第37話 最愛をこの手で
目が覚めると、そこには静謐で美しい光景が広がっていた。
霧深いところで、眼前には流麗な河川が敷かれていた。対岸には人影があり、目を凝らすと柳夜が立っていた。
「父上!」
「桜夜」
懐かしい声音で呼びかけられ、桜夜は父の元へ走り出そうとした。だが――
「来るな」
制止され、桜夜は河川の手前で踏みとどまる。
「まだこちらに来る時ではない。お前を待っている人たちがいるだろう」
「父上……」
「蓮夜を任せたぞ」
「待ってください! 父上!」
手を伸ばしても、柳夜はこちらに来ることもせずに背を向けた。
「父上っ!」
それから柳夜は振り返ることなく、濃霧のなかへと消えていった。
自然と瞼が持ち上がり、眩しい光が差し込んだ。
一瞬、目を瞑って再び目を開く。ぼんやりとした視界に映ったのは白亜の天井。どうやら自分は横たわっているらしい。
「桜夜ちゃん!」
ふと、聞き慣れた呼声がして桜夜は呼ばれた方向に顔を向ける。
「伊織……」
「はぁ、良かった。目ぇ覚めて」
心から安堵する伊織の姿に、桜夜は上体を起こそうとした。その際、すかさず伊織が支えに入る。
「ここは……」
「親兵局の医局や。桜夜ちゃん、下山した後に心拍停止して、一時期は危ない状態だったんやで。あれから二週間ずっと昏睡状態やったし」
「二週間も……」
「まあ、ボクは三日後くらいには目ぇ覚めて、回復系神技さまさまで一週間後には全快したんやけど」
「そうだったのか……」
そこでようやく意識がはっきりしてきて、桜夜は焦ったように言う。
「蓮夜は⁉」
伊織は隣の寝台を指さす。視線を辿ると、昏々と眠っている蓮夜がいた。
「蓮夜!」
「医師の話やと、あともうちょい遅かったら確実に死んでたって」
「いつ、目を覚ますんだ」
「わからへん。桜夜ちゃんみたいにもうすぐ起きるかもしれへんし、最悪、植物状態のままもあり得るって」
「そん、な……」
桜夜は寝台から降りようとする。その時、伊織が手を貸してくれ、ゆっくりと蓮夜の傍まで移動した。
「蓮夜」
華奢な繊手を包みこみ、額につけた。
「お願い。目を覚まして」
またあの笑顔を見せて。
姉ちゃんって呼んで。
「私はここにいるから」
しかし、いくら祈りを捧げても現状は変わらない。
伊織は桜夜の肩を柔く叩き、寝台に戻るよう言った。
「ありがとう。桜夜ちゃん」
「何だ急に」
「もう、せっかくこのボクが感謝してるっていうのに、そんな怪しい目で見んといてよ。あの時、桜夜ちゃんが助けてくれてなかったら、ボクはここに立ってなかったかもしれん。悔しいけど、桜夜ちゃんが助けてくれたから、ボクはまだ生きていられてる」
ほんまに、ありがとう。
伊織が首を垂れたことで、彼の謝意が真剣なものであることがよくわかった。
桜夜は微笑を浮かべ、「礼を言うのはこちらのほうだ」と返す。
「私も伊織や増美さんたちに助けられた。ありがとう」
「お互い、どういたしましてやな」
「そうだな」
その後、桜夜は増長たちの容態も聞いた。増長と額は別室で集中治療を受けており、両者もまだ目覚めていないそうだ。だが、徐々に回復傾向にあるということで、目を覚ます日も遠くはないらしい。
「じゃ、そろそろ行くわ。桜夜ちゃんも大人しく寝とくんやで」
「ああ」
「何なら、ボクが子守歌歌って寝かしつけたろか」
「やめろ。余計に寝れなくなる」
軽口を叩き合って、両者はひとまず別れた。
桜夜は再び横たわり、最愛の弟を見つめる。
「父上」
いま思えば、あれは三途の川だったのだろう。
だが、父は確かに『蓮夜を任せたぞ』と言った。
「早く蓮夜を目覚めさせてください」
早くこの手で蓮夜を抱きしめたい。温もりを感じたい。
離れがたい想いを持て余しながら、桜夜は眠った。
*****
一週間もすれば桜夜は全快し、伊織とともに寧子に謁見できるようになっていた。
桜夜たちは御成になったうら若い女皇に叩頭する。
「二人とも、顔を上げてください」
言われた通り、桜夜と伊織は顔を上げて寧子を見据える。
「無事に体調が回復したようで良かった。回復早々、呼び出してしまってごめんなさい」
「いえ」
「寧子様のお呼びがあれば輪西にいようが輪北にいようが、いつでも馳せ参じますから」
いつもの調子でちゃらける伊織に、寧子も安心したように目を細めた。
「あらためて、今回の征討任務、本当にお疲れさまでした。そしてよくやってくれました。心から礼を言います。ありがとう」
寧子が頭を下げるのに伴い、桜夜と伊織も額を床板につける。
「蓮夜の奪還も叶い、あとは皆の療養に力を尽くすだけになりました。わたしもできる限り援助します。何かあればいつでも遠慮なく言ってちょうだい」
『はい。ありがとうございます』
両者が謝意を述べたところで、伊織は「そういえば」と切り出す。
「嵐慶らの遺体と生き残った雑魚はどうしたんですか」
