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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第36章『紙ヒコーキ』

 最初は信じられないといった表情を見せた二人だったが、やがて納得したように、トシとちひろは強風にあおられながらも、やっとの思いで立ち上がった。


「人はみな、鎧兜をつけておるのじゃ。仮面と言ったほうが分かりやすかもしれん」と、百眼が言う。「正しい鎧兜もあれば、そうでないものもある」二人は黙って耳を傾けた。「彼女は間違ったものをつけていたのかもしれぬ」


「鎧兜?」と、娘は首をかしげた。「百眼とか鎧兜とか、私、わけ分かんない」


「ちひろよ、お前には少し難しい話かもしれないな。きっと大人になれば理解できる」――――二人は、そのときハッキリとは認識してはいなかったが、父の鎧兜には『百眼の巨人』という称号があるとするのならば、彼女には『古典の杜』、戸塚さんには『月下に泣くペネロープ』という名称があり、トシのそれにはまだ何もなかった。


「嘘と真、建前と本音を使い分けるのに似て、そのときの状況や気分や相手を見て鎧兜を選ぶわけだ。あの二人もそうじゃった」


「何となく分かっていた」と、トシが返す。「あのとき、彼女の魔物、幽鬼を見たんだ」


「そうだトシよ、人の心を見抜くのじゃ。言葉が悪いというのであれば、理解するのじゃ」と、百眼の巨人。「おまえならば、それができるはず」


 トシはまだ病人のようにフラついてはいたが、ちひろに支えられながら正気に戻ろうと首を小刻みに左右へ振った。


「大丈夫だ。ありがとう」と、彼は言った。「ちひろ、どう言えばいいのか。今まで悪かった。僕はきみのことを……」


「別にいいのよ」と、ちひろは小さく微笑んだ。「トシ君だけは、私のこと分かってくれているから」


 そのとき、砂塵を巻き上げながら校庭の中央付近に風が集まり、やがて竜巻になった。男は、その光景を見て小さくうなった。


「どうしたんですか」


「いや、何でもない」


 百眼の巨人は、鎧をガチャガチャ鳴らしながら二人へ歩み寄り、両手をそれぞれの肩へ置いた。鎧の重みがどっしりと二人に伝わった。そして、言葉の印象を強くするために、わざと間を置いてから話しを続けた。 


「この世には恐ろしいことがたくさんあるが、いちばん恐ろしいのは、見たり、考えたり、想像したりしないことだ。前を見ていても、背後で何が起きているか分からん。我々は今、どこにいるのだろうか。そして、どこへ向かおうとしているのか。それを見据えるのだ。時代は常に変化しておる。たとえ苦難が待ち受けていようとも、それを乗り越えなければならぬ」


「そう思います。人はよく過ちを犯すから。でも、いつも思うのですが、どうすれば、人は、日本は、時代は、良くなるのでしょうか」


「青臭いのー。たとえワシが百眼の巨人だとしても、偉そうな予言などはせぬ。正直、すべての行く末を見通せぬ。それは神のみぞ知る。これから何が起ころうとも決してうろたえたりはしない。過去と同様、未来もまた既に決まっておる。今まで人間が何かを変えても、上手く事が運んだためしなどないではないか。時代の流れに身を委ねなくてはならない。だからこそ歴史が重要なのじゃ。たいていのことは過去が物語っておる。歴史は『原因』と『結果』の繰り返しなのだ。それが人の『運命』になって歴史に刻み込まれるのだ」


 トシは苦笑した。言い方が説教じみていていたからだ。もっとも老人の言葉に真実があったからでもある。彼は校庭を見つめた。学校に古くから伝わる幽霊話を思い出した。


「でも、未来は変えないと。もちろん自然の猛威とか災害とか、人間には変えられないこともあって……」自分の言いたいことを上手く説明できずに、一度、唾を飲み込んだ。そして、続けた。「でも、それも僕たちへの警告かもしれない。過去を変えることができなくても、未来にはいくつもの道があります。未来は選べる。正しい未来を。大切でないことなどひとつもない。あれを見てください」


 トシは校庭の真ん中を指差した。「僕はずっと気になっていたんです。竜巻のなかに見えるのは幽霊でも怪奇現象でもない。あの向こう側に何かある。引きつけられる何かが」


「この風は、『しなとの風(※罪や悪、汚れた心を吹き払う風の名称)』と呼ばれておる」


「これは時代の渦ですよ。僕が行って見てみます」


「いや待て! 一度入ったら二度と戻れぬかもしれぬ」


「やめて。危ないわ、トシ君」


 ちひろは両手を組み合わせ、懇願するように叫んだ。


「お願いだから」


 竜巻は、校庭の真ん中で轟音をとどろかせながら砂塵を巻き上げ、近くにあった枯葉やゴミくずなどを吸い込んでいく。渦の頂点が夜空へ到達すると、ときおり乱気流のなかで電磁波か静電気か、電流がショートしたようにパチパチと火花を散らした。


