10
時は宋。
清河県の夜は静かだった。
西門邸の外壁の影に、一人の男が立っていた。
その名は
武松
兄
武大郎
殺しの罪を――
やってもいないのに押し付けられ。
官吏殺しの罪まで加算され。
牢に入れられ。
そして脱出してきた男である。
今度こそ。
今度こそ。
復讐するために来た。
⸻
武松は慎重だった。
前回とは違う。
牛糞を投げられ。
挑発され。
殴られ。
役所に運ばれ。
罪を増やされ。
完全敗北した前回とは違う。
今回は違う。
完全に違う。
計画は万全だった。
夜を選び。
裏門を選び。
足音を消し。
気配を断ち。
壁を越えた。
完璧だった。
⸻
しかし。
着地した瞬間。
背後から声がした。
「誰だ」
使用人であった。
⸻
武松が振り向く。
二人。
三人。
四人。
五人。
さらに増える。
十人。
二十人。
三十人。
全員、西門家の使用人だった。
しかも――
全員やる気があった。
理由は単純だった。
給料がいい。
飯がうまい。
布が暖かい。
寝床が広い。
つまり。
忠誠心が高い。
⸻
番頭が言った。
「怪しいな」
料理人が言った。
「怪しい」
帳場係が言った。
「かなり怪しい」
下男が言った。
「完全に怪しい」
武松が言った。
「通してくれ」
通るわけがない。
⸻
武松が踏み込む。
拳が動く。
しかし。
その前に。
横から棒。
後ろから蹴り。
前から肩当て。
上から桶。
下から足払い。
完全に連携していた。
⸻
「止まれ!」
どすっ
「侵入者だ!」
ぼすっ
「捕まえろ!」
がすっ
武松が後退する。
だが囲まれる。
さらに囲まれる。
完全包囲だった。
⸻
そのとき。
奥から声がした。
「のだ?」
全員が止まる。
道が開く。
静かに開く。
そこに立っていたのは――
西門慶レイ(193cm)
だった。
⸻
「また来たのだぁ?」
レイは首を傾げた。
武松を見た。
三秒。
五秒。
そして言った。
「おちび君なのだぁ」
最低である。
⸻
武松は言った。
「西門慶」
低い声だった。
空気が凍る。
だがレイは違った。
笑っていた。
にこにこしていた。
⸻
「のだぁ〜」
腕を組む。
満足そうだった。
そして言った。
「死刑にしたいところだが」
番頭が頷く。
料理人が頷く。
下男が頷く。
書吏がいないのに頷く。
⸻
レイは続けた。
「虎殺しを虐めるのは楽しいのだぁ!」
完全に本音だった。
⸻
使用人が動いた。
どすっ
ぼすっ
がすっ
蹴る。
叩く。
押す。
引く。
転がす。
武松は踏ん張る。
だが人数が違った。
質も違った。
目的意識も違った。
そして何より。
雇用関係があった。
⸻
番頭が言った。
「旦那様の御命令だ」
料理人が言った。
「追い出せ」
帳場係が言った。
「帳簿に残すな」
最低である。
⸻
武松が叫んだ。
「卑怯だ!」
レイが言った。
「のだ?」
首を傾げる。
本当に分かっていなかった。
⸻
「一対一で勝負しろ!」
武松が言う。
レイが言う。
「する必要ないのだぁ」
正論だった。
恐ろしいことに。
⸻
さらに蹴られる。
さらに押される。
さらに叩かれる。
ついに門の外へ。
どさっ
完全排出だった。
⸻
レイは門の内側に立った。
腕を組む。
満足そうだった。
そして言った。
「また来るのだぁ」
武松を見下ろす。
さらに言う。
「楽しいのだっ♡」
使用人たちが笑った。
番頭が頷いた。
料理人が頷いた。
下男が頷いた。
門番が頷いた。
全員一致だった。
⸻
武松は立ち上がった。
門を見た。
拳を握った。
だが開かない。
当然である。
西門家の門だからである。
⸻
レイは最後に言った。
「次は牛糞じゃなくて」
少し考える。
そして笑う。
「馬糞にするのだぁ」
最低だった。
清河県の夜は静かだった。
そして。
西門家の門は
今日も一度も破られなかった。




