■第10章『告白される』
放課後、遅くまで教室に残る生徒には、何か理由がある。
トシはひとり教室に残り、窓の外を眺めながら彼女を待っていた。雨が小降りになってきたとはいえ、校門付近は色とりどりの傘が咲いていた。そして、視界からどんどん消えていく。時間が経つにつれその数は減り、寂しさが増えていった。もう辺りは薄暗い。
雨、雨、雨。
午後五時になると前面道路の街灯に明かりが灯り始めた。
バドミントン部の練習をしている体育館だけが、とても明るかった。そろそろ、部活も終わるだろう。彼は、カレンと待ち合わせをするためにゆっくりと教室を出た。廊下を歩き、一階へ降りようとした。すると階段の踊り場に誰かいる。女の子がひとりで立っている。それだけなら通り過ぎていてもおかしくはないのだけれど、そのときの彼は違っていた。何か心に引っかかるものがあった。
彼は立ち止まった。
かゆい。
どこからともなく蚊が一匹、トシの右手を刺したのだ。無意識のうちに刺されたところをこすってしまって、手に小さな赤い点ができていた。痛い。でも、彼が立ち止まったのは蚊のせいだけではなさそうだった。
その子は、横向きで踊り場の大きな窓から、裏庭に広がる森を静かに見つめていて、独特の雰囲気をかもし出していた。
A組の戸塚美枝子。
一年生の中でもトップクラスの秀才。生徒会執行部の書記を務めている。頭がいいという評判だけは知っていた。ほとんど口をきいたことはない。黒ブチのメガネをかけ、いつも参考書を持っている、ガリ勉タイプの目立たない存在の女の子という認識しか持っていなかった。でもその横顔は、どことなく寂しげで美しいまでに物静かだった。通り過ぎようとしたが、もしかしたら傘を持っていないので帰れずに困っているのかもしれないと思い、そっと彼女に声をかけてみた。
「あのー、戸塚さんですよね。傘持ってないの?」
彼女は黙って外を見つめていた。トシは無視されたと思い、そのまま立ち去ろうとした。その瞬間だった。かすかに泣き声が聞こえた。
「どうしたの。もう遅いから帰ったほうがいいよ。雨も小降りになったしさ」反応がない。「うーん、金本さん。先生呼ぼうか」シクシク泣くばかりで何も話そうとしない。
困った。バドミントン部の練習は終わるだろうし、カレンといっしょに帰る約束がある。「じゃぁ、また」と言って、立ち去ろうとしたその瞬間。彼女が囁くように小さな声で彼を呼ぶのが聞こえた。
「えっ。な、何か。僕、急いでいるんだ」
そう言って階段を下りかけた。するとまた小さな声。
「ラジオ、聞いたの」
「あっ」
窓を背にして、彼女が彼のほうを振り返った。頬から涙がこぼれ落ちるのが見えた。それはまるでスローモーションを見るようだった。彼女と彼は向き合い、眼と眼が合う。涙目でありながらも優等生らしくその素振りは凛として、黒ぶちメガネの奥から険しいまなざしが彼を刺す。肩にかかるかかからない程度にまっすぐ伸びたセミロングの黒髪、両手を握り締めて直立不動で彼を見据えている。細くて小さな体はかすかに震えているようだった。
「リクエストカード。噂になってる」
泣いている理由も、その言葉の意味も、彼にはさっぱり分からない。急いでいた。考えている余裕はない。体育館へ行かなければいけない。グズグズしてはいられない。
「それじゃ……」もう行くよ、と言いかけて、再び階段を下りようとするとまた呼び止められた。「辻堂君、もしかすると……。でも、好きなんです」
告白。
したほうと、されたほうの、両者の気持ちの余韻みたいなものが重なり合って、なぜか階段の踊り場が二人を乗せてユラユラ宙に浮いているような気がした。
大きなショックと小さな喜び。
告白した彼女の背後に窓があって、そこから見える裏庭の森がトシの視界に入る。小雨降る森の神秘的な美しさと相まって、眼の前に立つ女の子の姿がとても印象的だった。
雨、雨、雨。
TVやラジオのニュースによれば、あちらの戦争も最終展開を見せ始めているとのこと。止まない雨などない、という何かの台詞のごとく、トシはそれについてあまり深くは考えていなかったにせよ、いろいろな問題が山積みになって、戦争の傷痕だけが残るということくらいは理解できた。必要なときに傘はあったほうがいいけれど、雨は必ず止む。
傘、傘、傘。
人々は困惑しているのかもしれない。かっこつかないもん。
「いつもひとりで寂しそう。カッコ悪いし、何となく孤独で寡黙な男の子……」
優等生と劣等生。金本さんとトシ。立場や中身は正反対だったが、異性にモテないという点では共通項があった。彼女には彼の孤独さが身にしみて分かったのかもしれない。それにしても、このカップルの組み合わせは、カレンと同様、上手くいく可能性は、お月様が青くなるくらい低いと思われた。
窓の外は暗くなり始めている。森は雨で濡れていた。緑色が深く沈んで見えた。もしかすると外に広がる光景は、そのまま彼女の心情を映し出していたのかもしれない。彼女の涙と深緑の風景が、重なって見えた。これはずっと後になって分かったことだけれど、世界記録にはなっていないにせよ、泣かせたら天下一品の女の子だった。
トシは、急いでいるところに重大な問題を投げかけられて、どう対処していいか分からず、でも、悪い気はしていなかった。これまでほとんど女の子には縁がなかった男が、急にモテはじめたのだ。嬉しいに決まっている。
「あ、ありがとう。でもゴメン、約束があるから」
戸塚さんのことよりも、時間のほうが気になった。すぐに体育館へ行かなければ。一歩、二歩と階段を降りていく。背後に彼女が立っているのが感じられたけれど、彼は急いでいた。
(冷た過ぎやしないか)ふと、もうひとりの自分が呟いた。
確かに。
「どうする?」
やっぱり引き返そうか。階段を下りたところで立ち止まった。泣いている女の子を見て、放って置くわけにはいかない。金本さんは勇気を出して告白してくれたのだから、自分も好き嫌いを問わずに誠意を持ってキチンと対応してあげるべきかもしれない。
(そうそう。女の子には優しくしなきゃ)
一方、カレンとはいっしょに帰ろうという約束がある。揺れた。心が大きく揺れた。でも、階段の上を振り返ると、こっちを見ているし。また大きく揺れた。
夏も終わりになる頃になれば、蚊がやたら人を襲うように、あちらの戦争も最期の局面を迎えるだろう。トシの恋もまた新たな展開を迎えていた。
恋、恋、恋。
こういう場合、どうすべきなのだろう。迷路に入り込んでさまよっているような気分だ。女の子の涙は、分けもなく男の心を揺さぶる。何だか、雨に濡れた森の奥へ、迷宮の園へ、深く誘い込まれていくようだった。




