第6話 惑いと決意
突拍子のない発言に、姉弟は大きく目を見開く。
「なぜ、私たちが皇宮に?」
わけがわからないと言外に問う桜夜に、寧子は神妙な声音で続ける。
「伊織からすでに聞いているかもしれないけれど、嵐慶はまだあなたたちが生きていることを知らない。でも、あちらにも情報収集に特化した隠密集団がいる。そのうえ、もともと幕府軍に属していた武士たちや佐幕派の町人、侠客たちが次々に沈丁花に加わっていることから、いずれあなたたちの存在が知られ、嵐慶は再び龍蛇の力を利用しようとするでしょう。万が一あなたたちが捕まってしまうようなことがあれば、きっと非人道的な扱いを受ける」
的を射た寧子の指摘に、桜夜は返す言葉が見つからなかった。
頭のなかで、想像上の主が凄絶な面差しと低声をもって己を侮蔑する。
『神でもなく、ましてや人ですらない。お前たちは崇高な存在に成り損なった生成――ただの醜い異形だ』
かつて、嵐慶に突きつけられた残酷な事実。
異形は陽の下を歩けない。一生、暗影に身を潜め、残忍かつ獰悪な邪心の赴くままに生きていくほかない。それが邪神の子孫たる者の運命なのだと彼は言った。
それゆえ桜夜が己の意志で殺めることができないと彼が知った時は、怒髪天を衝いて桜夜を強く打擲した。
『異形のくせに人を殺せないだと? はっ、面白い冗談だな。笑わせてくれる。それで清純な神を気取ったつもりか。戯言を吐くのも大概にしろ』
それから桜夜は任務のたびに組紐を強制的に切られ、一時的に蛇女となって将軍の障壁を破壊してきた。蛇女の髪を縛る組紐、そして龍男の手首を締めつける数珠型の腕輪には、一族が生まれつき抱いている神力の暴走を抑えるまじないがこめられている。それらを断ち切られてしまうと、人ならざる本性が発露してしまう。
相当な訓練を積まない限り、蛇女龍男の状態で理性を保つことは難しい。力尽きるまで際限なく暴乱し続ける変化を解くには、訓練を積んで自制できるようになるか、他者による攻撃で意識を失うことしか方法がなかった。
――できることなら、この身に流れる神血だけをすべて洗い流したい。
殺戮を犯すことしかできない呪われた力は、憎しみや怒りといった負の連鎖しか生まないのだから。
「あなたたちだって、わたくしが守るべき民であることに変わりはない。それに、あなたたちはこれまで想像を絶するような苦難を強いられてきた。だから、皇宮で心身を休めてくれたらと思うのだけど」
――慈悲深いお方だ。
仁道を行こうとする為政者の鏡とも言うべき寧子の姿に、桜夜は素直に感心した。だが――
「恐れながら、そのお気遣いは建前で、本当は輪皇軍の脅威となり得る我々を敵軍に渡したくないとお考えなのでは」
鋭く切り込んだ発言に、寧子は目を眇める。額も険ある眼差しで桜夜を咎めた。
「今の言葉は看過できませんね。寧子様に対しあまりに不敬です」
「それは重々承知しています。ですが、私たちは疑り深くならざるを得ない極めて複雑な立場にありますので。それに、もしあなた方が私たちの立場であったなら、きっと同じ心境になっているでしょう」
虚を衝かれ、額は反駁できずに口を閉ざす。返す言葉が見つからずに黙す彼女に、伊織はからからと笑いながら言った。
「まったくもって桜夜ちゃんの言う通りやわ。それにしても、額ちゃんが言いくるめられるなんて珍しい」
「……二度とそのうるさい口をきけないようにしますよ」
「え、なんでそんな怒ってんの? ボク、そんな気に障るようなことゆってないで。ていうか、額ちゃんがボクを黙らすって絶対に無理無理」
「地に額を擦りつけて謝罪する覚悟はあるようですね」
小馬鹿にしてくる同僚を、額は青筋を立てて睥睨する。
対極的な副長同士が不毛な応酬を繰り広げている一方で、桜夜と寧子は静謐な光をたたえた瞳で互いを見据えていた。
寧子は静かに瞑目し、再び怜悧な黒瞳をのぞかせる。
「確かに、その考えがなかったと言えば嘘になるわ」
「寧子様!」
「でも、すぐにあなたたちを恐れるのはやめた」
額の懸念をはらんだ呼声を制止するかのように、寧子は続ける。
「輪皇軍の兵士たち、それからわたくしの親兵たちは、どんな危険や困難があったとしても必ずそれを打ち砕く強さがあると信じているから」
仲間への信頼がありありと見てとれる婉麗な微笑と玉音。
桜夜は感嘆し、蓮夜と額に至っては恍惚とした面様で彼女を凝視していた。伊織もいつもの嫌みな笑みではなく、主からの期待に応えるような凛乎たる笑みをたたえている。
「それに、わたくしだって曲がりなりにも神器所有者よ。いざという時は、己が持ちうる力をすべて使い果たすまで」
