようなインテリなのだ』
「左様でございます」
『それより、SANACの連中に勘付かれ始めた。八木沼のガキも我々を探っているようだ』
画面の向う側の男の話し方には、数秒前ほどの余裕は感じられない。
「八木沼重慶元代表のお坊ちゃまですね。身内にも敵がいるとは」
『場合によっては、「事故に遭って頂く」か、「病気になって頂く」ことも必要だとは思わんか?』
男の提案に対し、天野はしばらく黙った。
「タナトス様の計画を実現するためなら、必要でしょうが、バレてしまった場合は━」
『万が一のために秘書を用意するさ、邪魔な財務官僚を処分できて一石二鳥だ』
画面越しに悪い笑みを浮かべているのが分かる。それを直感した天野は身震いした。
「では、山梨の研究所にも、いずれ調査が入るのでは?」
『それも大丈夫だ。最強の傭兵を雇っている、公金でな。それにバレたとしてもそれはそれで好都合だ』
「と、仰いますと?」
天野が訊ねると、男は確信した様に告げる。
『エサを見せつければ、ヤツは来る』
「なるほど、妹、ですか」
天野は納得したように言った。
『天野よ、これも政治だよ。私は堂ノ上真聖や八木沼重慶のような理想論者でもなければ、総理のような臆病者でもない。理想だけでは世界は動かんのだ』
『閣下、分解工程の人工バクテリアのパターンεの生成に成功しました』
画面の向う側からは、閣下と呼ばれる男とは違う男の声が聞こえた。
『ご苦労。Y-03号から07号で再現性を担保できるか試験せよ』
『ハッ!』
「分解工程?」
天野は怪訝そうな顔で口に出した。
『こちらの話だ。知る必要はない』
「左様でございますか」
天野が相槌を打つと、男は不敵に笑った。
*
あれからというもの、わたしはかずまと口を聞けていない。目線を合わすことすらできていない。
スマホの画面には、チャットアプリのメッセージの通知。わたしは怖くて開くことができなかった。
……わたしのせいなんだ。
かずまが傷ついたのは、わたしのせい。
かずまはわたしを庇って、傷ついた。
かずまを傷つけない、そう決めたのに。
わたしが近くにいたら、かずまが危険な目にあう。わたしがいなければ━
だから、わたしは━
かずまには、もう絶対に近づかない。
嫌いになったからじゃない。好きだから、近づかない。
ひとりでもだいじょうぶ。今までも孤独に過ごしてきた。前に戻っただけに過ぎないのに━突然、左腕が無くなったような感覚。
前みたいに、兵器らしく感情を凍結させてしまえば、つらくない。
他の人と話している時のかずま。顔は笑っているはずなのに、心から笑えていない。
どうして?
どうして?
わたしは、かずまに笑っていてほしいのに。幸せになってほしいのに。
わたしが、わたしさえいなくなれば━
でも、まだ消えるわけにはいかない。
たったひとりの、妹を助け出すまでは。
そのために、まずすべきことは━




