■第28章『「さよなら」』
十二月中旬のある日。制服投票日が、カレンとの最後の日となった。
凍てつく寒さのなかにあって、生徒が集まるところはどこも熱気が感じられ、もわもわした雰囲気が漂っている。
校門横や玄関口など、校内のあちらこちらに『制服投票日』という大きなタテ看板。校門をくぐって左側の体育館の壁には、詳しい投票のやり方、注意事項が書かれた畳一畳分くらいある大きな紙が貼ってあり、その前に数十人の生徒のかたまりができていた。ひとりひとりの放つ息が白い煙のように宙へ上っている。
朝から学校中が、何だかざわめいていた。「私は、ブレザーがいい」「オレは、私服だな」「ダメ、学生服よ」などと、あちこちで意見が飛び交っている。
投票会場となるのは、体育館。制服審議委員会のメンバーとして、一年生代表の大磯さんとトシは、投票しに来た生徒の案内役を任されていた。実際の投票は放課後に行われる。が、正直言って、彼は投票どころではなかった。別れの日がついに現実味を帯びてきて、心の中にポッカリと穴が開いてしまったような虚脱感があった。
気持ちのどこかに隙間がある。なのに、それを埋めることができない。そんな感じだった。学校中が熱気に包まれているというのに、ゆらゆらした気持ちでいた。
教室へ入り、席についた彼は、この前見た夢は何だったのか。それから井の頭公園での出来事を振り返っていた。楽しいはずの思い出も凍りついてしまったようだ。
「ずっとそばにいて」
最初に約束したカレンの言葉が耳から離れない。朝からトシはため息ばかりついていた。
トシは、現実的な空気をひとり背負い込んでいた。
カレンとの別れのときであり、と同時に、来年度からの制服がどうなるか、それもまた気がかりだった。戸塚さんが投票の準備に追われているだろう。手伝わないといけない。個人的なことと、学校全体のことが、気持ちの中で交錯していた。いろいろ考えると何だか長い一日になりそうだ。深くため息をついた。
彼だけではない。休み時間になると当然のごとく、いろいろな人たちが彼女との別れを惜しむように教室へやって来た。そのなかには当然のごとく、これまで彼と関ってきた人たちが大勢いた。彼はそれを自分の席から見守っていた。
例えば、野球部のツッパリ連中。従兄の京介さんのほか四人が最初だった。あのリーゼント男は、洗いたての髪の毛のように、こざっぱりと短く切って普通の男子になっていた。ごく普通の彼は、結構、かっこよく見えた。
「あっちに行っても元気でな」
優しい微笑みで手を差し伸べる。リーゼント男は両手で彼女の細くて白い手を包み込む。二人は柔らかい握手を交わした。優しさが五パーセント。残りは哀愁でいっぱいだった。
その後、ほかの連中が、ひとしきり別れの挨拶をしている間、京介さんは黙ったままカレンを見つめるだけ。一言も声をかけずにみんなと立ち去った。
それから、次の休み時間にはバドミントン部のキャプテンがやって来た。ディズニーに出てくるダンボのような耳で、彼は話しに耳をそばだてていた。会話は和顔愛語の響きがあった。そして、彼女はカレンと話しを交わした後、当然のごとく、辺りを見渡すのだった。自分の姿を探している。当然のごとく、彼は貝のようになった。重たい気持ちを背負ったやどかりの気分だ。
やどかり君は、誰とも話しはしません。
虚心坦懐でいられないトシは、もじもじしながら彼女とどう接したらいいのか考えていた。
「こんにちは」
座ったまま顔を上げる。机をはさんでキャプテンが立っていた。小さな笑みとともに。
「どうも。牧子さん」「あら」「京介さんから名前を聞きました」「じゃ、知っているのね。あの件だけれど……」彼女のほうも、どういう言葉で説明すればいいのか、少し考えあぐねている風だった。
「いろいろあったけれど」
トシは黙って彼女を見つめていた。
「誤解が解けたんですね」
彼はそれだけしか言わなかった。
