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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第25章『中世の騎士』

 一人目、二人目、そして、これが最後。


「トシ君、昨夜どうもありがとう」


 三時限目の休み時間、カレンがトシの席へやってきた。面接官になったみたいだ、と彼は思った。自分に会うため、休み時間を利用して次から次へと人がやってくる。残念ながら、ひとりは保留にし、もうひとりは不合格にした。彼女もまた眼の前に立っていた。


「ねぇったら」。綿菓子のような声でカレンは、机の上にあった彼の手を両手で柔らかく握った。


「合格!」と、トシは叫んだ。


 彼女はキョトンとしていた。


「ねぇ、部活がないから今日は早いの。いっしょに帰ろ」トシから誘おうと思っていたら、彼女から切り出してきたのだ。


 朝からいろいろなことがあった。戸塚さんといっしょに登校し、恵太から相談を受け、上級生のひとりと話をした。ドギマギの連続だった。でも、こうしてカレンと話しができて、再びいっしょに帰る約束をした。彼は満足した。


 カレンはいつまでも彼の手を離そうとしない。


 面接官は誘惑に負けてしまった。「分かった。ゆっくり話そう。この前みたいなことはなしだ。いいだろ?」


 薄い笑みを浮かべて応えると、彼女はまるで新しい話しを切り出すような明るい口調で続けた。「井の頭公園へ行きたい。この季節は公園は静かだし。二人きりで大事な話をしないといけないわ」 


「えっ、うん、分かった」


 大事な話って一体なんだ。ちょっと不安に思った。戸塚さんのことか、制服問題についてか。上級生のことか。それら全部か。それとも、まったく違うことなのか。考えてみても答えは見つからない。考える分だけ、悪い予感だけが増幅されていくようだった。


 困った。もしかすると、自分が面接されているのかもしれない。彼のほうから手をそっと離すと、彼女の表情が寂しそうだった。


「そんな顔するなよ」。そう言いたかった。できることなら一日中、きみの手を握っていたいのに。その日の授業はいつにもまして、うわの空だった。午前中の授業はそうやってつぶした。黒板を見ている自分と、そうでない自分の二人三脚。先生の話に耳を傾けている風で実はまったく違うことを考えていたりする。こういうのは、結構、トシは得意なほうだった。


「カレンは悩んでいる」


 京介さんの言葉を思い出す。彼の言うことが本当ならば、「アイツ」はまず最初にキャプテンに近づこうとした。しかし、彼女はそれを嫌った。そこで「アイツ」から逃れるために京介さんと付き合い始めたのだけれど、二学年の夏季留学選考で彼女は落選し、京介さんが合格したことから二人の仲がギクシャクしてしまった。それから次にはカレンが……。京介さんが、ときおり仲間たちと下の階へ降りてきて教室を見回っていたのも、ナンパをするのが目的ではなかった……。


 しかし、考え方をまったく違うふうに変えてみる。もしや、京介さんの「従兄妹」というのも作り話で苦肉の策なのかもしれない……。恵太の言うことも一理あり。


 トシは黙考した。


 もしや……。キャプテンやカレン自身から誰にも言わずに内緒にしてほしいと、京介さんは口を堅く閉ざすように言われているのかもしれなかった。さらには、京介さんは自分も同じだと答えた。彼は想像した。京介さんが自分で、キャプテンがカレンだとすると……。それはどういうことなのか。ちょっとでもそういう方向へ考え始めると、彼はいたたまれなくなり考えるのを中断してしまった。


 結局、どこから見てもアイツに焦点が集まる。でも、何が何だかよく分からない。あの用務員さんとの一件。体育館で聞こえた物音。それらすべてが謎だ。謎が謎を呼んだ。分からない。さっぱり。答えを引き出すのに、自転車でフランスを一周するくらいかかりそうだった。


 そして、下校の時間を迎えた。


 正門を抜けて外に出たとき、またカレンのほうから手を握ってきた。今日は何だかおかしい。下校する生徒たちが、ジロジロ見ながら追い越していく。でも、彼女はまったく気にしていない。ときおり、頬を彼の肩に当ててきた。彼のほうは、恥ずかしくないと言えば嘘になる。誰も見ていないところで甘えてくるならばいいけれど、下校の途中でラブラブ状態になるのは男としては照れる。ほかの人はともかく、女の子といっしょに帰るなどというのは、トシにとっては非日常的な行為なのだ。


 しかも手をつなぐなんて!


