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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第34章『手紙の一文』

 次の瞬間、何かが地面に落ちた。その何かは鍵に違いなかった。


 校長先生がポケットのなかに持っていたのは、銀色に輝く大小いくつもの鍵をつけた大きくて丸い鍵束だった。水銀灯の光で一瞬きらりと光る。階段のレンガの上にそれが落ちたとき、わずかに音がした。体育館にいたときもそうだ。鈴の音のような、自転車のベルのような、ビー玉が転がるような……。「学校中のいろいろな扉の鍵を持っているからな」と、校長がそれをつまみ拾い上げるときにも同様の音がしてトシは何かを悟った。


 落ちて、弾けて、転がった。


 トシは、これまで聞いたすべての音を次々に思い起こしていた。心の映像はなかなかすぐに思いつかなかったが、音はダイレクトに耳という洞窟に響き、脳裏に反響した。そうして直感的にあのときの音は、鈴でも自転車のベルでも鍵でもビー玉でもない、と結論づけた。なぜなら、必然性がなかったから。校長先生は、自分が必要だからこそ鍵の束を持っていたのだ。それを考えると、鈴も自転車のベルもビー玉も、あの場面ではあり得ない音だ。誰もが持っていそうなもの。音の出るもの。何だ。そうだ、あれだ。あれしかない。お金だ。お金が落ちたのだ。小銭が床にばら撒かれる音だ。


 ポケットにいつも小銭を忍ばせているか、あるいは何かを買ったときのおつりがあり、しかも手をポケットにつっこんでいた。それで手を抜こうとしたとき、たぶん驚いた拍子に違いない。お金を床にばら撒いてしまったのだ。


 小銭をジャラジャラいわせているやつ。それがアイツだとすると……。やはり、ちひろの言う通りなのかもしれない。つい先ほども、みんなが円になって話し合っているとき、誰かのポケットからジャラジャラ音が聞こえた……。


 生徒会長。


 が、しかし。ちょっと待てよ。彼は、考えるときによくやる癖を、再び意識的にして見せた。


 トシは、生徒会長の身になって考えた。彼なりの仮説に過ぎなかったが。もし、自分がアイツならば(手がかりになるようなこと)ポケットの中でジャラジャラと音は鳴らさない。堅実に生きている人間は、わざと音を鳴らして見せるようなリスクを冒さないだろう。面白半分に挑戦的な態度で、わざと音を鳴らすことも考えられなくもない。でも、やるにしても、もっと前にやっていてもおかしくない。彼は愚かでもバカでもない。秀才で生徒会長を務めていて校内でもひと際眼立つ存在だから、もし張本人ならば京介さんらにとっくに正体を暴かれてしかるべきなのだ。しかも、生徒会長とカレンとの接点などまったくない。


 どうやら生徒会長はクロとは言い切れないのではないか、という風に落ち着いた。そして、その考えのまったく別のところにいる意外な人物こそ……。


 彼は、カレンの手紙文をもういちどしっかりと読むように、思い返してみた。発声練習をするように。すると、最後の一行に何か奇妙な感覚があって、それが耳の奥で反響した。立ち去ろうとする校長先生の後ろ姿に、いま一度声をかけた。


「もしかすると、もしも、ですよ。アイツの正体をずーっとつき止めようとしていたけれど、アイツなんていう男はいないのでは。僕はそう思うのです」


 校長先生は立ち止まり、後ろ向きのまま首だけ少し横に向けて彼の言葉を聞いた。


「アイツはいなかった、ですって!」


 ちひろが叫んだ。そんなバカな、と言う代わりに彼の腕を強く握り、大きく揺り動かした。彼女はうろたえていた。 


「アイツは、生徒会長に違いないのに! そうよ。そうに決まってる」


 小さな沈黙。大きな波紋。が、トシは動じなかった。


「決めつけたらダメだよ。動機が分からない。それに二人の関係も不明確だ」


 ちひろは、バークリーの推理小説を思い出した。結論を先に決めてそれに合うような動機づけ、展開、都合のいいストーリーを作っていくやり方は推理ではない、と。


「そうね。ごめんなさい」


 校長は二人の会話に軽く頷き、話を進めた。


「ふむ。手紙からヒントを得られたのか」


「ヒントだなんて。答えですよ」


「答えか!」


 校長先生の大きな声が校舎に反響する。と同時に、地鳴りとともに足元が大きく揺れ動く。さらにヒューという、か細い口笛のような音色とともにどこからともなく冷たい風が吹き、天に輝いていた月は黒い手によって隠され、辺りは暗黒の世界へと変貌する。


「おまえに見せたいものがある」


 トシは、大きな津波が背後に迫ってくるのを感じた。


 老人が、おもむろに自ら服を脱ぎ始めると、動くたびに体がガチャガチャ鳴った。最初、ゆっくりと上着を脱ぎ捨て、いきなりシャツを破り始める。そしてついに、ついにだ。中からいぶし銀に輝く鎧の一部が見えたのだ。中世の騎士が纏っていた鋼鉄の鎧だ。


「やめてー」


 ちひろが絶叫した。


 三メートル、五メートル……。男の体が少しずつ大きくなっていくようだった。両手で頭を抱え白い髪の毛をかき乱す。さらに上体を前後左右に揺らして、もがき始めた。その姿は何とも苦しそうで痛そうだった。彼のうめき声は、狼の遠吠えのようにも聞こえた。哀しそうでもあった。とうとうその姿は巨大な獣のごとく、トシの前に立ちふさがった。


