■第24章『アイツとは』
それは一時限目の授業が終わった後の、休み時間のことだった。
「よぉ! 元気か」
まるで無二の親友のような挨拶をしながら、来てくれなくてもいい京介がひとりでトシのクラスへ入ってきた。
周囲は静まり返った。誰もが注目した。野獣の臭いがした。
オールバックの髪が銀色に輝く。日本国憲法も、法律も、警察も、常識も通じない、密林のジャングルで生きるために野生のルールによって築き上げられた王国の主たる風格。威厳。オーラ。彼が歩くと、すべての人が振り向き、そして、平伏す。それほどの存在感を、外の空気といっしょに持ち込んできたのだ。
「はぁ」
トシは何とも気の抜けた返事をした。
「ちょっと暇はあるかい」
「うん。ちょっとだけなら」
どうでもいいような顔でトシは答えた。
そのときの彼は、一時限目の授業の余韻にとっぷり浸っているところで、そのため予期せぬ来訪者への対応が少しばかり疎かになってしまったのだった。
それは、担任の真鶴先生によって行われた。それほど長くない髪を後ろでポニーテールのようにきつく束ね、おでこが丸出し、怒っているかのようにつり上がった眉毛と極細の眼が印象的で、白色のブラウスの下のブラジャーが透けて映っていて、それはそれなりにセクシーだったけれど(バストは八五のBカップかな)、薄化粧なので頬の辺りのソバカスがうっすらと見て取れ、ハキハキした口調とともに、とても三〇過ぎだとは思えない若々しさがあった。
「英語の授業だけど、みんなにちょっとした問題を出したいと思います」
そう言って、先生は黒板にカタカナで三人の名を書き始めた。と言っても、フルネームではなくファーストネームの部分だけである。
●エブラハム
●ジョン
●マーティン
黒板に三つの名前を赤色のチョークで書き込んでおいてから彼女はこう言った。「誰か、この人たちを知っている人はいますか?」
教室内は沈黙した。
「三人には共通点があります」
みんなは考えている様子だった。
「私の好きな歴史上の人物です」
誰かの小声が聞こえた。「真ん中は、ジョン・レノンじゃないか」
先生はにこやかな表情を作って見せる。「残念でした。でも、近いかもしれないわ」 教室内は、再び静寂に包まれた。
最初、トシはチンプンカンプンで難しい問題だと決めつけ、考えるのを諦めていた。「どうせ、頭の悪い自分には答えなど分かるわけがない」と。が、しかし、誰かがビートルズのジョンの名前を言ったので、音楽好きな彼は、自然に先生の出題に集中することができた。そして考えた。
「あ、もしや」思わず口にしていた。
「先生、いちばん左はマーティン・ルーサー・キングだと思います」
そのときの真鶴先生の表情といったら、天地がひっくり返ったように卒倒しそうなほどの驚きを見せていた。彼は、してやったりの気分だったけれど、それを表情に出さないように遠慮がちに「自分の答えはどうかな、間違っているかなぁ」という風に、わざと不安げな顔つきと視線を彼女へ返した。
「佐藤君、きみはスゴイわ」
正解。自分がいい子になったようでトシは嬉しかった。
「真ん中は、ジョン・レノンではなく、ジョン・F・ケネディだと思います。それから……」
彼がすべての答えを言う前に、隣の席のちひろが声を出して続けた。
「エブラハム・リンカーン!」
先生は、ちひろへ視線を向けた。「早坂さんもスゴイわね。正解ですよ」
「こいつ、許せねぇ」トシは、ちひろにいちばんおいしい所を持っていかれてしまったような気がして、内心穏やかではなかった。お皿に残った最後の苺を食べられてしまったときのように。横目でチラリと彼女を睨む。トシの刺々しい視線など気にする様子もなく、ちひろは顔を真正面に向け、自分は正解をちゃんと知っていたという風にごく当たり前の表情で真鶴先生のほうを見ていた。