その後、彼女はゆっくりと話し始めた。途中、下を向いてしまったり、窓の外を見たり、ときにはカレンのほうへチラリと眼を向けたり、――――その間、カレンは生徒会長と話しをしていた。キャプテンは、何だか自分の話に集中できない、といった感じではあった。そうして断片的に彼へいろいろなことを語ってくれた。
「結局、あなたたちも同じなのね」
京介さんと同じような言葉で締めくくろうとする彼女へ、最後の疑問をぶつけてみた。
「アイツって誰なんですか」
すると、彼女のほうが切り返してきた。
「アイツって、誰よ。元彼のこと? カレンちゃんのこと? それとも……」
「あなたの元彼であり、カレンを悩ませた男のことですよ」
「元彼なんかじゃないわ。あの二人について話すことなんかない。たとえ知っていたとしてもね。きっとこれが最後だから教えておくわ。カレンちゃんは自分自身に悩んでいるのよ」
「えっ」
池へ石を投げ込むように、彼女の言葉は心の中に大きな波紋を投げかけた。そのとき、トシは京介さんになったような気分だった。彼の気持ちでこれまでのことを考えてみようとした。が、キャプテンの視線がカレンへ向いてしまったので、考えがはぐらかされてしまった。
高校を卒業したら、彼はアメリカの大学へ。彼女のほうは日本の短大へ。恋愛って距離とか環境とか、周囲の状況に左右されやすいのだろうな。カレンと自分との関係も、やっぱり同じなんだろう、と考えた。
アイツ、アイツ……。
トシは、それ以上考えることを止めてキャプテンの後ろ姿を見送った。それから隣の席にいたちひろは、いつものように話を聞いていないふりをしていた。
そして最後の瞬間、それは放課後の廊下だった。
体育館では、投票が続いていた。ほとんどの生徒が投票を済ませてから下校した。大磯さんとトシは、入り口にあたる扉の前で椅子に座り、投票用紙を配る役を務めていた。机に積まれた投票用紙もそろそろなくなりかけている。一方、戸塚さんは会場内で、投票に来た生徒たちに投票の主旨や手順を説明してまわっている。とても忙しそうだ。
きっと、どこの学校にもいるだろう。成績優秀で、生徒会の役員で、学校行事などに活発に参加するまじめな女の子が。戸塚さんもそのひとりだ。「気まじめ」「媚びている」「気取っている」などと、嫌う人がいるかもしれない。最初は彼も、無関心だった。類は友を呼ぶ。彼女のような女の子は、恋愛に関してもまじめな男の子。例えば、生徒会長とか成績優秀な男の子や、スポーツ万能な体育会系の男子と付き合うという概念がトシにはあった。だから、あの放課後、階段の踊り場で彼女から胸の内を告白されたときは、予想外の驚きだった。
その後、彼女とはなぜか仲良くなれた。それはカレンの存在が大きい。もし、彼女が戸塚さんの気持ちを察してあげなければ、グチャグチャした関係になっていたかもしれない。
それにしても、なぜ、と考える。
ラジオの深夜放送ばかり聴いて、昼休みはいつも寝ている。成績も中の下といった感じの、いわば劣等生だ。外見もカッコ悪い。カレンがそう言っていたっけ。取り柄などひとつもない。でも、カレンも戸塚さんも自分のことが好きらしい。どうしてだろう。それから、あのとき二人は何を話していたのか。今もって謎なのである。
以来、制服問題に取り組む姿勢やら、戸塚さんのことをずっと見てきた。親友の相談を受けたり、しだいに好感を抱いている自分に気がついた。それにしても恵太の告白には驚いた。紹介したいけど、もうこれ以上複雑な関係になるのはゴメンだ。今、投票会場でがんばっている彼女の姿を視線で追いながら、彼はそんなことを考えていた。
「辻堂君、大磯さん、あと三〇分くらいで終了です。疲れたでしょ。ハイ、これ。差し入れよ。紙コップでゴメンね」戸塚さんがやって来て、投票終了を示唆してまた会場内へ戻っていった。差し入れはレモンティー。机に置かれたそれは、温かそうな湯気といい香りを漂わせている。
「スっぱい!」
隣の彼女が思わず叫んだ。
「全然、おいしくない! ふー、疲れたぁ」
