■第26章『聖なる公園』
公園は、静寂というBGMに包まれていた。
「トシ君、この間ね」「何かあったの?」
横目でチラッとカレンを伺う。
「うん。この間ね、お父さんが学校へ行ったらしいの」
公園という静寂の湖に白鳥が舞い降りた。言葉は、会話は、音楽の泉となって二人を揺り動かした。
「お父さんって、アメリカ人の?」
カレンのお父さんはどんな人なのだろうか。背が高くて、スリムで、鼻筋がとおっていて、眼がパッチリ大きいに違いない。ハンサムなんだろうな。アラン・ドロン(彼はフランス人)みたいな。まだ会ったことがないので、頭の中で想像するしかない。
「そう。校門の中へ入るやいなや『外国人が来た』って、みんなが集まってきて大騒ぎになって。学校中ちょっとしたパニックになっちゃったみたい」
彼女のお母さん(母親は日本人)だって美人に違いない。トシは歌手の伊東ゆかりを連想していた。カレンのお母さんだ。絶対にきれいに決まっている。
「お母さんもいっしょだったの?」
「ううん。お父さんひとりで行ったみたい」
「いつ?」
「この間の土曜日。たぶん、トシ君はサッカーの練習で横浜へ行ってしまった後だと思うわ。私もいなかった」
「あ、そう」
彼には話の展開がさっぱり分からない。カレンがなぜ、こんな話をしだしたのか、彼女のお父さんは、どうして学校へ行ったのだろうか。
彼女は話を続けた。
「それでさ、後で聞いた話なんだけれど、学校にいた生徒がみんな集まって来てね。女の子なんかアイドルに会ったみたいにキャーキャー叫んじゃって。お父さんの周りを囲んじゃってさ。『ハロー』、『ウェルカム』とか英語で話しかけてきたんだって」
「お父さん、日本語大丈夫なんだろ」
「もちろんよ。もう二〇年近くいるんだもの。日常会話くらいできるわ。でも、まるでアイドルのような歓迎ぶりに、お父さんのほうもビックリしたみたい」
「ハハ、何となく想像できるな。学校のみんなも、きみのお父さんも、どっちも驚くよね。パニックだったろうな」
「そうなの。でもね、お父さんが『コンニチワ』と日本語で話し始めたら、みんなガッカリして去って行ってしまったらしいの。何だかおかしくない?」
「ハハ、そっちのほうが笑える」「でしょ!」
彼女は立ち止まり、満足そうに空を見上げて大きく息を吸い込んだ。学生カバンを道端に下ろし、それから自分の肩にあった彼の手を取った。
「どうしたの?」
「なんでもない」そう言いながら首に巻いていたダークブルーのマフラーを、トシの首元へ。「手、寒かったでしょ。今度は私が暖めてあげる」
カレンは、トシの両手を持ってさすりながら暖めた。
そうした彼女のひとつひとつの仕草がとても可愛くて、トシは今の自分がとても幸せに思えた。しかし、カレンのお父さんの話が途切れてから、何となくお互い無口になってしまった。なぜ、お父さんの話を切り出したのか見当がつかなかったし、あまり深くは考えずにいた。自分のほうは彼女に対しておもしろい話をしてあげられない。内心、困っていた。話せることと言えば親友の恵太やカツのことくらいだ。
いろいろ思案しながら、またしばらく歩いていると、向こうから大学生らしき二人組がやって来るのが見えた。何やら、こちらを見てひそひそ話をしている。
ひとりは、顎が角ばった四角い顔をしていて、長い髪が肩まで伸びている。真ん中から分け目があっておでこが無用心なほど丸見えだ。紺のデニムのジャケットに黒いマフラーをしていて、ジーパンはパンタロンのように裾が広がっている。学生運動を廃業して大学のサークルでフォークギターでも弾いて歌っているかのような印象だった。もうひとりのほうも肩まで伸びた髪をなびかせ、お揃いのジャケット姿。その下に白色のブラウスに赤いセーターがのぞいている。胸の大きな膨らみがなければ、どちらがどちらか見分けがつかなかっただろう。
「こっち見てるよ」カレンに話しかけた。トシは、少し動揺していた。女の子と二人っきりで井の頭公園を歩くのは初めてだから周囲の目が気になった。「関係ないわ」彼女の言葉とは裏腹に、カップルの視線がやけに気になった。
「こっち見て笑ってるよ」彼の言葉は彼女には届いていない。別のことを考えているようだ。遠くのほうから、電車の音が聞こえてきた。井の頭線だ。しばらくして電車が遠ざかると、また公園内に静寂が戻った。落ち葉を踏みしめる音だけが哀しげに響く。
「関係ないわ」
二人は下を向いたまま。そして、四つの影がすれ違う。その瞬間、聞こえたのだ。
「ガキのくせに」
カップルの男がそう呟いた。ショック。やっぱり子どもなんだ。高校一年生は、大人としては見てくれないのだろう。悔しかった。今度は、彼のほうが仕返しするように呪文の言葉を小さな声で唱える。「あいつら、別れちまえばいい。別れろ。別れろ」
彼の言葉に反応したのはカップルではない。カレンが立ち止まった。「トシ君、井の頭公園の、えーと何て言えばいいかしら。伝説というか噂というか、それって本当なの?」
木の葉が落ちてきただけで倒れて死んでしまいそうな声だった。
「うん、本当らしいよ。ここでデートしたカップルは別れるんだってさ」
「……」
突然、彼女は表情を強張らせてトシの胸の中へ顔をうずめてきた。一体、何事かと驚いた。二人は立ち止まる。「おと、さん、が。わ、た、も、もう、あ、え、……」泣いている。「えっ、何だって?」
何を言っているのかさっぱり分からない。言葉の意味も泣いている理由も、彼には、チンプンカンプンだ。二人は、並木道の真ん中で立ちつくしていた。後ろを振り返ると、さっきのカップルがこちらをジロジロ見ている。
「一体、どうなっているんだ」トシは、独り言のように呟いた。そして、ポケットから白いハンカチを取り出して彼女へ渡した。「こんなときに役立つなんて」。学校の規則で男子は必須だった。「泣かないでくれよ」彼は、彼女の髪をそっと撫でた。何度も優しく撫でてあげた。「悪かった。井の頭公園の噂は関係ないよ。もう何も言わないから」とにかく謝りながらカレンを軽く抱きしめると、ようやく泣き止んでくれた。でも、体はまだ小刻みに震えている。彼女が顔を上げた。
「お父さん、教頭先生と担任の真鶴先生に別れの挨拶をしたんだって」
「はぁ?」
「アメリカなんて、行きたくない」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「行くのか?」
「わ、分からない」
「な、なぜ」
目の前が真っ暗になった。と同時に、悲しみが彼の体の内側から、フツフツとこみ上げてくる。
「転校するのか」
彼女は意気消沈して、ただゆっくりと頷くだけ。
そして沈黙というBGMが二人の世界に流れた。
トシは何も言えなかった。――――どこにでもある、ごく普通の公園だったにもかかわらず――――、それでも彼にとっての聖地となった。信仰とか熱情とか宗教的なもの、またはイングランドのウェンブリーやイタリアにあるギザッロ教会のような意味合いの聖地ではなく、その基準は曖昧だったけれど(後日談として、そのころ『森の生活』(ヘンリー・D. ソロー)に熱をあげていた、ことが影響していたかもしれない)、その聖なる地で――――彼はジャクソン・ブラウンのようには歌えなかったにせよ――――代わりに誰かが「青春、青春」と言った。




