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時は宋。
清河県、西門邸の朝は――
異様に平和だった。
門番は欠伸をしていた。
番頭は帳簿をめくっていた。
台所では蒸籠が静かに湯気を上げていた。
庭では鯉が跳ねていた。
そして廊下の奥から――
巨大な声が響いた。
「のだぁ〜♡ハニーたちぃ♡待て待てなのだぁ♡」
西門慶レイ(193cm)が走っていた。
⸻
朝である。
まだ日も高くない。
だが彼はすでに全力疾走していた。
理由は単純。
妻たちが逃げていたからである。
⸻
「待つのだぁ〜♡」
廊下を曲がる。
ふり
ふり
ふり
尻が揺れる。
無意味に揺れる。
だが本人は真剣だった。
⸻
前を走るのは
潘金蓮
である。
振り返って言った。
「大官人、朝から何ですか」
さらに前には李瓶児。
「まだ化粧もしてません」
さらにその先には孟玉楼。
「帳簿の確認が先です」
三人とも逃げていた。
理由は共通だった。
朝のレイは重い。
⸻
「遊ぶのだぁ〜♡」
レイは笑顔だった
完全に楽しそうだった。
しかし三人は止まらない。
⸻
そのとき廊下の角から番頭が現れた。
「旦那様」
レイが止まる。
「のだ?」
番頭が帳簿を差し出す。
「北方輸送の件ですが」
沈黙。
三秒。
レイは言った。
「あとでなのだぁ」
再び走る。
番頭が空を見る。
「またか……」
⸻
庭に出た。
朝露が光っている。
鯉が跳ねる。
風が吹く。
実に穏やかだった
⸻
「のだぁ〜♡」
レイが跳んだ。
そして潘金蓮を捕まえた。
「捕まえたのだぁ!」
潘金蓮がため息をつく。
「はいはい」
李瓶児が言う。
「大官人、朝食は?」
レイが言う。
「食べるのだぁ」
孟玉楼が言う。
「ではまず座ってください」
完全に誘導されていた。
⸻
朝食の間。
机には料理が並ぶ。
蒸鶏。
魚粥。
点心。
饅頭。
果物。
茶。
レイは満足そうだった。
「うむ」
一口食べる。
さらに一口。
さらに三口。
そして言った。
「今日は平和なのだぁ」
番頭が遠くで固まった。
料理人が顔を伏せた。
下男が視線を逸らした。
誰も信じていなかった。
⸻
だが本当に平和だった。
誰も覗いていない。
誰も殴っていない。
誰も毒ガスを使っていない。
誰も死刑になっていない。
奇跡だった。
⸻
「のだぁ〜♡」
突然立ち上がる。
妻たちが警戒する。
「散歩するのだぁ」
三人とも同時に言った。
「使用人を連れてください」
完全に一致していた。
⸻
門を出る。
町は静かだった。
市場は動いていた。
魚が並び。
野菜が並び。
豆腐が並び。
そして町人たちが言った。
「あ」
道が開いた。
自然に開いた。
理由は単純だった。
西門慶レイだからである。
⸻
「うむ」
満足そうに歩く。
尻が揺れる。
ふり
ふり
ふり
子供が見ていた。
母親が抱き寄せた。
商人が頭を下げた。
僧が道を譲った。
犬が逃げた
⸻
そのとき。
豆腐屋の娘が通った。
レイが止まる。
三秒。
袖に手を入れる。
番頭が叫ぶ。
「旦那様!」
レイが止まる。
「……のだ?」
番頭が言う。
「今日は平和な日です」
沈黙。
さらに沈黙。
そして。
レイは言った。
「そうだったのだぁ」
袖から手を出した。
奇跡だった。
⸻
川辺に着いた。
風が吹く。
柳が揺れる。
舟が流れる。
実に穏やかだった
⸻
「のだぁ〜」
レイは座った。
石に座った。
腕を組んだ。
そして言った。
「良い日なのだぁ」
番頭が頷く。
「はい」
料理人が頷く。
「はい」
下男が頷く。
「はい」
全員慎重だった。
⸻
そのとき。
遠くから声がした。
「旦那様!」
番頭が振り向く。
別の使用人が走ってくる。
汗だくである。
嫌な予感しかしない。
⸻
「北方輸送路で」
レイが立ち上がる。
「……のだ?」
使用人が言った。
「羊が逃げました」
沈黙。
空気が止まる。
レイの肩が震える。
そして。
静かに言った。
「のだぁ?」
⸻
次の瞬間。
「捕まえるのだぁあああ!!」
全力疾走だった
尻が揺れる。
町が揺れる。
使用人が走る。
番頭が走る。
料理人が走る。
犬が逃げる。
子供が叫ぶ。
市場が騒ぐ。
⸻
その日もまた。
清河県は
とても穏やかな一日だった。