「雑魚って……。遺体は事後処理に向かった第二部隊が丁重に埋葬してくれたわ。生き残った残兵は全員捕縛して、今は親兵局の地下牢に収監されている。……心苦しいけれど、嵐慶たちを征討すると決意した以上、極刑にせざるを得ないわ」
「別に心苦しく思う必要ないですけどね。謀反者は死刑っていうのが世の常ですから」
あっけらかんと言ってのける伊織に苦笑しつつ、寧子は続けた。
「とにかく、あなたたちもしばらくの間は安静にね。無茶は禁物よ。特に伊織、あなたはすぐ修練か任務に行こうとするんだから、最低一月は大人しくしておくように。これは勅令です」
「一月も⁉ ボク、もうこんなにピンピンしてるのに。ていうか、そんなに長く刀振らんかったら腕が鈍りますよ」
「あら、あなたにしては珍しく弱気な発言ね。一か月何もしなかったくらいで腕が鈍るような剣士なの? あなたは」
虚を衝かれ、伊織は目を瞬く。そして苦笑し、肩を竦めた。
「額ちゃんみたいなことゆうようになりましたね、寧子様」
「あの子の代わりに言ってあげたのよ。桜夜」
「はい」
視線を向けられ、桜夜は居住まいを正す。
「蓮夜のことはとても心配でしょうけど、あまり気を張り過ぎないようにね」
「……はい」
俯きがちに返答した桜夜に、寧子は柔和な声音のまま諭した。
「ちゃんと食べて、寝て、一日一日を安らかに過ごしなさい。これも勅令です」
桜夜は「承知いたしました」と再び叩頭した。
「伊織。桜夜のことお願いね」
「お任せあれ」
寧子は首肯し、功労者たちに下がるよう下知した。
桜夜と伊織は叩頭し、黄央殿を後にした。
*****
後日、桜夜は伊織とともに輪南の紀和を訪れた。
紀和で最も大きな河川である日追川。かつて先祖である龍蛇神が棲んでいたとされる由緒ある河川で、その近くには紀和寺という紀和最古の寺がある。紀和寺が所有している霊園には清水家の墓があり、今日はその墓参りに訪れていた。
柳夜の遺骨は入っていない。おそらく完全変化した状態で息を引き取ったため、無念にも嵐慶たちの手によってばらばらにされたのだろう。だが、先祖たちの遺骨とともに柳夜の魂はここに眠っている。
百合の花を供え、線香に火を灯す。くゆる芳香に満たされた静謐な空間のなかで、桜夜と伊織は合掌した。
――父上、すべて終わりました。
あの日、あなたが命を懸けて私たちを逃がしてくれたから。
頼もしい仲間と出会い、長年の呪縛を断つことができた。
「ありがとうございました」
その後、両者は霊園を後にし、〈大烏〉に乗って輪央への空路を進んだ。
「額さんの様子はどうだ? 目を覚まして以降、あまり会っていないから」
「そうやなあ。ボクらの前では平静を取り繕ってるけど、やっぱり心の整理がついてないんか、いつもの覇気がないような気するわ」
額と増長は桜夜が目を覚ました三日後に意識を取り戻した。今ではすっかり回復し、いつも通りの日常を送っている。だが、額は佳弥の訃報を耳にしてからというもの、時折、消沈した面様を見せるようになっていた。
『……そうですか』
真相を聞かされた額はただ一言そう呟き、それ以上は何も語らなかった。
「まあ大事な弟子が裏切った挙句、その命を散らしたんやからな。ああなるのも仕方ない」
「……蓮夜が目を覚ましたら、佳弥さんのことをちゃんと伝えるべきだろうか」
「そうやなあ。隠し通すにしても、いずれ蓮夜くんも違和感に気づいて最終的には真実を知ることになるやろうし。それやったら蓮夜くんが本調子になったところで切り出したほうがええんとちゃうかな」
「……そうだな」
懸念を隠せない桜夜に、伊織は「大丈夫」と肩を軽く叩く。
「蓮夜くんには超絶頼りになる偉大なお姉ちゃんがおる。人は独りじゃない限り、ちゃんと前向いて歩ける生き物やから」
「伊織……」
「ていうか、そもそも独りの人間なんておらんから。独りやと思ってるんは自分に差し伸べてくれてる手に気づいていないか、一方的に拒んでるだけ。蓮夜くんはそうじゃないから大丈夫」
桜夜は目を瞠り、わずかに花唇を開いたまま伊織を凝視する。
「ん? どうしたん」
「いや、お前が言う台詞とは思えないほど深い励ましの言葉だったから、驚いて」
「失礼やな。ボクはいつだって深ーい言葉ゆってるで」
「浅慮な言葉の間違いだろう」
「相変わらず辛辣やなあ」
不毛な応酬さえも、今は桜夜の沈んだ心を軽くしてくれる。
桜夜の笑顔が増えたことに、伊織は秘かに安堵と喜びを噛みしめていた。
*****
日没前に親兵局の局舎に着き、各々の私室へ向かおうとした時。蓮夜の治療を担当していた医師が、血相を変えて二人のもとに駆けてきた。
医師の知らせを受け、両者は弾かれたように治療室へと向かう。
入室すると、蓮夜が横たわっている寝台に複数の医局員が佇んでいた。医局員たちは場所を開け、桜夜たちを寝台の真横に通す。
桜夜は両膝をつき、蓮夜の手をとる。
何度も弟の名を紡ぐ。呼びかける。
すると、ぴくりと蓮夜の手が動き、やがて最も美しい真紅の双眸が露わになった。
「ねえ、ちゃん……?」
その声音は歓喜の涙を誘い、桜夜は最愛をこの手で抱きしめた。