 それでも選択権は彼女にあった。彼女しだい。彼のほうが彼女に従った。恋愛は女の子しだい。あの言葉が再びよみがえってくる。彼は鎖につながれて連行される年老いた囚人のような気分だった。


 道端に雑草が細々と生えている。たぶんノコンギクだろう。ごくありふれた花で誰も見向きもしないけれど、今の彼にはとても羨むべき存在に見えた。


「周りのことは気にしないで。今日は特別なんだから」彼女は囁いた。


 大事な話があるとか、特別だとか、意味ありげな単語を並べてどうしたっていうのか。横目でチラリと彼女を伺う。長い髪、筋の通った鼻、色白のきれいな肌。前髪が横向きに垂れて彼のほうからは瞳が見えにくく、彼女の表情を読み取ることはできなかった。首には紺色のマフラーを軽く巻いて背中にたらしていた。手を握る反対側の手には教科書やノートがいっぱいつまった黒い学生かばん。「持とうか?」とトシが尋ねると、黙って首を横に振った。


 しばらく、二人はそのまま歩いた。


 学校から公園へ行くルートは、いくつかある。彼らはいちばん遠回りをして、井の頭公園駅ルートへ。公園まで徒歩でおよそ二〇分だ。どちらから言葉をかけることなく、自然に二人の足がそちらへ向かった。途中で、C組の大磯さんの後ろ姿があった。制服審議委員会の一年生代表として、彼といっしょにアンケートを行なった。黒髪のおかっぱ頭ですぐ彼女だと分かった。井の頭線に乗って家へ帰るところだろう。


「まずいな」


 トシは、大磯さんにあいさつしようか迷った。声をかけるのであれば、カレンと手をつないでいるのはやっぱりまずいだろ。彼女といっしょに帰る姿でさえ本来ならば見せたくはなかった。


 と、次の瞬間には、カレンが自分の手を引っ張りながら大磯さんへ声をかけていた。


「こんにちは!」


 トシはすんでに絶叫するところだった。


 嬉しそうなカレン。振り返る大磯さん。そして、彼女の視線がカレンからトシの顔へ移り、さらに、つないだ手へと。


「彼女を送っていく途中なんだ。ハハ」


 笑ってごまかそうとした。


「ふーん、手をつないでね」


 笑いは、彼女の細く険しい視線にあって砕け散った。


「えーと、同じ組の藤沢さんです……」「知ってるわ」「え、なんで知ってるの。あ、そうか。制服のアンケート調査してね」彼のほうからお互いを紹介してあげようとしたけれど、彼女らは既に顔なじみなのか。「私たち、付属中学時代からの友だちよ。高校から入ってきたトシ君は知らないだろうけど」


 おどおどして支離滅裂なトシの立ち振る舞いに、カレンはあきれ顔だった。


「制服問題、全校生徒による投票に決まったみたいね。良かったわね」と、カレン。一体、彼女はいつどこからそんな情報を聞きつけたのだろう。その決定は公表されてはいない。誰かが彼女に話したとしか思えなかった。もしかすると、戸塚さんからだろうか。


 大磯さんもいぶかしげな表情を見せながら、会話を続けた。


「よく知っているわね。投票結果がどうなるか分からないけれど、来年度四月から実施されるそうよ」「私、用務員のおじさんから聞いたの。ちょっとだけ」


「あのおじさん、何でも知っているのね」


「えっ、あの中世の騎士のこと?」トシは、驚いた。


 思わず口から飛び出した。トシが手で口を押さえたときは時すでに遅し。それは妄想のようにこびり付いてトシの頭から離れることはなかった。用務員さんは普通の人だ、怪物でも何でもない、と自分に言い聞かせようとしても、イメージは牛の烙印のように脳裏に焼きついていた。


「なによ、中世の騎士って」と、大磯さん。


「私、知ってるわ」と、カレン。


「え、本当?」


 彼女が唾を飲み込むようにして大きく頷く。次には呪文のような台詞が口から漏れる。


「中世から伝わる……守護神で……物事の真理を見抜き……ギリシャ神話のアルゴス……四六時中たくさんの眼を光らせ……時代を築き上げていく……」


 おお、とトシは後ろへのけぞり倒れそうになった。たとえ誰かがトシの足元へ爆弾を投げたとしても、これほどは驚かなかっただろう。


「でも、それと用務員さんと、どういう関係があるの。まさか……」


 カレンは、肩をすくめて見せた。


 大磯さんは、カレンとトシの二人の表情を伺いながら、次には大声でこう言うのだった。


「ばっか、みたい!」


 そうかな。そうだといいのだけれど。一抹の不安が頭をよぎる。トシにはまだ確証はなかった。それでもあのグロテスクな老人の存在は、何かひっかかるものがある。例えば、花壇から屋上へ視線を向けて何を見たのか。なぜ、屋上の開かずの扉の鍵がはずされていたのか。どうして、彼はあのタイミングでカレンといっしょにやってきたのか。