レモンティーの湯気が揺れた。大磯さんは大きく息をついた後、残っている投票用紙を机の上でトントンと揃えて数え始めた。
「投票せずに帰ってしまった人もいるみたい。何を考えているのかしら」
用紙は、まだ二〇枚ほど残っている。
「自由投票だから棄権しても責めるわけにはいかないよ」「でも、自分の意思をキチンと示すことって大切でしょ」
トシは彼女の意見を消化しようと、手元にある紅茶をひとくち飲んだ。それから言葉を続けた。
「つまり、自由なんだよ。僕らの役割は無事に投票を済ませて新しいルールを作ることさ。みんなを評価することではないと思うな」
「うーん、新しいルールねぇ。何だか釈然としないわ」
ふくれっ面の表情だった。彼は腕時計を見た。
カレンは体育館へは来なかった。今朝、少し言葉を交わした後、投票準備が忙しくてそれっきりだ。さあ、どうする。このまま顔も見ずに終わりにしてしまうのか。もしかすると、既に帰ってしまったかもしれない。いや、挨拶なしでは帰らないはずだ。カレンのことを考え始めたらトシはいてもたってもいられなくなった。
「辻堂君、私は民主主義の……」
大磯さんが真剣に話を始めようとしたのを遮るように、トシは告げた。
「ゴメン。ちょっと用事があるから」
「えっ」
「トイレ。これも新ルールだ」
「はぁ?」
席を立とうとしたとき、膝が小枝を折るような小さな音を立てて鳴った。
「きみのこと、好きなやつを知っている」と呟き、彼は渡り廊下を歩き始める。「オオカミみたいでさ」背後から彼女が聞き返す。「オオカミって?」トシが答える「ニヒルでいいやつさ」
振り返って、彼女へ向かって今度は大きく叫んだ。
「恋愛中心主義さ!」
教室へ向かう足どりがしだいに速くなっていく。ジェット機が飛び出すように二段飛ばしで階段を駆け上がった。心臓の鼓動が激しくなっていくのが分かった。大磯さんがどんな表情を見せたかは結局、分からなかった。
トシはカレンの名前を口にして何度も呼んだ。教室へ入ると、二、三人のクラスメイトがまだ残っていた。彼らは勢いよく入ってきた彼を驚いた様子で見る。
「カレンは?」「あれ、辻堂君。どうしたの。彼女と会わなかったの」「いや。どこへ」「たぶん職員室。最後の挨拶だって」
来た方向とは反対側に職員室がある。廊下のいちばん先だ。向こうの階段から降りたら行き違いになってしまう。トシはつむじ風のように飛び出した。すると職員室から男の先生といっしょにカレンがちょうど出てくるところだった。彼女のほうも気がついた。
二人の間に長い廊下が続いている。約二、三〇メートルの距離だったが、彼らはすぐそばで向き合っているように思えた。カレンが立ち止まると、先生もトシに気がついたようだ。何やら声をかけて、彼女の背中を押す。が、彼女はグッとこらえて動かない。時間よ止まれ。お願いだから止まってくれ。トシは祈った。そして、彼女が小さく手を振った。
「さよなら」
口元の動きを読んだ。それが最後のシーン。彼女の表情が明るく晴れやかになった。気持ちは既にアメリカにあるのかな。澄み切った笑顔はそう思えた。彼女は新しい夢に向かい大きく羽ばたこうとしていたのかもしれない。
一瞬、ジェットエンジンの轟音が廊下に響き渡る。窓ガラスが揺れた。トシは大きく手を振った。まっすぐに伸びた廊下は、まるで滑走路のようだった。
不思議と、別れの辛さや哀しさは感じない。彼女の顔が見れて、挨拶ができて、安堵感でいっぱいだ。しかし、トシは我慢していたかもしれない。最後の瞬間を、彼女の笑顔を、心に深く刻み込んだ。
永遠の記憶の中へ。
「私のそばにずっといて」彼女の言葉がよみがえってきた。ゴメンね、約束を守れなかった。指で目をこすりながら、もういちど職員室のほうを見直した。静寂の中でひんやりとしている廊下に、彼女の姿はもうない。
夜明けは遠かったが、カレンとトシの集中講座は終わりだ。
彼は指を唇に当てて余韻をかみしめた。すると少しだけ甘酸っぱい味がした。