「こいつ憎たらしい!」
ちひろに至っては、いつもトシに冷たくされている仕返しができて心の内でとても満足していたのだった。
そして三人とも有名な演説を唱え、それは歴史の授業でも習った記憶が薄っすらとよみがえってくる。しかし、これもまた三人の共通点として最期、射殺されてしまったというショッキングな事柄のほうが印象に強く残っていた(※ジョン・レノンは一九八〇年十二月八日、射殺された)。その後、真鶴先生は彼らの演説や、自由について、時代背景など、いろいろ解説してくれた。最後には「何が悪くて何が正しいかを、みんなもよく考えて自分の道を歩んで……」などと、ちょっとした人生論で締めくくった。
英語の授業だった。しかし、それは歴史であり、政治であり、法律であり、哲学であり、情熱であり、精神であり、国境のない世界地図でもあった。
そんなことを休み時間に思い出していたら、アイツが教室へ侵入してきたのだ。昨夜、屋上で対決したばかりの上級生のひとり。カレンの従兄……。オールバックにした長い髪。ポマードでテカテカ光っている。学生服のボタンをはずし、中の白色Tシャツを強調していた。シャツは着ていない。歩くたびに学生服の銀ボタンがキラキラ光っている。ズポンはダブダブのボンタンで、左右のポケットに手を突っ込んだまま。これがいちばんカッコいいと見せびらかしている風なのが一目瞭然だった。
「昨夜の続きだ」
彼がトシの机の前へやって来て、立ちはだかった。トシは椅子に腰掛けたまま身動き一つできない。
「何でしょう」「とぼけるな」
京介は、ポケットから両手を出し、軽くもみほぐすかのように動かして見せた。トシは、机の上の両手を上げ、相手に手の平を見せ降参のポーズを取った。
彼は言った。「二人の関係についてだ」「誰と誰の」彼は続けた。「アイツだ」「アイツって」彼は答えた。「ケダモノみたいなやつさ」「そんなやつが学校にいるんですか」彼は頷いた。「ああ、人間の面をした悪魔なんだ」
そのときの教室の雰囲気は普段とは違っていた。たまたま教室にいたクラスメイトらによって包囲されていたことは確かだ。何か言うたびに、彼らは、フクロウのような眼つき、うさぎのような耳をこそこそ動かしている。二人の会話は、吉祥寺を歩く人々にまで盗聴されていたかもしれない。彼を見つめたまま顔を動かさずに、トシは意識だけ教室の隅々まで気を配ってはみたけれど、そこにカレンがいたかどうかは定かではなかった。恵太やカツの存在も希薄に思えた。この間のように助っ人には加わらないだろう。ただ隣の席のちひろだけは、いつものように黙って小説を読んでいた。読むふりをしていただけかもしれないが。
「休み時間も少ないから手短に話す。二年の夏のことだ」
京介は周囲の眼と耳が気になったのか、教室内をぐるりと見渡した。すると、半径五メートルくらいにいたクラスメイトらが、カニのように横向きで恐る恐る一〇メートルくらい離れていった。カニさんたちは、今にも口から泡を吹き出しそうだった。
彼の話は、意外に興味深いものだった。バドミントン部のキャプテンと彼は付き合っていたという。キャプテンの名は、茅ヶ崎牧子というらしい。
これからが本題だ。
毎年、学校では二年生を対象に夏休みを利用したアメリカ短期留学生を募集している。応募する生徒は大勢いた。なにせ、旅費は学校側の負担なのだから。しかし採用されるのは男女一名ずつ。簡単なテストと面接が行われ、留学生としてふさわしいかふるいにかけられる。彼と彼女はそれに応募した。もっとも彼のほうは留学などにまったく興味はなく、二人でいっしょに行けたらいいという彼女の願望に乗っただけなのだった。彼女のほうは周囲からは成績も優秀でクラブ活動も活発に行い、模範的な生徒と太鼓判を押されていた。一方、彼は不良の烙印を体中あちこちに張られていたのだった。当然、彼女のほうは合格し、彼は残念な結果に終わるだろうと予想された。ところが結果はまったく正反対。彼のほうが合格したのだ。その理由はともかくとして、予期せぬ結果が二人の仲を微妙に揺るがすことになった。