 トシも、肩をすくめて見せる。


「でも、カレンちゃんやあなたの言うのも一理あるかもね。いずれにせよ、用務員さんは得体の知れない人よね。気味悪くて誰も寄り付かないし……」


 最後は三人で顔を見合わせ、お互い肩をすくめてしまった。


 と、突然、彼らの横を子どもたちが乗った複数の自転車が坂道を滑るように通り過ぎて行く。そのときだ。あの音が聞こえたのは。


「あっ、あのベルの音は確か……」


 トシが耳をそばだて、その音を吟味しようとした。すると、隣にいたカレンが寄り添うように、怯えるように彼の腕を掴んだのでそちらのほうに注意が向いてしまい、体育館で聞こえた音と同じだったかどうか、判断することができなかった。ペダルから足を離して勢いよく坂道を下る子どもたちを、しばらくの間眺めていた。すると用務員さんの話は自転車とともにどこかへ通り過ぎてしまった。


「どうかしたの?」


「う、うん。何でもない」


 しかし、音は悪魔の呼び鈴のように、カレンとトシそれぞれにまとわりつき耳元でかすかな余韻として残った。カレンは、忘れかけていたことを思い出しそうになったけれど、隣にいる彼の存在が、暗い過去へ引き戻されていくのを防いでくれたのだった。


「で、その投票日って、いつ?」


 話を変えようと、カレンが尋ねる。「えーと、まだ決まったわけじゃないけれど。来月十二月の中旬くらいになりそうだって」「ふーん」「藤沢さんも、投票よろしくね」「そうねぇ……」


 彼女の言葉は力なく、どこか他人事のように空中に漂っていた。それから我に返ったように大磯さんを褒め称えるのであった。


「大磯さんも、がんばったわね」


「ありがとう。自分よりも佐藤君のおかげよ」


「いろいろあったけれど」


「そうね……」


 大磯さんは、二人を見つめながら「中世の騎士とか、自転車のベルで物思いにふけったり、変な人たちね。本当に付き合っているのかしら」と、考えていたかもしれない。


 三人の間に沈黙が走る。三人が三人ともまったく違うことを考えているかのように、その後の会話は続かなくなった。


「じゃ、井の頭線で帰ります。また明日……」


 気を遣ったのだろう。大磯さんが小走りで駅のほうへ去って行く。しばらくの間、トシはその後ろ姿を眼で追った。


「ダメ。そんなに彼女を見てたら」


 腰に手をやり、大声で彼は笑った。「嫉妬してる!」


 ちょっとからかったら、彼女は泣きそうだ。「ああ、悪かった」


 彼女は、彼の腕に抱きついてきた。「分かった。カレン、そんなに強くつかんだら骨折しちゃうよ。大磯さんの前でカレンとは言えなかったよ」彼は笑った。「トシ君のこと、離さない」彼女も笑った。


 駅へ続くまっすぐな下り坂。二人の長い影が踊っているように見えた。あるいは酔っ払いのような千鳥足だったかもしれない。酔っていた。アルコールではなく、何か違う特別なものに酔っていたのだ。


 それにしても、今日のカレンは変だ。「大事な話」とか「特別」とか言ってみたり、大磯さんとの会話では、何かうわの空のような素振りを見せたり、いつもと違う。例の手紙の件や、昨夜の上級生との経緯が関係しているのだろうか。どうすれば彼女を元気づけられるだろう。


 突然、大きな音がした。トシがそちらのほうへ視線を向けると、いくつもの人の影が改札口へ吸い込まれていくのが見えた。井の頭線だ。おかっぱ髪の彼女を探したけれど、マッチ棒のような人だかりで見えなくなっていた。


「行っちゃったわ」


「そうだね」


 二人はまた、ゆっくりと歩いた。


 駅の左横にある小さな階段を下りてなかへ入いると、そこは別世界だった。


 秋が深まるこの季節。駅前のにぎやかさに比べ、公園を散策する人はまばらだ。空から枯葉がパラパラ散っている。地面には何層かの色の違った枯葉と腐食して砕けた木片がいっぱい。それらを踏みしめる音だけが寂しく響いた。


「寒くないか」彼は優しさをこめた口調で言った。つないでいた手を離し、カレンの肩に腕をまわした。


「ちょっとだけ。でも大丈夫」


 お互い体のぬくもりが伝わるくらい寄り添った。二人は何も言わずにユラユラ歩いた。


 体育館の再現。


 ひとつ違っていたのは、ここは公園だった。

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