「うおお!」


 トシは狂乱した。信じられないといった風に、震える手で口を塞ぎ、後ずさりし、でも視線だけは老人からしっかり離さずに堪えた。その顔は、顔というより大小無数の眼の集合体。百眼だ。まさしく百眼の巨人だ。よく見ると多数の眼がトシを見つめ、ほかのいくつかの眼は隣のちひろを、残りの眼の視線は四方八方へ散っている。


 顔は膨れ上がり、もはや元の面影は微塵も感じられない。半透明のピンク色の薄い皮膚から、いくつもの血管がミミズ腫れのように浮き出て、その中を赤黒い血が流れているのが透けて見える。針でも突き刺そうものなら血しぶきが、あたり一面を真っ赤に染めるに違いない。さらに、焼けただれた醜い大きな眼球のひとつ――――それには一九四五という数字が刻印されていた――――は、ヌルヌルしていて今にもこぼれ落ちそうだった。痛そうで、苦しそうで、悲しそうで……。老人は、やっとの思いで声を発した。


「み、見よ。見るがいい。これまで、いろいろな歴史や時代を見てきた眼たちじゃ」


 やっぱり。校長先生は歴史のすべてを、その眼で見てきたのだ。あまりにも多くの残虐シーン、無残な光景を見たため、奇怪な眼になってしまったのかもしれない。眼は、奇怪である半面、悲壮感さえ漂わせている。


「僕は、答えを見つけたのです」


「そうか!」 


「そうです」


 トシは、百眼の巨人に微笑んだ。巨人も笑った。


「僕は手紙の一文をいつしか「やつ」から「アイツ」と言い換えていた。いや、思い違いと言えるかもしれません。一度、頭にこびりついた言葉は、何度も口にしているとそれが当たり前になり、やがて何の疑いも持たなくなるのです」


 いちばん筋の通った答えは、いちばん単純なものだった。


 彼は、手紙の一文を声に出して二度繰り返した。


 最初は「ヤツ」の部分の頭にアクセントをつけて。その次は違うように発音した。すると、老人は片方の手を顎にやり、トシのことを感心した様子で見入った。顔中にくっついている眼玉たちもギョロギョロしていた。ちひろは小さな口をポックリと大きく開けて放心状態だ。


「見事な詰めじゃ」


 頭文字の「ヤ」にアクセントを置いて発音すると「ヤツ」は「やつ」であり、日本語の文法における二人称代名詞としては「お前」とか「貴様」などと同じ用語である。それはこの間の現代国語の授業で習った。ところがどうだろう、二回目に「ヤツ」の二文字を平坦に発音したときの「ヤツ」は、その語句の響きが人の名前のように聞こえるのだった。


 トシは、発音の違いで解決したのだ。


 やつ。ヤツ。あいつ。アイツ。いずれでもない。カレンを悩ませていた犯人は。


「八津ですね。あのリーゼント頭の!」


「えーっ」


 ちひろは、トシが発音から答えを導き出したこと、自分の思惑と違っていたことの驚きでうろたえた。


「京介さんはずっとカレンを苦しめる犯人を探していたんだ。でも、見つからなかった。なぜなら、いつも彼の後ろに付いていたから。よもや自分のすぐ近くに、仲間のなかにいたなんて、気がつかないわけですよね。スパイもどき、一種のゲリラ戦術みたいな。八津は、京介さんとカレンの二人だけの秘密(従兄同士)を知っていた。京介さんは誰にも秘密を洩らさなかったのに。これは推測に過ぎないのですが、彼はカレンと親密な関係があり、彼女から何らかの機会に二人のことを聞き出したのでしょう。それにもうひとつ。屋上の鍵だって、彼が美術部であれば部活で利用するという名目で簡単に借りられます。もう少し早くに気がつくべきでした」


 これまでの様々な出来事が鮮やかによみがえった。


「結局、僕は一体……」


 そのとき、ちひろが「男だったら泣きなさいよ」と告げても、きっとトシは笑っただろう。決着はついたのだから。体育館にいたのは彼で、自分は新しい彼氏という単なる代役でしかなかった。カレンの偽りを何となく感づきながらも、それをすべて許してあげようと考えた。京介さんらとの屋上の決闘を思い出す。引き分けた。それでいい。トシ自身、なぜこんなに穏やかな気分になれるのが不思議だった。少しは大人になったということだろう。それにしても、彼が京介さんの存在を恐れ、キャプテンから別の女子へ触手を伸ばそうとしたのは分からないでもない。でも、なぜカレンだったのか。  

 

「トシよ、半分しか分かっておらん!」


 唐突に百眼が叫ぶ。その声がエコーのように校舎に大きくこだました。


「ワシは言ったはずじゃ。彼を悪いやつと決めつけるな。あのときキミが何を見たか、もういちど確認してみるのじゃ」


 トシは、問題がまだ解決されていないことに驚きを覚えた。そればかりか、あのときの状況を思い出し、複雑な心境になった。

 

「あのときって?」ちひろは、トシの背後から頭をのぞかせて問いかけた。


「五月のことだよ」と、ポツリ。


「どうじゃ。再現してみようじゃないか。あのときは、こんなに暗くはなかったが」


 そう言って、百眼は花壇にかがみ込んだ。トシも頷きながらあのときと同じ位置へ立った。ちひろは両者の行動を片隅で固唾を呑んで見守った。


 周囲に緊張感が漲り、校舎全体が夜の静寂に包まれる。外気の冷たさが身にしみて、トシは思わず身震いした。

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