■第32章『トシの言葉』
手強い相手の校長とどう向き合おうか、とトシは考えていた。自らの意志で、親友らの助けもなく、誰にも邪魔されず、たったひとりで。
が、気がつくと隣りにはちひろがいた。
「おい、ついてくるなってば」
トシはちひろがそばにいることが非常に腹立たしく思えた。教室ではいつも横にいる。そして今も。足にまとわりつく子猫のように。
「だって……」
彼女は言葉少なげに、歩みを止め下を向いてしまった。
彼にはちひろの存在が、これまで必要なときもあればうざったいときもあり、例えば金魚のふんか何かに比喩することだってできた。後ろからそろそろとついて来る。決して、一番手にはならない存在。どこの学校にもこういう生徒がいるに違いない。日本中のあちこちに。――――他人任せ。優柔不断。ネクラ。ご都合主義。日陰の性格。陰湿。曖昧。自己中心。それから……。まるで彼女のためにあるような、似た言葉はいくつも思いつく。それは、あたかも日本の社会を象徴するかのようだった。
もうひとりの自分がトシに問う。
(彼女のどこがダメなんだ?)
「ちひろは、ぽっちゃりしてるし」
(外見だけで人を判断するな)
「隣の席からこちらを見てるし」
(小さなことで神経質になるな)
「変ね。誰か、そばにいるの?」
ちひろが首をかしげてトシを見つめてる。
「ちょっと考えさせてくれないか」
彼はいつもの癖で、下唇に指を当てて考えた。「邪魔な存在」
「私、いつもあなたのことを……」。蠟燭の炎のように弱々しい声だった。そうしてうなだれてしまった彼女の姿を見て、少しだけトシの気持ちが揺れた。
ちひろは思った。せめて二人でいるときは哀しい話はやめよって。そばにいるだけでいいから。それが彼女の小さな願いだった。
トシは、今まで横にいる彼女のことを真剣に考えたことはなかった。「嫌い」という二文字が増幅され、真正面からちゃんと見ようとはしなかった。何かモヤモヤした重い空気が彼の心を支配していた。ましてやカレンというあこがれの存在もあった。それはちょうど満ち潮と引き潮みたいなもので、カレンのことを考えると心が満ち溢れる思いだったが、ちひろのことを考えると沈むように憂鬱になった。
もうひとりの自分が言った。
(カレンや戸塚さんを泣かせ、大磯さんまでも。今度はちひろの番か)
「いや、そういうつもりじゃないよ」
(人を好きになれというのは嘘なのか)
「あれは嘘じゃない。本当の気持ちだ」
(デートの約束を守らないのはどうなんだ。自分勝手な男だ)
「すまん。反省してる」
(謝る気持ちがあるのなら、優しい言葉をかけてやれよ)
「分かってる。ちひろにも、いい所はあると思う」
(そうだ。普段の彼女をよく見てみろよ)
押し問答のように、もうひとりの自分と何度も何度もやり取りした。「そうだな。えーと」。トシがちひろへ伝えることができたのは、こんな言葉だった。
――――「小説を読んでいるときのきみが、いちばん素敵だ」――――
ひと呼吸すると、白い息が夜空へ消えた。
少しぎこちなかったが、言い終えると気持ちが楽になった。彼自身にとっては、精一杯の言葉だったかもしれない。それでも決して力んでいたわけではない。平常心のまま、ごく普通に、自然のまま、当たり前のような調子で告げた。なぜなら、普段の、いちばん印象的な彼女の姿だったから。それを言葉にしただけである。
が、ちひろにとっては衝撃に近い驚きだった。トシの言葉は、辞書を引いても図書室で一日中探しても見つからない、とても素敵な言葉に思えた。嬉しいショックと言うべきか。彼女はそれまで知らなかった。彼がそういう風に自分を見てくれていたなんて。
休み時間、一週間に一冊程度の割合で読んでいる。小説が大好きだった。行間を読むなどという難しいことはできなかったけれど、小説を読んでいるときはいつも集中できたし、楽しい時間を過ごせた。それから一冊を読み終えたときの読後感――――切なかったり、考えさせられたり、ちょっぴり泣いたり、笑ったり、あるいは怖くなったり、何となく良かったり、優しい気持ちになれたり、重厚なものを感じ取ったり、反対に気分が軽くなったり、ときには作者の意図が分からず、難解な壁にぶつかり、しばらく空白の時間を過ごしたり。しかし、それでも「これ、スゴくない?」と、おもしろがったり――――は、彼女にとって至福のときだった。――――そういう自分の満たされる気持ちを誰にも伝えたことはないし、自分自身でさえ、はっきりとは意識していなかった。
彼女にとって小説は、地図であり、大学であり、宇宙だった。やがてそれは彼女の骨格となった。
小説から得られる心の泉のようなものを、彼が見抜いて教えてくれたことが何より嬉しかった。例えば、『好きだよ』『愛してる』という言葉もシンプルで素敵だけれど。彼女は思った。彼は、それを別の言い方で伝えてくれたのだ。それは愛の告白も同然だった。自分のことをよく理解してくれているからこそ、と思えた。小説を読んでいるとき、好きな人がそばにいて、私の横顔を見つめている。そう考えただけで胸が熱くなった。
白い息の向こうで、オリオン座がきらめいている。
彼女の感慨をよそに、トシは言葉を続けた。これから謎解きをしようというとき、いちばん必要なのはちひろのような存在なのだ。
「靴紐みたいなやつだな」
「えっ、靴紐って」
「日ごろ、気にならないもの。でも、大切なもの」
「靴ではなくって、紐なの?」
「そうさ。昔から変わらぬもの。目立たないけれどね。つまり、古典的なものさ。ほら、探偵小説にはワトソン役が必要だろ」
「ワトソン? 私が女の子で本当にごめんなさい」
トシはゆっくりと首を縦に振る。ちひろが微笑む。次に、彼は親指と人さし指で輪を作ってみせた。彼女はVサインで応える。そうして二人の間の距離――――心の距離感も近づき、まるで手をつないでいるかのようになった。
彼女の足取りは、肩を並べて歩くのではなく遠慮がちに半歩後ろから、あたかも和服のときの歩き方のように、両手を前で揃えてそろそろとしていた。その様子は見ていてちょっとおかしかったが、彼には彼女の気持ちが手に取るように分かった。