彼女は、失意に包まれ自信を喪失させ、学校への不信感と彼への嫉妬に燃えた。彼のほうは、意気揚々と結果を受け入れ、それまであまり興味のなかった留学へ執着することになった。
そして、二人は別れた。
「オレは、牧子が喜んでくれるだろうと思ったが、彼女の反応は違っていた。そこに本心というか、本性と言ったほうがいいのかもしれないが、人間性みたいなものを垣間見たような気がしたんだ」「素直に喜んでくれなかったんですね」
彼は頷く。
「自分本位なんだよ。外見とか損得とか体裁とか考えている。自分が幸せになりたいだけなんだ。すべてアイツのせいだ」
「アイツって、誰なんですか」
「分からないから困っているんだ」
「牧子さんは、あなたとカレンのことを」
「ふん。関係ないね。秘密さ。誰にも話していない。嫉妬とか誤解とか、くだらん感情で動かされるほうが悪いね。オレは悪役でもかまわんよ」
今度はトシが頷き、彼は話を続けた。
「ところで、オレは卒業したらアメリカへ行く。短期ではなく、今度は大学留学さ。卒業したらあちらで何か仕事をしたいと思っている」
「どんな仕事を?」
「いや、まだ決めていない。留学しながら自分の将来を決めたいのさ」
「ほかの人たちは?」
「リーゼント頭の八津はな、実は美術部の部長さ。天才肌でな。絵を描かせたらすごいんだ。アートっていうやつさ。アイツが変わっているのは、自分の才能を美術ではなく、建築のほうで活かしたいらしい。親父が大工でよく手伝っていたからな。高校を卒業したらドイツで建築アートの勉強をして、近い将来はタイかベトナムか、東南アジアへ渡り、学校や図書館を作るのが夢なんだよ。子どもみたいにツッパるのは高校でおしまいだと」
「へぇ、人は見かけによらず、ですね」
「そうさ。細野だって。あのクマみたいなやつさ」屋上の決闘を思い出したのだろう。京介は笑った。「みんなと同様、高校を卒業したら留学する。図体のでかい彼だが、将来はケーキ職人になりたいらしい。スイスの、えーと何て言ったっけな。あ、そうそう。バーゼルへ留学するんだと。あの細野がだぜ。名前もやることも、体つきにはまったく似合わねぇかもしれないがな。スイーツが好きなのは、クマのプーさんそっくりだな」
今度は腰に手をやり大きく笑った。トシも噴出してしまった。が、京介はすぐに声を細め、耳元で囁くように話しを続けた。
「いいか。アイツの正体は分からない。牧子はオレに助けを求めてきた。だから付き合ったのさ。アイツは、オレと付き合い始めた牧子から手を引いたよ。でもな、彼女の次はカレンかもしれない。薄々は感じてはいたが、何もできやしない。オレたちは校内を見回ってアイツの正体を突き止めて叩きのめそうとしていたんだが……。この間は、てっきりおまえだと勘違いしたりしてな。すまなかった」
「ところで京介さん、キャプテンはいまだにあなたのことを……」もはや何も説明はいらないと言った風に、彼は首を横に振ってその場を去って行った。最後、こう付け加えた。
「カレンは悩んでいる。病んでいると言ったほうがいいだろう。これは勘でしかないが、カレンもアイツと関係を持ってしまったのかもしれない」
トシは黙って彼を見送りながら、体育館の壁に書き込まれた相々傘のことを思い出していた。
彼が去ってからしばらく空白のときを過ごした。いろいろ考えなければならないことが山ほど見つかったのだけれど、その山があまりに大きすぎてどこから手をつけたらいいのか……。
そして、二時限目のチャイムは不意打ちだった。




