第36話 終戦
「がはっ!」
滂沱の鮮血が弾ける。
視界が明滅する。
焼けるような痛みの後、最期の鼓動が胸を強く打った。
――動け!
己の体、心臓を叱咤するも言うことは聞かず。
もはや命令する力さえ失い、最後の将軍は散った。
「身の程を弁えへんのはそっちやろ」
断罪の執念と治政への渇望を抱いたまま逝った亡者に、伊織は吐き捨てるように言って血振りした。
沈丁花の首魁を討った。その事実がわずかな安堵をもたらすも、すぐに桜夜と伊織は刹那に弛緩した体を引き締める。
奥義を終えて桜夜の瞳の輝きも静まったところで、どくんと激しく心臓が胸を打った。
「ぐっ!」
「桜夜ちゃん!」
桜夜は胸を押さえ、その場にうずくまる。
呼吸が乱れる。血が沸騰しているかのように全身が熱い。
「おね、がいっ! もう、少し……もって!」
せめて、蓮夜を救いだすまでは。ここで倒れるわけにはいかない。
「増美、桜夜ちゃんを連れて先に下山しろ!」
「わかった!」
「いや、大丈夫だ」
桜夜は辛うじて立ち上がった。
「そんなにふらふらでどこが大丈夫なんや。早く山降りたほうがええ」
「それを、言うなら……お前だって、そうだろう……」
伊織だけじゃない。増美や他の部隊、ここにいる全員が満身創痍で、ほとんど力は残されていない。だが、まだやらなければならないことがある。
桜夜は懐から父からもらった腕輪を取り出した。
「この呪具を……蓮夜の手首にはめれば、龍の力は再封印されて……蓮夜は眠りにつく。ただ……」
「ただ?」
「時間が、残されていない……。蓮夜は……もうすぐ体力が尽きて、死んでしまう」
「マジか……」
一秒たりとも無駄にはできない。
現状の厳しさを瞬時に理解した伊織は、黒龍に向かって疾駆した。
「何する、つもりだ……!」
「ボクが蓮夜くんの気ぃ引きつけて足止めする。その隙に桜夜ちゃんは腕輪つけて! 増美はボクと桜夜ちゃんの援護!」
「そんなことしたらお前が!」
「無茶しないで!」
桜夜たちの制止を振り切って伊織は黒龍の頭部に向けて〈銀旋風〉を放った。
〈無空〉によって攻撃を受けない黒龍はぎろりと伊織を睥睨した。
「ボクと一緒に遊ぼか。蓮夜くん」
それに応えるかのように黒龍は叫号し、伊織に向かって尖鋭な牙を剥く。寸前まで引きつけた後、伊織は大きく跳躍して黒龍の頭部に飛び乗った。そのまま頭部を踏み台にしてさらに空を翔け、暗黒の背に着地する。
当然、黒龍は伊織を振り払おうと激しく暴れる。だが、伊織は満身創痍ながらも全身の力を振り絞って体幹と敏捷性を活かし、舞うように飛翔と羽休めを繰り返した。
「すごい……」
疲弊してもなお傑出した体術を見せる伊織に感嘆しつつ、桜夜も黒龍に近づいた。
「〈炎獄〉!」
黒龍の動きを封じるべく、増美が黒龍を囲うように炎弾を地面に撃ちこむ。
炎柱がほとばしり、黒龍の行動範囲を制限した。当然、黒龍は炎の牢獄を破壊しようと暴れ回る。
「もう少し、動きが止まってくれれば……!」
激しく足を動かしているせいで、腕輪を付けることができない。
そこで伊織が黒龍から離れて、周囲を焼きつくす業火に向かって〈銀旋風〉を放った。今度は黒龍の血眼めがけて業火を吹き飛ばす。
己の業火が双眸を焼いた。そう認識した黒龍は刹那に動きを止めて悶える。
〈無空〉という鉄壁の防御があるため負傷こそしないものの、自我を失っている黒龍にそれを把握する術はない。それゆえ負傷したと錯覚し、ひるんだ。
「桜夜ちゃん!」
うまく黒龍の動きを止めてくれた伊織に感謝し、桜夜は弟の変わり果てた手へと己のそれを伸ばす。
「蓮夜」
痛いね。苦しいね。
「ごめんね。もう大丈夫だから」
姉ちゃんが今、助けてあげるから。
「だからもう、帰ろう」
儚い微笑をたたえながらそう言い聞かせ、桜夜は瞬時にごつごつとした右手首に呪具をはめた。すると数珠が淡く光り、縛りつけるように蓮夜の手首をきつく締め上げた。
再封印による影響か、それとも繋縛の痛みによるものか。黒龍はこれまで以上に痛烈な咆哮を天に向かって轟かせた。
神籟が天地を揺るがした後、黒龍は頽れてその場に伏す。同時に〈炎獄〉も消えた。
「蓮夜!」
桜夜たちが駆け寄ると、黒龍の鱗が剥がれ落ちて次第に人の姿へと移り変わる。桜夜は元に戻った蓮夜を抱きかかえ、心拍を確認した。
かなり弱いが、心臓は確かに動いている。
「良かった……」
ほっと安堵の息を弱く吐くと、視界が揺らいで雫が両頬を伝った。
「蓮夜……!」
昏睡する弟を苦しめないようそっと抱きしめ、桜夜は忍び泣いた。
「とりあえず、早くここから避難せな」
このままだと業火に呑み込まれてしまう。
桜夜たちは他の親兵たちの手を借りながら早々に下山した。だが、いつの間にか意識を失い、己の心臓は止まっていた。