寧子は胸元にある黄玉にそっと触れる。
最強の神力を保有すると言われている〈黄心〉。かの神器はあらゆる空間、そして天候を操ることができる。
一つの神器で二つの神力を発揮できるのは〈黄心〉のみ。まさに輪国の頂点に君臨する人物が持つに相応しい神器だ。
「寧子様がお力を使うまでもありません。私たちが全身全霊をもって、貴方様をお守りいたしますから」
「それはボクも同感。珍しく額ちゃんと意見が合ったな」
飄々とした朗笑を向けてくる伊織に額が辟易する様子に、寧子は口元を綻ばせる。
「二人とも。気持ちは嬉しいけど、あまり無茶はしすぎないようにね」
強固な絆で結ばれている主従たちを目の当たりにして、桜夜は花瞼をわずかに伏せた。
彼女たちはあまりにも眩しすぎる。慕い慕われる関係に思わず羨望してしまうほどに。
「姉ちゃん……」
隣から自身を案じる弟の声がする。それと同時に父から託された言葉が脳裏を過った。
「……父は」
桜夜が口火を切ると、主従たちが一斉に注目する。
「央都決戦で果てる前、私に言いました。蓮夜とともにどこかで静かに暮らせ。蓮夜のことを頼んだぞ、と。ゆえに蓮夜の身に迫る危険はすべて私が排除しなければなりません」
不屈の覚悟と信念に、蓮夜は言いかけた言葉を呑みこんで口を噤んだ。
「異端である我々には敵が多すぎる。もはや誰一人として信用できない。だから姉弟で懸命に強く生きろと、父の遺言にはそんな意味がこめられているのだと私は思っています」
「桜夜……」
「たとえ輪皇であらせられる寧子様のご意向といえど、私たち姉弟に対する弊害や利権が捨てきれない以上、貴女様のご意向に沿うことはできません。それゆえ私たちは今すぐここを去ります。もし、不敬罪として今この場で私たちを斬り捨てようものなら――」
桜夜は〈水牙〉を創成して、蓮夜を庇う体勢をとる。同時に伊織と額も神器を手にして桜夜に鋭利なものを向けた。
「相手が誰であろうと、躊躇なくこの牙を振るいましょう」
一触即発のただならぬ空気が、桜夜と二人の副長の神経を研ぎ澄ませる。
己に向けられた刃と敵意。普通の人間ならば怯えや恐怖をその顔に浮かべるというのに、寧子は一切の感情の揺らぎを見せない。そのうえ――
「伊織、額。神器を収めなさい」
「なっ……!」
抵抗するなと従者たちに指示する始末。
「何をおっしゃいますか! この者は寧子様に危害を加えようと――」
「収めなさい」
有無を言わさぬ輪皇の厳命に、額は不承不承、番えていた矢を下ろす。反対に伊織はすんなりと命を受け入れ、納刀していた。
「このまま逃避行を続けたとしても、二人だけで生きていくには限界がある。さっきも言ったけれど、嵐慶たちに見つかってしまうのも時間の問題よ」
「そんなことは――」
桜夜が否定しかけたところを、寧子がかぶりを振って押し留める。
「たとえあなたが人智を越えた力を持っているとしても、たった一人で数多の敵から大事な家族を守りきるのは難しい。いずれ心身ともに果ててしまう。だから――」
寧子は一呼吸おいて再び目元を和らげる。自然とこちらの心が落ち着き、安堵させるようなたおやかさをもって。
「わたくしたちが後ろ盾となって、あなたたちを守る。あなたたちの人としての尊厳を、幸福を――決して彼らに奪わせはしない」
偽善だ。自己満足だ。
警戒するもう一人の自分が、心の中でそう囁きかけてくる。
けれど、これまでの彼女が見せてきた言動や清廉な笑みが、権謀術数をめぐらせているはずがないと桜夜に思わせた。本当にそんな腹黒さを持っているのなら、すでに自分と蓮夜はあらゆる手段と力をもって屈服させられていたはずだ。
かつて自分が仕えていた、あの暴君のように。
「すぐに心を許せとは言わないわ。ゆっくり、少しずつでいいからわたくしたちのことを知ってもらいたいの」
寧子の純粋な慈愛がまるで魔性の囁きのように聞こえてならず、判断を鈍らせる。
本当に彼女たちから差し伸べられた手を取ってもいいのだろうか。桜夜が逡巡していると、ふと肩を軽くつつかれた。
「姉ちゃん」
振り向くと、蓮夜がいつもの晴れやかな笑みを浮かべていた。
「寧子様を信じよう」
「蓮夜……」
「二人であちこちを回って隠れ住んでた時、姉ちゃんは万が一に備えて一日中ずっと気を張ってたでしょ。他でもないぼくを守るために。だから、ずっと申し訳なく思ってたんだ。何もできなくて守られるだけの自分が悔しくて情けなかった」
「そんなこと思う必要は――」
「わかってたよ。姉ちゃんならそう否定してくれるって。でも――」
ぼくは、ぼくのせいで……姉ちゃんが傷つくのを見たくない。