「大丈夫だよ」


(この間、屋上でやったようにすればいいのさ)と、もうひとりの自分。


 あのときトシは、こちら側からあちらへ、あちら側からこちらへ、視点、立ち位置を自由自在に変えて物事を見て、判断し、行動することができた。


「僕はできる。どこへでも行ける。現実を、世界を、歴史を、地球をも動かしてみせる」


「何を言っているの」 


「トシよ、やめなさい」


 そのとき、竜巻のなかに何かがうごめいているのが見えた。怪物のような、人間のような。それはハッキリとはしなかったけれど、怒り、悲しみ、苦しみ、悶えていた。


「すぐ戻るから」


 二人の制止を振り切るように、彼は花壇を駆け下り、校庭の真ん中へ突き進んで行く。風は一層強くなり、トシは、一度竜巻に跳ね飛ばされそうになるも、今度は歯を食いしばり両手に力を込めて渦をこじ開け、体を竜巻の中へ押し込むように入る。最初は手が、次に足が、それから顔が、さらに体の前半分が見えなくなり、とうとう彼の姿は竜巻のなかへすっぽり隠れて消えてしまった。


 そして最後、耳を劈くような轟音が夜空へ響き渡った。


「トシ君!」


 彼女の叫びは、虚しさとなって、はかなく消えた。やがて風が止み、竜巻が消え、辺りに静寂が戻った。星がチラチラ輝き始める。


 五分、一〇分……。しかし、トシは戻ってこない。疲れた顔の満月は地平線へ沈もうとしている。コウモリの影が月夜に怪しく飛び交い、犬の遠吠えが聞こえた。


「さあ、もう帰ろうか、ちひろ」


「彼は気が狂ってしまったの?」


「下手くそな生き方をする男は多い。でも、気が狂ったわけじゃない。この世で気を狂わすものと言えば、ミニスカートと政治家くらいなものじゃ」そう言って、父は笑った。


「ハレンチね。冗談はやめて」


「いや、冗談ではない。もはや彼は戻っては来ない」


「嘘よ、彼はすぐ戻ってくるって言ったわ」


「これから先、彼には長く辛い旅が待っているんじゃ」


「どうして。どうして彼は行ってしまったの」


「強い思いがあったかもしれん。彼の夢は『世界へ』だったからな」


――――世界。いろいろな人々がいて、多種多様な文化を持ち、様々な宗教があり、とてつもなく広いということくらい、彼女でも知っている。人並み程度には国や都市や風景に興味を持っている。しかし、それらの実感がない。――――彼女はこれまで二度の海外旅行を経験している。一度目はハワイ。二度目はオーストラリアだった。短大卒業の春に行ったハワイでは、ワイキキビーチで海水浴をして、夜はアバンチュールを楽しんだ(相手は日本人男性だったけれど)。三年後の新婚旅行で行ったオーストラリアでも買い物や観光を満喫したが、アボリジニに関しては無知だった。


 世界について覚えていることと言えば、幼い頃に地球儀をクルクルまわして遊んだことくらいだろう。メリーゴーランドのように。海や山や砂漠の、青や緑や黄色に、赤道や経線や緯線を描いた色が混ざり合い、回せば回すほど金色に近いオレンジ色に輝く球体になったことを印象として何となく覚えている。


 果たして今、世界をクルクル回したら、どんな色になってしまうのだろうか。


 そんなことを考えつつ、世界とトシと彼を飲み込んだ風の関係について、そちらのほうに思いをめぐらせてみたが、もつれたままで、結局、そのときは何の糸口も見つからなかった。


「あの人の夢は、留学のはずじゃ……」


「うむ。正直言って少し難しかったのではないか。成績にせよ、家庭の事情にせよ、何にせよ。それでも彼が望んだことが実際に起こったわけだ」


「彼はずっと遠くへ行ってしまったの?」


 父は唇を噛み締めながら、小さく頷いた。


「トシ君のこと、とても好きだったのに」


「とても」を強調した。彼女の言葉は、切なく愛おしく、ちょっと悲しげな響きがあった。


 すると突然、校舎の屋上から数百羽の白いハトが天空へ華やかに飛び立った。ちひろが頭を上げ、瞳を輝かせた。続いて父も……。二人は肩を並べて美しい光景を見つめた。


 鳥はまるで粉雪のように宙に舞い、一度、四方八方に散ったかに見えたが、すぐに二人の頭上の一点へ集まり始め、翼を広げ、隊列を組み、螺旋状になって上昇していく。それからバベルの塔のように天空へ到達すると、やがて暗闇を純白に染めた。それはもしかすると鳥ではなく、クラスメイトらが放った紙ヒコーキだったかもしれない。


 飛べ、高く、遠くへ。

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