■第35章『トシは見た』
あれは、五月のある昼休み。
用務員さんは、花壇で手入れをしていた。トシは彼のそばにいて、両手を太ももへ置き、膝が軽く曲がるくらいに佇み、声をかけた。
「手入れ、大変ですか」
用務員さんがトシのほうへ振り向いたその瞬間。何か予期せぬ光景がトシの眼に飛び込んできたのだ。それはまさしく屋上で起こった出来事に違いなかった。が、しかし、彼の背後の、しかも頭上高くで何が起きたのか、彼自身には到底分かるはずはない。でも、彼は見た。何かを。おかしい。
「僕は、何を見たのですか?」トシが尋ねる。百眼は答える。「ワシが見たものを見たのじゃ」
次の瞬間、屋上に設置された水銀灯の眩しい光がトシの眼を射した。思わずひるんだが、光りの残像が消える前に彼は言い放った。
「これだ!」
やっと気がついた。今が夜だったから、暗かったからそれがハッキリ分かった。暗闇のなかで猫の眼が光りを反射させるように、水銀灯の光りによって老人の眼が光った。光りが、光景が、眼に反射して映ったのだ。用務員さんの大きな眼球に、ほんのわずかな瞬間、屋上の光景が映し出され、トシは間接的にそれを垣間見たのだった。
「ワシも、あのときは驚いた」
屋上で一体何があったのか。
心臓が鳴る。緊張が一気に高まる。不安、恐怖、警戒。ドローン効果のようなサイケなざわめきが波のように押し寄せてくる。鈍く重たい感情の起伏。ドンドンドン。それが繰り返され、積み重ねられる。音の周波数がいよいよ頂点に達したとき、トシの眼の前にあのときの光景がよみがえった。ほんのわずか一、二秒の出来事がゆっくりと、ハッキリと。
「屋上に誰かいるぞ」
男女二人の姿。あれは、カレンと八津だ。二人は何か言い合っている。手が、体が、激しくからみ合い、制服が乱れ、争う姿が見えた。もつれ合って両者の体が交互に屋上の手すりに激しくぶつかる。まるで戦場だ。修羅場だ。地獄だ。
「カレンが危ない!」
そのときである。トシは予期せぬ光景を見てしまった。手すりから上半身が飛び出て今にも下へ落ちそうだ。彼女ではない。不意をつかれた驚きと後顧の憂いで複雑な表情を見せたのは八津のほうだった。
「何てことするんだ」
「地獄へ堕ちて死ね」カレンは悪霊に取り憑かれたか、気でも狂ったかのように不敵な笑みを浮かべ、手すりの上へ彼の体を思い切って押しあげた。
それから先は、緊張感をはるかに超えた恐怖のアドレナリンが全身を支配した。カメラのシャッターを切るように、光景がコマ送りされるかのごとく、ゆっくりと場面が進む。
屋上にいる八津の黒い学生服が一瞬、宙に浮く。
二階から、無数の白い紙ヒコーキが飛んでいく。
クラスメイトらが窓越しで無邪気に笑っている。
太陽の眩しい光りがそれらを照らし出している。
場面ひとつひとつが、トシの眼にシッカリと焼き付けられた。世界が音もなく静止してしまったかのように、灰色の顔、断末魔の恐怖におののく彼の表情を、ハッキリと見てしまったのだ。
が、しかし決して時間は止まらない。次の瞬間、静止した場面が勢いよく動き出す。八津が急降下する。真っ逆さまに。
「うわっ、助けなきゃ」
そのとき。屋上の真下にあったのは鉄柵だった。先日の夜は、校舎の裏側にあった。それがなぜか今、校舎の前にあり、鋭利な先端を光り輝かせて突き立っているではないか。閃光が走る。この感覚は何だ。時間が後戻りしたかのように、同じ場面が眼の前に現れた。既視感。デジャブと呼ばれるそれは過去でもなく現在でもなく、記憶のなかで交錯する無時間の体験だった。
「突き刺さる!」
トシの叫びは声になっていない。眼をきつく閉じ、現実よりも早く結末を見たような気がした。
ところが、再び眼を開けてみると、鉄柵はなかった。気のせいか。良かった。その代わりに色とりどりの花々に覆われた、柔らかそうな花壇が横たわっている。あそこならば少しはクッション代わりになるだろう、無事に助かるだろう、と思えた。
八津の体は屋上からみるみる落ちていく。
そして、……
トシのわずかな願いは虚しく崩れ去った。
八津は、花壇の横に伸びたぶ厚いアスファルトの上に激突したのだ。首がへし折れ、頭が砕け、肩がはずれ、倒れた体のあちこちから赤紫色の濃いベタベタした血が地面に広がっていく。なぜか最期、下半身だけ二、三回ミミズのようにのた打ちまわった。
トシはわが身のように強烈な痛みを感じ、両手で頭を抱え、髪の毛をかき乱した。絶望感が真上から降り注ぐ。倒れるかのごとくその場にかがみ込んだ。そして、思わず吐きそうになった。元彼の無残な姿とともにカレンの残虐な行為に胸がむかついた。それ以上に、自分が何もできずに彼女のそばにもいてやれなかった悔しさにも似た空虚感。ちひろが駆け寄り心配そうにトシを覗き込む。
青ざめたトシの横顔を見ながら何が一体どうなっているのか彼女にはさっぱり見当もつかない。
「どうしたの。何を見たの?」ただ、彼の苦しみを少しでも和らげようと、背中に手をやり、「トシ君」「トシ君」と何度も言葉をかけた。
思いやる気持ち。それが唯一の愛であった。トシの心境を察知したかのように校庭に風が吹き込んできた。それが唯一の音だった。
花壇にかがんでいた校長先生がゆっくりと体を起こし、トシとちひろに向かって話しかけた。「分かったようだな。あのとき、見たものは彼女の心情そのものだった。軽蔑、苛立ち、憎しみ、偽り、そして、殺意……。まるで暗殺者になったかのようだった」
ちひろが驚いて尋ねる。
「まさか、殺したの!」
風がヒューヒューとうなりながら、しだいに強くなっていく。
「トシが見たのはカレンの心の内じゃ。悪意に満ちた心、狂気、それを抱いてしまったことに悩まされ、苦しみ、思いのほか病んでいたに違いない。美しい顔の下は毒で犯されていたのじゃ。後悔。自己嫌悪。あるいは別な言い方をするならば良心の呵責というやつじゃ。彼女自身とても辛かったろう」
「まぁ、何てひどい!」ちひろは、それ以上の言葉を謹んだ。「カレンちゃんだって被害者なのに」
世界は真っ二つに割れた。そして反転して正義が悪に、悪は正義に味方したのだ。みなが「地獄の一丁目」と言った。三人は無言で顔を見合わせた。




